書名:境界の現象学――始原の海から流体の存在論へ 著者:河野哲也 出版社:筑摩書房 出版年:2014 |
「境界」という言葉を聞いたときに、私たちはどのような境界のことを思い浮かべるだろうか。家と外の境界線だろうか。国と国を分ける国境線だろうか。山と村と都市と海の境目だろうか。それとも、栃木県と群馬県の境目だろうか。あるいは、もっと概念的に、男女の境界線であったり、チョウとガの境界線であったりを思い浮かべる者もいるだろう。なかには、<私>と<あなた>の境界線に、今まさに想い病んでいる者もいるかもしれない。
2014年の夏がまだ暑かった頃、書店をふらふらと歩いているときに見つけたこの本、河野哲也の『境界の現象学――始原の海から流体の存在論へ』は、このような「境界」について現象学的に考察することをテーマに書かれたものである。「現象学的」といっても、フッサールの現象学に準じているというよりは、著者本人もあとがきで述べているように、どちらかといえば境界に関するエッセイというべき体裁を取っている。私たちにとって境界とはどのような意味を持っているのか。私たちはそれをどのように経験するのか。そして、私たちの周りに存在する境界線は動かしようのないものであるのか、それともその自明性を疑い、揺るがしたり越境したりすることが可能なものであるのか。これらの問いについて、著者自身の考えたことがありのままに書かれている。ものすごく大雑把にいえば、だいたいこんな感じである。
さて、今回はこの本の内容について紹介し、評価を加えてゆく(図々しいかもしれないが、この文章が「書評」という名目を与えられている以上、「評」の要素も含めざるをえない)わけであるが、その前に、この本のテーマが属している(と私には思われる)学術的および現代社会的な文脈について簡単に説明してこう。つまり、境界について考えることが、今を生きる私たちにとってどのような意味を持つのか、ということである。
おそらく、この本で取り上げられている「境界」というテーマは、古くて新しい問題である。19世紀後半のいわゆるポスト構造主義の流行以降、境界(とそれが織りなす構造)の非自明性および変更可能性は常に議論の対象となってきた。一般的には所与のものとみなされている境界の自明性を解体してゆくデリダの脱構築やフーコー流の言説分析は、人文・社会科学系の学問に馴染みのある者にとっては、挙げるまでもないほど有名な例であろう(と言いつつ、結局挙げているけれども)。この本のテーマも、このような学術的な系譜の一端に位置付けることができるという点では、目新しいものではないだろう。しかしその一方で、境界をめぐるテーマは、より社会的な文脈で、具体的には「絆」「つながり」の言説や「無縁」の是非をめぐる言説で、今まさにアクチュアルな問題となっている。「個人化」が進展し、家族やコミュニティなどの人間関係が所与のものではなくなった現代において、私たちは誰かと「つながる(=関係する、縁を結ぶ)」ことをいっそう重視するようになっている。しかし、「無縁」となるリスクを恐れるあまり「つながり」に固執しすぎることは、コミュニティ偏重による弊害をもたらす恐れがある。誰かと「つながる」ことは、「つながっている者」と「そうでない者」の間に線を引き、「つながり」の境界を形成することに他ならない(親密「圏」とはよく言ったものである)。つまり、誰かと「つながる」ことは、一歩間違えば、誰かをそこから排除してしまう可能性を孕んでいるのだ。教科書的な言い回しになってしまうが、このような「つながり」のあり方と、そこからアンヴィバレントに生じてしまう包摂/排除の境界線をどのように考えるべきであるのかが、今を生きる私たちの課題となっているのである。
さて、この本は明らかに、内容からしても書き方からしても、前者の伝統的な学問の系譜について学びたい人よりも、後者の現代的な人間関係やコミュニティの境界問題について考えたい人に向けて書かれているように私には思われた(もちろん、両者は切り離すことはできないのではあるが)。では、この本は、現代的な人間関係やコミュニティの境界問題について何を述べることができているのであろうか。このような観点から、以下では本書の内容について簡単に見ていこうと思う。
