書名:欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち 著者:香月真理子 出版社:朝日新聞出版 出版年:2009 |
本書は、さまざまな「子どもを性の対象とする人たち」に取材したルポルタージュです。
学術書ではなく、何か一貫した理論や論考が提示されているわけではありませんが、取材を通して諸々のテーマを考えさせる書物になっています。
被取材者(中には知られた事件の当事者も含まれます)を、「異常者」としてセンセーショナルに扱うのでなく、あくまでひとりの取材対象として、その葛藤や生き方を追う姿勢がとられています。
また取材の間に挿入されるコラムは、関連法や矯正教育についての充実した解説になっています。
さて、子どもを性の対象とする人たち、と聞いてどんな人物が思い浮かぶでしょうか。
幼児を眺めてニヤニヤする「キモいロリコン」のイメージでありましょうか、あるいは、女子中高生に執着する「援交オヤジ」のイメージでありましょうか、または、ルイス・キャロルのような耽美的な少女愛のイメージでありましょうか。
本書で取材されている人たちは、「子どもを性の対象とする人たち」とひとくちにいえど、実に多様であります。
見出しを抜き出しておくと、
第1章 少女への思いを文学で昇華させる会社員
第2章 幼女を性的に描く漫画家
第3章 男児に加害し、相互援助グループに通う男性
第4章 “理想の子ども”を空想する元教師
第5章 二次元の少年にだけ萌える女性漫画家
第6章 「ジュニアアイドル」を取り巻く大人たち
第7章 少年タレントを応援するファンたち
第8章 わいせつ行為を繰り返し、服役中の男性
対象の性別だけに注目しても、1・2・6章の被取材者が主に女児を欲望の対象とする人であるのに対し、3・4・5・7・8章の被取材者の対象は、主に男児です。(なお被取材者の性別は5章のみ女性。)
対象となる年齢層も異なります。たとえば1章の会社員は、9歳から14歳までの「大人でもなく全く子供でもない時期」の少女が対象(ちなみにそもそもの「ロリコン」の語源となったナボコフの『ロリータ』においては、まさに「ロリータ」は9~14歳と定義されており、よって厳密な「ロリコン」といえるのはこの人だけです)、これに対して2章の漫画家は、3~7歳の女児にしか惹かれない、というように。
また対象とする「次元」も異なります。たとえば2章・5章の被取材者は「二次元」(=アニメや漫画の登場人物)の子どもを対象としています。ただし2章の被取材者が「二次元」を現実の代替と捉えているのに対し、5章の被取材者は「二次元」にしか興味がなく、現実の男児には興味がありません。
3章・8章の被取材者は、実際に子どもに加害してしまった(=子どもに対し実際に性的行為を行なった)人ですが、他の章の被取材者の欲望はファンタジーの段階に留まっています。ただ4章の被取材者は、直接的に性的接触をおこなったわけではないが、子供の写真(それも残酷な写真)をサイトに載せたことで問題になりました。
さて彼らの談話を読みまず感ずるところは、「子どもを性の対象とする人たち」というと、危険・異常・気持ち悪い、と反射的にイメージされがちであるが、その欲望のあり方は多様であり、また「正常」とされているところの欲望と地続きである、ということです。
ここで「正常」とされているところの欲望とは、成人(の異性)への欲望を指しますが、が、「自分は正常だ」と考えている人の中にも、3歳の幼児に欲情するのは理解できなくとも16や17の子に欲望を抱くのは理解できる、という人は多いのでないでしょうか。法的にはいずれもアウトです。
(なお、子どもの性に関する法律や条例の詳しい内容については、本書3章で概説されています。13歳未満の男女に対するわいせつ行為は「合意」のもとであっても「強制わいせつ罪」となる・13歳未満の女子に対する「姦淫」は「強姦罪」となる・18歳未満の青少年に対する性行為は各地方の条例で制限されている、など)
子どもに向けられる性的欲望を実行に移すことが、なぜ加害とされるのかといえば、子どもには充分な自己決定能力が備わっていないと考えられるからです。とはいえもちろん、グレーゾーンはあるでしょう。また逆に、成人同士の性的行為であっても、完全な合意に基づく行為ばかりではないでしょうし、成人といえど自己決定能力が完全であるわけではありません(たとえば事後的に「あのときはどうかしてた!」「ホントはイヤだった!」と気づく例などもありますよね)。が、法的にはどこかで線を引くしかありません。
