書名:キャバ嬢の社会学
著者:北条かや
出版社:講談社(星海社新書)
出版年:2014

 近年、社会学のフィールドワーク物はほとんどマンネリに陥っているといわざるをえない。単純再生産ならまだしも、研究が蓄積されるにつれて誰しもおもしろいと思うようなネタ(フィールド)はやり尽くされて対象はおのずとニッチへ向かっていくので、縮小再生産になってしまう。そのような袋小路にブレークスルーをもたらしてくれるのは、やはり広い意味での理論の力だろう。理論的強度をもったフィールドワーク研究が、いまの社会学には必要である。
 本書には、じつは、その力が潜在しているように思う。けれども残念なことに、それが抑圧されてしまっている。おそらく学位論文がもとになっているということもあってか、京都大学の院生が“正しく”フィールドワークをして仕上げた、お行儀のよい論文という印象がつきまとうし、しかもそれを新書にするとなれば、より平易にリライトしていくなかで生々しい描写や込み入った考察がどうしてもそぎ落とされてしまうであろう。それでも、単なる論文のための論文というのとは異なる、著者のパーソナルで抜き差しならない問題関心が背後にあることを感じさせるような、鋭い記述がところどころに表れている。だがそれらは、その本来のポテンシャルを十分に展開されることなしに眠ってしまっているようにもみえる(しかも「京都大学の大学院生による潜入調査」というキャッチフレーズがその萌芽も覆い隠してしまう)。潜在的に理論としての強さをもちあわせた洞察には、それにふさわしい理論的な表現が与えられてしかるべきではないか。以下、ごく簡単にではあるがその展開を試みてみよう。

■ 社会的承認とリキッド・モダニティ

 本書の核心にある洞察とはなにか。それは一言でいえば「承認」の問題、つまり人間が相互にアイデンティティを確かめ合うプロセスへの注目にあるように思う。「自己実現」のためにはただ会社に入ってお金をより多く稼ぐというだけではだめで、社会に承認される必要がある。その場合の「社会」にはもちろんさまざまな水準があり、身近な家族や友人関係からはじまって、地域社会、会社、大きいところでは国や国際社会までの広がりがある。国や国際社会に「認められる」というのはたいへん名誉あることだが、一般的にはなかなか困難なことだから、もっと身近なところに承認の機会を求めるのがふつうである。身近で大切な人から承認されることで、アイデンティティはたしかなものとなる。高度経済成長期には、社会から認められることで承認欲求を満たすための、かなり定まった回路があった。男性であれば、よい大学を出てよい会社に入れば親(定位家族)や学校の先生から承認され、社会人になってからはそれぞれの年代と役職にあった仕事を一生懸命こなしていくことで同僚や会社から承認され、十分な収入を家庭(生殖家族)に入れることで妻や子どもから承認される。女性は、学歴を積んでよい会社に入るよりもよい男性を見つけ、主婦として夫を支え子育てに勤しむことであたたかい家庭を築きあげることに価値がおかれた。立派な妻および立派な母親としてふるまうことが、家族や親族、学校を中心とする地域社会から期待されたのである。この時期に特徴的なのは、会社にしても家族にしても社会的な承認のモデルが明確で、大まかなライフコース(女性は20代前半で結婚して、30代前半までに子どもを二人もうけるetc.)も共有されていたため、予期(期待形成)と役割取得が容易だったということである。男女の性別役割分業を基礎に、会社には終身雇用・年功序列・家族制賃金にもとづく確固たるモデルがあり、私生活のほうに目を転じても核家族モデルがしっかりと存在していた(詳しくは以下を参照。http://www.gcoe-intimacy.jp/images/library/File/working_paper/New%20WP/WP_NextGenerationResearch_93_UENO_onlyUENO_MOMOKI.pdf)。
 しかし、それらのモデルは1970年代をさかいに徐々に解体していく。承認とは相互承認でなければならない。ところが、この時期にはこの相互性の幻想が崩壊して、男女の役割分担とみえていたものがいつのまにかすれ違いにかわっていたことが気づかれる。山田太一の『岸辺のアルバム』を中心とする作品は、この不可逆的な家族社会の変化を的確にとらえていた。いまや自己実現のためには新しい承認の相手が、あるいは少なくとも新たに生まれ変わった社会関係や家族関係が、必要だったのである(詳しくは以下を参照。http://jairo.nii.ac.jp/0050/00021224)。
 この変化は、社会学では再帰的近代化(ギデンズ)とか、ソリッドな近代からリキッドな近代への移行(バウマン)などと呼ばれたりする。それまで確固としてあたえられていたモデルにしたがって成長の階梯を上がっていけばよかった人びとは、そのモデルじたいもみずからの判断で選びとらなければならず、下手をすれば自分自身でモデルじたいを構築しなければならないような状況に投げこまれたのである。この変化のなかで、いままではなかば自動的に満たされて意識するまでもなかったようにも思われた「自己実現」と「承認」に、あらためてスポットライトがあてられることになる。自分を承認してくれる場や仲間を、相互に承認しあえるような関係性を、原理的にはまさに一から作っていかなければならない。これが後期近代の“しんどい”社会関係の根本にある。コミュニケーション能力なるものがやたらと求められるのも、こうして見てみるとゆえのないことではないとわかるだろう。現代社会では、コミュニケーション・サバイバルのなかで他者からの承認を獲得し自分の「居場所」を見つけることが、最重要課題のひとつとしてどうしてもクローズアップされてしまうのだ。