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これまでの記述からもお察しの通り、この本では、境界の存在を安定したものとして評価するよりも、不安定で、揺らしたり越えたりすることが可能なものとして捉えられている。境界は、物と物や人と人を物理的に分け隔てたり、概念的に区別したりして、何らかの所属を与える機能を有している。よって、境界を不安定なものとして捉えるということは、この世界を流動的なものとして捉えることに他ならない。このような著者の流動的な世界観のモチーフは、かつて地球がまだ誕生して間もない頃の、「始原の海」にあるという(あまりにも壮大な話で清々しい)。実際に地球が誕生して間もない頃には、現在のような陸と海の区別も、生命/非生命の境界も存在せず、何もかもが混然一体となっていたのだろう。そして、著者によれば、そのような流動的な世界のあり方は、現在でも根本的には変わっていないという。たしかに、現在でも地球を覆う大陸は動き続けているし、そのような地球の流動性による作用を、私たちはたとえば東日本大震災において目の当たりにしている。このように捉えると、境界に区切られているために私たちにはソリッドに見える世界(著者は「剛体」という言葉を用いている)も、移ろいゆく過程における一時点にすぎないのかもしれない。著者はこのような境界に対する自身の考えを「流体の存在論」と称している。
ところで、そのような流体の哲学の先駆者として著者が挙げるのは、古代ギリシャのディオゲネスという哲学者である。私は正直なところこの人物について詳しくしらなかったのであるが、現代風にいうとホームレス生活をしつつ、生肉や草を食べ、人肉を食すことすら罪ではないと主張した、まさに「犬」のような人物であったという。かのアレクサンダー大王がディオゲネスに挨拶をし、何か望みはあるかと尋ねたところ、ディオゲネスは「はい、あります。日陰になるからどいてください」とだけ返したとのことである。なんとも恐ろしい話である。しかし、ディオゲネスはそのような人物であったにもかかわらず、いや、むしろそのような人物であったからこそ、アテナイの奴隷制を批判し、歴史上初めてコスモポリタニズムという概念を提唱することができたという。そして、著者は自らの「流体の存在論」を、このあまりにもラディカルなディオゲネスの「後をたどる」ものであると位置付けている。
では、ディオゲネスの思想を継承した「流体の存在論」によって、私たちの世界の見方はどのように変わるのだろうか。本書は、第Ⅰ部「変身」と第Ⅱ部「海と空気」の二部構成になっており、第Ⅰ部では身体の境界に関する論考が、第Ⅱ部では環境の境界に関する論考がそれぞれ収録されている。
第Ⅰ部における各章のテーマは、ファッション、見られる経験、痛み、猟である。著者によれば、これらの一見バラバラに見える各章に通底するのは、「自己の存在の同一性を危うくするものたち、自己の境界を浸潤するものたち」であるという点である。つまり、これらはいずれも、私が私でなくなってしまうような、私と環境の間にある境界が無化してしまうような経験を含む。この著者の直観を支えているのは、私が私であるためには、私が見られるという経験を経る必要があること、さらに言えば、他者の視点から私を見るという経験を経る必要があるという、メルロ=ポンティや大澤真幸の現象学的身体論にも通ずる洞察である。たしかに、私のアイデンティティが、そのような「見られる」という受動性にこそ支えられているのだとしたら、自己は周囲世界との交流のなかで流動=変身する存在であると捉えることができよう。
第Ⅱ部では、第Ⅰ部で見出された流動的な自己観に対応した世界像が描かれる。著者によれば、私たちは境界のはっきりした「剛体」をモデルにして世界を物質的に捉えてきたが、「流体の存在論」はそのような境界の概念に束縛された世界像に転換を迫るという。先に述べたように、「流体の存在論」においては、剛体は、変転する地球の表面の一時的な姿に他ならない。このような世界像は、Ⅰ部で述べられた流動的な自己観と対応するものである。