すると、法的に実行が禁じられている欲望をもってしまった者はどうすべきなのでしょうか。
これについては、被取材者によって意見は異なります。
たとえば、7章の子役タレントのファンは、「内面は自由である」と述べています。
「頭の中で性的な妄想を描くことは自由だと思う。ただ、その妄想を言葉として表に出しすぎれば変態扱いされるし、妄想を行動に移せば、子どもが興味本位で合意したとしても即、犯罪になる。子役タレントを応援する上で一番大切なのは、理性が崩壊しないように自己管理することです」(173頁)
一方で、欲望を抱くこと自体を否定する人もあります。3章の、男児に加害し相互支援グループに通う男性はこう語ります。
再犯に至らずに過ごせている今は、「たとえ相手が同意しても、子どもとの性行為は絶対にいけない」と考えている。「子どもは自己決定能力をもたない存在。大人との間には、力関係の莫大なギャップがある。だから保護もされているし、虐待の危険にもさらされている」
アニメや漫画は許容範囲とすべきだ、という意見にも反対だ。それだと、「生身の子どもに手を出しさえしなければいい」という論理になってしまうからだ。
「子どもを性的欲望の対象として見ること自体が、子どもの権利に対する侵害です」
(76頁)
その欲望自体が加害的であるとなれば、セクシュアリティを矯正するより他ありませんが、しかしセクシュリティの在り方を矯正するということは可能なのでしょうか。(むろん、それが後天的に構築されるものであるという考え方に則るならば、それは変化しうるものではありましょうが、変化しうるということと外的に「矯正」しうるということはまた違うことです。) この「変えられなさ」についても、本書ではしばしば語られています。
たとえば4章の元教師は、子どもに対して「ほかの人」とは異なる感情をもってしまった苦悩を、このように語っています。
「いっそ、こんな性質がない人間に生まれ変われれば」と、今とは異なる人生を想像したことはあった。この問題と、ずっと向き合っていかなければならないことに失望を覚えたこともある。(107頁)
2章の漫画家は、「異性愛者の人たちだってわざわざ同性と性交渉を試みようとは思わない」という例をあげて、自分も成人女性と性交渉をもちたいという気になれないのだということを説明しています。(それにしてもここで「異性愛者」が引き合いに出されていること自体、いかにそれが「正常」として措定されているかを感じます。)
さらに、そうした欲望を実行に移すと欲望の対象を傷つけることになる、という葛藤もたびたび語られています。
「美しく繊細な少女ほど、不幸な事件に遭うことが多い。私たち大人は可能な限り、子どもたちを守っていかなければならない」(1章・25頁)
「性交渉だってしてみたい。だけど、女の子が不幸になるのはいやだ。そんな思いが、欲望の暴走をどうにか食い止めている」(2章・36頁)
では成人を対象とする欲望ならばこうした葛藤は感じなくてよいのか、といえば、誰にも迷惑をかけないセクシュアリティなどあるのでしょうか? 小児性愛者ではない(と自認する)者ではあっても、自分の欲望が誰かの迷惑になりうる事態は日常的に経験するところであろうし、またポルノがしばしば論争の対象となることが示すように、正常とされるわれわれの性的ファンタジーも、もしかすると誰かにとって加害性をもつものであるかもしれない、という点では、彼らの苦悩も他人事ではないはずです。
*****
さて、上でポルノのことに少し触れましたが、本書では児童ポルノについても随所で語られており、これについての意見も被取材者によって実にさまざまです。
まず児童ポルノに関しては、いくつかのことを分けて考える必要があるでしょう。
たとえば、直接的に被害児童が存在するかどうか(つまり実写かどうか)という区分があります。しかしここでもまた微妙なゾーンが存在します。たとえば、6章・7章で扱われているジュニアアイドルや少年タレントというジャンルは、「ポルノ」であるのかどうか、微妙なゾーンではないでしょうか。ジュニアアイドルを扱った6章では、事務所が過激なグラビアをやらせたくなくてもメーカーがやってしまう、子供はおだてられ、親は違約金や、それ以上に「他人と違う何か」を子供に得させたいという思いのもとに断れない、という例が紹介されています。