■ 素人性と承認欲求

 本書によれば、少し意外にも響くが、バブル崩壊後の1990年代から2000年代にかけて、キャバクラ嬢は女性の憧れの仕事でつねに上位にランクインしていた。どうもこれは、単に時給がよくててっとり早くお金を稼げるからという理由によるものではないようだ。なかなか予想しがたいが、本書の分析にしたがえば、この人気には承認の問題がからんでくる。ただしここで注目されるのは、キャバクラ嬢という仕事が「職業」として女性たちのあいだで一定の社会的承認を受けていたということよりも、この仕事の具体的なプロセスのなかにある種の承認欲求を満たしてくれる(かにみえる)構造が組みこまれているという点である。個々の相互行為の実践を分析して、その場にどのような「相互作用のシステム」が成立しているかをあきらかにするミクロ社会学的な分析プロセスについては、実際に本書を読んでもらったほうがよいだろう。これはとうぜん女性性を売る「感情労働」としてフェミニズム的観点から批判されることになるのだが、これを単なる搾取や収奪の構造として把握するのがいかに不十分であるかも、本書を読むとよくわかる。感情労働とは、場合によっては労働者の側がそれに「やりがい」を感じてしまい、ときにアディクションに陥ってしまう危険のある労働のかたちでもあるから手強いのだ。
 このキャバクラという相互作用空間が、キャバ嬢(=キャスト)にとって承認を獲得する場となっているだけでなく、客側にとっても、疑似的な親密関係のなかで承認を体験する場として機能している点も注目される。興味深いのは、「素人性」や「普通っぽさ」への着目である。キャストは、仕事として接しているという感じを、少なくともお店で接客をしているときには極力ださないことが求められ、それがひとつの成功の秘訣とされる。もちろん、それが素人「性」、普通「っぽさ」であるかぎりにおいて、完全に普通の「素人」ではありえず、あくまで「商売」である(素人性を商売に変換できずに本当の「素人」のままでいては、店内での指名獲得にはつながらず、単なる日常的つながり(=メル友)にとどまってしまうという体験談(140頁)は秀逸)。だが同時に「っぽさ」のほうが前景にでてはしらけてしまうから、商売であることを極力意識させずに商売する必要があるというのである。この二重性ないしダブルバインド状況を描き出している点は、本書の重要な貢献だろう。
 おもしろいのは、キャストのふるまいは基本的には普通の素人「っぽく」見えるような演出ではあるものの、それが完全に「偽のキャラ」ではないということである(その点では140ページ冒頭の要約はややミスリーディングではないか?)。この点を巧みに表しているのが、ホステスクラブ(「プロのお水」)との比較だろう。ホステスクラブの場合は、普通「っぽさ」のほうが前面に出ており、社会学でいうゴフマン的な演技行為としての側面が前景化していると考えられる。キャバ嬢じしんが、それを単なる仕事と割りきることはなかなかできず、キャストとして客や店員、さらにはほかのキャストたちに承認されることを感情的な支えとしているなかでは、キャバ嬢としての自分を完全に「仮面」とみなして、「本当の自分」はまったく他にいると切り分けるのは困難であろう。つまり、(a)プロフェッショナルな演技性(ホステスクラブの場合)と(b)商売にならないようなまったくの素人さ(「メル友」化してしまう場合)という両極のあいだの微妙なバランスによって維持されるようなところに、キャバ嬢は位置づけられているのである。