さらに、このような動的な世界像に基づいて、家、都市、国家などの「場所」も新たに位置付け直されることになる。その際に著者が新たに導入するのは、E・ケイシーによる「ヘスティア的住み方」と「ヘルメス的住み方」という分析概念である。ヘスティアとはギリシャ神話におけるかまどの神であり、家と家族生活の中心である炉端を象徴するという。それゆえ、ヘスティア的住み方とは、佇むことであり、留まることであり、最終的に宿ることになる。それに対して、ヘルメスは運動とコミュニケーション、水先案内、交換と商業の神であるという。よって、ヘルメス的住み方とは、移住しながら、一箇所に留まらない住み方、私たちにより馴染み深い言葉でいえばノマド的な生活を――著者はなぜかノマドロジーという言葉を本の中では使用していないが――指すことになる。著者によれば、家という境界はヘスティア的な住み方を可能にする一方で、都市は人が往来しては去ってゆくヘルメス的な場所であり、ウィルダネス(原生的自然)にむしろ近いものと捉えることができるという。そして、炉端(家)で休息を取ることは、ウィルダネス(や都市)を移動する過程で行われるという点で、ヘスティア的住み方はヘルメス的住み方を前提として初めて可能になっている。それゆえ、「流体の存在論」のもとでは、ヘルメス的住み方こそが人間にとってはむしろ本質的であり、(おそらく私たちの一般的な感覚に反することであるが)ヘルメス的住み方がヘスティア的住み方に対して優位であることを筆者は主張する。
以上の「場所」に対する考察を経たうえで、ディオゲネスが主張したコスモポリタニズムとは何だったのかについて、著者の見解が述べられることになる。筆者にとって国家とは、境界によって内部の圏域を閉じるという意味では、家と共通の性質を持ったものである。そのような国家という境界にヘスティア的にとらわれているかぎり、道徳的配慮はその境界の内部に留まり、そこから一定の人間がかならず排除されてしまうことになるという。著者にとっての道徳とは、「境界の頭越しに、境界を浸潤して、遠方の他者と他者を直接に結びつけるもの」でなければならない(おそらくここでは、コミュニタリアニズムへの批判が含意されている)。それに対して、コスモポリタリズムでは、個人が直接的に世界とつながることを志向する。コスモポリタンになるということは、帰属感のない不安定さや寄る辺のなさを事実として引き受けることである。そうすることではじめて、人は遠くの他者に対して配慮することが可能となり、真に道徳的であることができるという。私なりに説明を付け加えておけば、ディオゲネスのホームレス生活は、以上の意味でのコスモポリタニズム――境界を画定することのない道徳的配慮――の極端な形での実践だったのであろう。
以上がおそらくこの本の結論部であるが、最後に家とケアの関係が補足的に論じられている。私たちにとって家とは、ウィルダネスな世界のなかで安らげる片隅であり、避難所のような役割を果たすものとされている。しかし、家はその内部と外部を境界で区切ることによってのみ内部の者を保護しているわけではない。むしろ、内部の者のケアは、家の外部のリソース――医療機関、行政、学校、近隣など――と接続することでこそ可能となっているという(おそらくこれは重要な指摘である)。また、内部の親密なる者、たとえば家族の存在が必ずしもケアにプラスに寄与するとは限らない(極端な話、虐待などもありうる)。よって、家が内部の者をケアするためには、家は内部と外部を境界によって隔てるだけではなく、むしろ外部へと開いていなければならない。ヘスティアの女神は、ヘルメスへと変身しなければならない――このようなテーゼによって、本書は閉じられている。
