書名:無知な教師 著者:ジャック・ランシエール 訳者:梶田裕、堀容子 出版社:法政大学出版会 出版年:2011 |
1.「反知性主義」について思うこと
反知性主義という妖怪が日本を徘徊している――というような言い回しをインターネットで見かけたのは、たぶん昨年(2014年)の暮れごろではなかったか、と思うが、このところインターネットで見かけた情報については、日付がどうもあやふやでよくない。確かなのは、問題の記事が佐藤優のインタビューであったことと、そのフレーズを目にして「妖怪が徘徊ってどっかで聞いた…『共産党宣言』…反知性党…」とか思ったことくらいだ。ともかく、今年に入って「反知性主義」を大々的にテーマに取り上げる書籍が出てこなければ、べつだん興味もなかったことなので、そのまま二度と思い出さなかったかもしれない。その書籍のうちひとつは雑誌『現代思想』の二月号であり、もうひとつはそれからしばらくして出た内田樹編『日本の反知性主義』であった(注1) 。
もう最初に正直に言っておくことにするが、『現代思想』のテーマが「反知性主義」だというのを見た瞬間に、それで本当に大丈夫なの、と一抹の心配がよぎった。要は、当代の知識人たちが寄稿するこの雑誌が、知性の代表みたいな風にして、(ポピュリズムの政治も含め)現代の民衆がいかにアホであるかについてごたくを並べていたらやだな、と思ったのだ。もちろん、そんなはずないだろうと思ったからこそ実物を取り寄せ、中身を確認してみたわけであり、それでいくらか安心を得ることにはなった。実際、単に現代社会の無知性・無教養を嘆くに留まらず、もっと深く鋭く現在を捉えようとする論考も読むことができた(注2) 。しかし、それでもやはりもやもやは残る、と言わざるをえない。『日本の反知性主義』を続けて取り寄せて読んだ後も同様の印象である。おそらく「反知性主義」という言葉そのもののせいだろうか。この言葉自体が、現下の状況を料理するためには似つかわしくない窮屈な道具であるように思われるのである。
この語の周囲で語られる時代の空気は、どの著者にも等しく共有されている。確かにそこには由々しき問題が存在している、そう認めるにもやぶさかではない。まともに話が通じないどころか、そもそも話をすることさえ拒否するようなひとびとが、こちらになんの相談もなく重要なはなしを決めては、粛々とことを進めているとか。派手なうそを平気でついて、どうやら最初から尻拭いをするつもりもないらしいとか。あたまのなかで敵の姿をあらんかぎりふくれあがらせて、やばいやばいとしきりに騒いで、他人も自分自身をも煽りたおしているとか。落ち着きましょうよ、ちゃんとしましょうよ、きちんと話しをしましょうよ、と言いたくなる気持ちは、たいへん理解できるというものだ。
ところが、「反知性主義」の議論では、ここで必ずひとつの留保が加えられる。そのように名指されるひとびとが、いわゆる「賢く」ない、というのではないのだ。「知恵」がないのでも、「知識」がないのでもない。「反知性主義」の語を一九六三年に最初に取り上げたホフスタッター以来言われていたことが、今日では、いっそう強く強調されなければならない。知恵者・知識人であることはかつてと同じく今日も、いわゆる「反知性主義」を免れるための最良の資格とはならない。妄信により突き進み、言葉の皮相さをもてあそぶこの狂騒の、中身は「知」でぱんぱんに膨れ上がっている。実証データやら立証された学説やらとされるものが、この騒ぎのダンスフロアなのだ(注3) 。だからこんにちのディスコミュニケーションは、一面では、大衆を教え諭すことに疲弊した専門知識人の苛立ちと投げやりといったかたちをとる。わかってないくせに反論するな、おれの本を熱心に読むか、さもなくばもう黙っておきなさい、という具合に。世の中あまりにもこんな具合なので、わたしたちもまた、自分も勉強したあとでなければそもそも意見を表明したり、何らかの判断を行なったりできないように思い込まされたり、あるいは同じようにして、勉強してきた相手でなければ、意見に耳を傾ける必要すらないと思い込むようになったりしている風である。