■ ミクロな相互行為分析が照らしだす戦後サブカルチャー史

 これはたいへん秀逸な分析である。このようなキャバクラの特質は、おそらく戦後の(サブ)カルチャー史の時代動向と少なからず共鳴するところがあるように思えるからである。だが、本書ではところどころマクロな社会分析や戦後社会文化史にもつながる示唆がちりばめられているものの、基本的なスタンスとしては、民俗誌的記述とミクロ社会学的な分析に禁欲しているようだ。しかし、ブロガーとしても活躍する著者の記事をいくつか瞥見した印象ではむしろ、短期的であれ中長期的であれ、歴史的なパースペクティブのなかでの現代社会分析という「批評」行為に、北条かや氏の得意分野はあるのではないだろうか。もちろんそのような巨視的な分析をあまり大上段に振りかざすべきではないが、フィールドに根ざしながらも、そこに見出されたミクロコスモスを拠点に現代日本というマクロコスモスを分析的に解釈するといったことも期待したいところである。
 評者が考える本書のミクロな分析と歴史的位相との連関とは、次のようなものだ。全共闘と連合赤軍事件、大阪万博をへて「政治の季節」(あるいは大澤真幸のいう「理想の時代」)が終焉し、オイルショックをメルクマールとして、1970年代の経済の安定成長と成熟社会化から1980年代のバブル文化にいたる戦後文化史の大きな転換を経験することになるが、サブカルチャーに焦点をあてるなら、文字どおりの「アイドル(偶像)文化」から「素人ブーム」へ、という大きな流れが確認できる。そのなかで消費者からの需要・欲望の中心にあったのが、このプロフェッショナルではない素人性(そしてそれをいかに商品にするかということ)だった。80年代バブルカルチャーを特徴づける一大要素といえるだろうこの「素人性の商品化」の延長に、90年代以降のキャバ嬢のポピュラリティ獲得も位置づけることができそうだ。ただし、そこには微妙な変化もある。80年代的な素人性への注目は、あくまで男性中心の高度大衆消費文化のうちで芽を出したものだっただろう。しかし、先に触れたように、キャバクラでは消費者である客だけでなく女性キャストの観点からしても、完全なキャラ演技――お水的プロフェッショナリズム――ではなくてどこか「素」の部分があるという点が、重要であった。キャバ嬢やそれにあこがれる女性にとって、卓越したプロのアイドルとしての承認ではなく、いわば「普通の承認」へのアクセスを可能にしてくれるという意味で、この点は案外大きなことなのかもしれない。もしそうだとすれば、90年代のキャバクラ的素人性の商品化は、80年代とはちがって男性だけでなく女性の承認願望にも応えるようなしかたで展開された可能性がある。著者によるキャバクラという相互行為空間の分析は、客とキャバ嬢(キャスト)の双方の承認欲求の実現にとって、素人性や普通っぽさが本質的な意味をもっていたことをあきらかにしているようにみえる。このような構造は、90年代のカルチャー一般の分析にも、ある程度まで広げて考えることができるかもしれない。べつの言い方をすれば、素人性(ないし「普通の承認」)の分析こそ、素人ブーム以来の男性的高度大衆消費文化と、小悪魔ageha的女性文化との蝶つがいであり、両者をある程度まで統一的にとらえる視座を与えるものともなりうるようにも思える。
 残念ながら、評者はこのあたりのサブカルチャーの動向にはほぼ無知なので以上のような分析の是非を確かめるすべもなく、見当違いな理解になっている可能性も多分にある。北条かや氏ら若手社会学者のさらなる分析を待つしかない(あるいは京都アカデメイアには日本のサブカルチャー史を語らせたらおそらく京都屈指の中島啓勝氏――ご専門は京都学派研究だが――がおられるので、中島氏に解説をお願いしたいところでもあるが)。ただ、解釈の内実の妥当性はともかくとして、次の点は強調しておきたい。大衆化を超えてメディア文化の相互性が高まった現代日本のカルチャーの特質として、俗人を超越したアイドルへの憧れとは異なる「普通」の水準での承認欲求の充足や自己実現の達成への希求がもしあるとすれば、キャバクラにおける社会関係の構造分析は、数あるうちのひとつの領域にすぎないサブカルチャー分析ではなく、現代日本の核心を映し出すある種のミクロコスモスについての本質的分析にさえなりうるということである。