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本書の内容は、おおむね以上の通りである。「静的であること」より「動的であること」を重視し、安住ではなく移動に生命の本質を観る著者の思想は、著者本人も影響を受けたと認めているベルクソンやドゥルーズの思想など、他の多くの先駆的な思索と通じるところがあるように思われる。特に、著者の思想は歴史学者の網野善彦と多くのものを共有している――おそらくディオゲネスよりも似ているのではないか――ように私には思われた。これまで見てきたように、本のなかで繰り返し用いられていたのは、ヘスティア的な境界へのコミットメントは、ヘルメス的な住み方を前提にして成り立っているという論理であるが、この論理は、網野善彦がかつて強調した無縁の論理――無縁(縁つまり関係が切れていること)が有縁(つながっていること)の媒介になっている――と明らかに通底している。このように多くの先駆的な思索と共通点を見出すことができるということは、この本の主張に一定の妥当性があることの証左にもなると思われるが、しかしそれだけに、それらの先駆的な思索と、著者の思索がどのような点で一致しており、またどの点で異なるのかをもう少し明示的に説明してほしかった気もする。著者の優れた研究業績を踏まえると、おそらくそれは難しくない作業であると思われるのだが、「あとがき」を読むかぎり、今回はあえてそのようなスタイルは避けてエッセイ的なスタイルを採用したとのことである。もっとも、この本は、学術的な知見を頭の中でデータベース化したいという研究者にありがちな欲望にとらわれている私のような(この書評における私の記述からもそのような趣向は明らかであろう)人間をメインのターゲットとしては想定してしないのかもしれず、この本を手に取るであろう多くの読者にとってそれは問題とはならないのかもしれない。また、いくらエッセイ的なスタイルをとっているとはいえ、論理の流れが見えづらい箇所があまりに多く、正直なところこの書評を作成する際もかなり苦労してしまった。
しかし、そのような本質的ではない形式上の批判をこの本に対して行うことは、おそらく「野暮」というものであろう。おそらくこの本の意義は、まずもって「いま、このような時代において書かれている」ということにあるのだ。先にも述べた通り、現代を生きる私たちは、「つながり」から排除されることを恐れるあまり、親密な圏域に固執してしまいがちである。よって、現状では、「無縁」を批判し、「有縁」に価値を置く言説があまりにも優勢になっている。また、かつて「無縁」の意味を日本の歴史から明らかにしようとした網野の研究は、今やそれ自体が歴史となってしまった。そのような状況のなかで、境界を画定することのネガの側面を、「つながらない」ことの重要性を、いやむしろ私たちは「つながらない」ことで「つながっている」ということを、そして私たちは不安定になったのではなくそもそも世界は最初から流動的なものであることを、著者自らのことばでいきいきと語っているということ――本書の価値は、まさにこの点に尽きるのではないだろうか。その意味では、ヘルメス的な生に徹底してこだわり、ともすればヘルメスへの盲目的な憧れとも取られかねない著者の態度も、まさにウィルダネスの荒野に立つ一本の木のようなものとして、許されてしまうのかもしれない
よって、私が著者になおも問いたいのは、次の一点のみとなる。仮に著者が述べるように、私たちの世界は本質的に流動的なものであり、それに合わせたヘルメス的な住み方をすることに大いなるメリットがあるとしよう。しかし、それにもかかわらず、それでもなお、私たちが境界線を引いてしまうのはなぜなのだろうか。たとえば私たちは、男女の習慣が社会的に構築されたものであることを知っても、なおもその境界線(ジェンダー)に固執してしまう。私たちは、分かっていても、それでも境界線を引いてしまう――このような現実について解き明かすことは、著者の構想する「流体の存在論」に基づく社会を実現に近づけるためには、避けて通れない課題となるのではないだろうか。
仮に私がこの課題に取り組むとしたら、おそらく徹底的に論理実証主義的な思考スタイルを採用するだろう。しかし、何事かに論理的な思考を加えるということは、結局新たな境界線を引くことに――ルーマン風にいえば、区別に区別を再参入させることに――すぎないのかもしれない。著者が最近になって至ったというこのエッセイ的な執筆の境地が、もし自身の境界に対する見解と結びついているのだとしたら、それは非常に徹底して一貫した態度だと思う。よって、今後も著者が境界について論じる際には、このなめらかなスタイルで執筆活動を続けていってほしいものである(最後まで偉そうでごめんなさい)。
(評者:中森 弘樹)
更新:2014/09/02