カメラマンのこのような談話が記されています。
「中には、本人にとって、いやなポーズもあるんじゃないかと思う。でも現場では、『少しでも名前を売りたい』『その一枚で話題になるなら、かまわない』という母子の熱意に押されて、撮ってしまうこともたまにあります」(p.149)
また、被害児童がいなければよいのか、つまり実写でなく「二次元」ならよいのか、という問いもあります。「二次元」の児童を描いたポルノの規制をめぐる議論としては、東京都の青少年健全育成条例の改正における「非実在青少年」をめぐる議論が記憶に新しいところでしょう。
さてこれらポルノの規制に対しては、被取材者によって賛否が分かれています。
2章の被取材者は、児童ポルノが性犯罪を引き起こす心配も理解できる、としたうえで、「規制一辺倒の風潮」に懸念を示しています。「男は射精さえすれば性的欲求が治まるもの。そして射精させることによる抑止力として、児童ポルノは現実に効果があるというのも否定できない事実だ」「いくら規制を強化しても小児性愛はなくせません。小児性愛者が十分に満足できる代替手段を与えずに、一ヵ所を締めつけても、別の場所で性欲が噴き出すだけ。実際のところ、子どもに手を出さず、何とか踏みとどまっている多くの小児性愛者にとって、最後の砦が児童ポルノ。無思慮に規制したら、今度は現実の女児に向かいかねません」(41-2頁)
一方で、上でも引用しましたが、3章の被取材者は「子どもを性的欲望の対象として見ること自体が子どもの権利に対する侵害」と述べ、アニメや漫画ならよいという意見にも賛成できないとしています。(矯正教育についてのコラムで紹介されている、性犯罪者処遇プログラムに関わった信田さよ子氏の、「性犯罪の誘因となるのは単なる射精欲でない」という指摘も、「射精さえさせておけば性犯罪には走らない」という意見と相反するものでしょう。)
最終章で紹介されている、性犯罪者の社会復帰教育に携わる藤岡淳子氏の談話は、両者の立場をいずれもふまえたものといえましょう。
直接的な被害者がいないといわれる漫画も、「性刺激を過剰に採り入れることによって、頭がセックスでいっぱいな状態を助長するもの」であることに変わりないという。「そんなに簡単に”個人の自由”と言いきれるものではありません。特に12歳よりも前に、『犯罪をした結果、よい目を見た』という間違った考えが入ると、成人してからも、そういった態度をもつようになる危険が認められている。したがって、認知の発達段階に応じて、選択した情報を与えるのは当然のことです。」
しかしそれに続けて、
「かといって成人の場合は、誰しもが、何らかの性的ファンタジーをもっていることも事実。セックスをすべて目の敵にして、何にでも検閲をかけていたら息苦しい世の中になってしまう」(204頁)
やはり現実的には、ゾーニングや程度の問題、というところに帰着するのでありましょう。
***
以下は蛇足です。
(以下、児童ポルノに限らず)ポルノ規制は個人的に興味のあるテーマでありずっと気になっているのですが、その議論の中でしばしば見られる、「ポルノはガス抜きとなって性犯罪を減らすから可」というロジックも、「ポルノは性犯罪を助長するから不可」というロジックも、当事者の意見としていずれの意見も聞かれるからにはそこを可/不可の基準とするのは危険なのではないかというのが、本書を読んで改めて考えたことのひとつです。実際のところ、ポルノによって性犯罪に走らずに済む人も、ポルノによって犯罪的行為へ駆り立てられる人も、どちらも存在するのでしょう。(もっというなれば、そもそも何をもってポルノとするかもあいまいであり、通常ポルノとされない創作物からも性的な刺戟を受け取ってしまう人はあるでしょう)
私個人は、創作物の規制には慎重であってほしいと考えるものでありますが、それはそれらが「性犯罪の防波堤となる」からであってはならないと考えます。創作物の価値を、現実的にこんな効果がある、という点におくのは非常に危険ではないでしょうか。たとえそこに加害を誘発するような表現があったとしても、それを認識したうえで、よりよい流通のあり方を目指すことが必要なのでないか、と考えるのであります。
(評者:村田智子(むらたさとこ))
更新:2014/04/20