■ アイロニカルな没入のための舞台

 先ほど仮に「普通の承認」と名づけたあり方は、戦後カルチャー史の展開をしめしていると同時に、そのリスクの所在をもしめしているように思う。本書でホックシールドの感情労働が引き合いに出されていたように、素人性を商品化するという感情労働のずばり典型的な形態がキャバクラには見出せるという点はまえに述べた。そこでは完全に演技には徹しきれないために、否それどころか演技性を極力とり除こうとするために、普通っぽさや日常性が「ベタ」に、本気で受けとられてしまって、そこからさまざまなリスクが(しかも「自己責任」という形で)生じてしまう危険があるのだ。この種の傾向性は、あるいは昨今のストーカー問題にも一脈通じているのかもしれない。それはともかく、「ネタ」と「ベタ」をめぐるこのような構造は、現代日本のカルチャーのひとつの中心的な特徴となっているようにみえる。九鬼周造流にいえば、日本文化を特徴づけていたはずの「粋の構造」――おそらくホステスクラブに典型的だったもの――が大きく失われて、サルトルのいう「くそまじめの精神」に侵されるということにもなるが、それがどのような構造のもとで生じるのかをミクロに分析したのが本書だということもできるだろう。
 これはいわゆる「ネタのベタ化」であるが、もっといえば「アイロニカルな没入」(大澤真幸)としてより適切に記述できる。「キャバ嬢だけどキャバ嬢じゃない」という振る舞いの構造は、単純なベタ化ではなく、「キャバ嬢ではないがやっぱりキャバ嬢である」という要素を組みこんだ、その意味ではなおアイロニカルな没入というあり方をしめしているのではないだろうか。(サブ)カルチャー分析から大文字の政治への「転向」をとげた一時の宮台真司に、厚みを欠いた現代文化のベタ性をかなり単刀直入に批判する言説があった(これにたいして「大きな物語の終焉」――それは最初期から宮台が依拠したルーマンの社会システム論にも共有された前提である――というポストモダン的時代認識を基軸に宮台の政治システムの特権視を批判していた東浩紀が、3.11以降に「日本2.0」という形での「政治回帰」をはたしたのは皮肉である。東浩紀編『波状言論S改』(青土社、2005年)を参照。東のいう「日本2.0」とは「この国のかたち」という国家の根幹にかかわる問題を、新たな憲法草案として提示したものである。東の言説におけるアーキテクチャからコンスティテューションへの焦点の移行を分析した拙稿として、上野大樹「政治・アーキテクチャ・憲法」(『ART CRITIQUE』第3号、2013年に所収)がある)。その意味するところはよくわかったものの、現代日本人の文化性、つまりは政治的「民度」にたいする宮台のいら立ちがあまりに前面に出ていて、分析がやや粗すぎるのではないかといった印象もあった。やはり「ネタのベタ化」を単なる一方的な現代文化批判の道具にしてしまうことには問題があっただろうし、もっといえば「ネタのベタ化」という定式化では汲みつくすことのできない、ネタとベタのあいだをゆれうごく現代日本人の微妙な態度を、丁寧にねばり強く描きだしていくという作業がなお求められていたように思う。本書はキャバクラをフィールドワークにすることで、アイロニカルな(だった)はずなのに没入してしまうという微妙なメカニズムを、より繊細に描くことに成功しているといってよいだろう。
 ところで、「キャバ嬢だけどキャバ嬢じゃない」という矛盾したメッセージがそれなりに落ちつく先があるとすれば、それは「応援型」だという指摘が本書にでてくる。「ファンみたいになってくれたら、何の見返りもなしに、すごい尽くしてくれたりする」(169ページ)というタイプの男性客が、この応援型である。それこそ素人的な分析の域をでないが、これはまさにAKB48の当初の(?)キャッチフレーズである「会いにいけるアイドル」(=アイドルだけどアイドルじゃない!?)と同型的な構造をしているのではないか。もちろん、AKBはいまや気軽に劇場に足をはこんで会えるようなアイドルではなくなっているのかもしれない。しかし、以前にBSで放映されていたライブ映像では、未曽有の国民的アイドルグループとなったいまも、なお身近な存在として応援したくなるような作り・演出が随所にたくみにちりばめられていて、いまだ素人っぽさや普通っぽさの演出に余念がないようにも見えた。もし素人性の商品化の極限がAKBに見出せるのだとしたら、本書の分析は2000年代から現在にいたる日本人の生態をも、いつのまにかすくいとってしまっていたのかもしれない。

(評者:上野大樹)

更新:2014/12/05