さて、こんな状況をまとめて「反知性主義」と名指して非難することには果たしてどんな意味があるだろうか。確かにこの語は、アメリカの由緒正しい歴史家が学術的出生証明を与えた立派な概念であるから、それを使っていけない理由などない。しかし考えてみればホフスタッターは極めて文脈依存的に問題を発掘し、さらにはそれをアメリカの政治思想の底流をめぐる精緻な歴史研究として提示したのだった(注4) 。そうした歴史家の繊細さを棚上げしてこれを一般化し、現代日本(あるいはネオリベ一般)の文明批評にべたっと貼り付けようとするなら、まぁ好きにすればいいとは思うものの、そこにいくらかの強引な「転移」の身振り、接続のパフォーマンスを認めないわけにはいくまい。おそらくそこではあらかじめひとつの効果さえ意図されているのだろうか、と勘ぐりたくなる。たとえば五〇年代のアメリカと現代日本をダブらせることで、抵抗の具体的なビジョンにつなげること。つまり、マッカーシズムの、赤狩りの、冷戦の、秘密工作、CIAのアメリカを想起させ、それに対する抵抗を現代において反復すること(注5) 。しかし、仮にそうだとしても、やはり現在は五〇年代アメリカの再現ではなく、むしろこのような見方からは取りこぼされてしまうことのほうが多いのではないか。
上で挙げた書籍のいくつかの論考を読んで教えられる限りにおいても、やはり、「反知性主義」という語でまとめるには現状はあまりに多くの要素を抱えている。そのひとつひとつが何事であるかをじっと見つめる前に、言葉を先行させ、状況をネガティブにひとくくりにしてしまうことは、ややもすると――現在の首相のお気に入りの言い回しをあえて借りていえば――「レッテル貼り」のそしりを免れないのではあるまいか。あるいはそんな言葉でキャンペーンを張ること自体、近年、政治とメディアをバズワードの吹き溜まりにしてしまったゲームの一角を担うに過ぎないのではないか。そうではないと言い張ることができるのは、この語を使用するひとびとが「知性」の聖域によってきちんと守られているときに限るだろう。しかし、自らがもはや聖なるインテリゲンチャではなく、しがない頭脳労働者であることを刻々自覚させられている知識人にとって、そのように自分をみなすことはますます胆力を必要とすることになっている。
あるいは、だからこその「反知性主義」なのだろうか。すなわちこの言葉の使用を今日裏付けているのは、知性者の聖なる地位を確保するための「ほんものの知性」を呼び出そうとする祈りではなかろうか。小手先の知恵や、ググれるたぐいの知識ではない、ほんものの知性があるのだと、ともかく信じねばならない、信じるものは救われる、というわけだ。たしかにこのような信仰は、世の中の役に立つのかもしれない。信じないよかましであろう。ところで、こんにちの「反知性主義」論の居心地悪さは、こうした「ほんものの知性」の擁護を、エリート主義でない仕方でやることの難しさと結びついているようだ。そこでエリートの何が悪いと開き直るひともいるだろうが、評者はやはりこの居心地悪さから出発せねばならないと思う。そこでは各人が、来るべき「知性主義」について――というのもまさに「知性主義」の不在が問題なのだから――、それぞれの思想、臆見、信仰、妄念、ノスタルジーやらルサンチマンを通じて各様に描くことになるだろう。さしあたり、そのようにするほかないように思われるし、また、そこで各人が「知性とは何たるか」について好きなことを言っているという点に、この議論の魅力がかろうじて保たれるのではなかろうか。だからこそ、なおさらそれらを「反知性主義」の看板で一枚にまとめることにたいしては、もやもやが募るのである。
というわけであるので、もう現代文明に知性(とそれを有するインテリ)への尊厳がどれほど欠けているかをめそめそ言い募るのはよすことにしよう。もういちど誤解を避けるために繰り返すが、現在の日本に存在する社会的・政治的・知的な雲行きの悪さを考える必要がない、と言っているのではない。これにアプローチするに「反知性主義」の看板を掲げるのは、いかにも抹香くさいばかりか、射程も短そうではないか、ということだ。議論がもっと解放的になるための別の枠組みを考えることができないだろうか。
そうした期待にむけていくらかの貢献を、と言えば少し張り切りすぎな気もするが、ともかくそのような関心のなかで改めて読み返した本について、ここでその内容を紹介してみたい。
2.ランシエール『無知な教師』
『無知な教師』(注6) は、フランスの哲学者ジャック・ランシエールが、一九世紀はじめに活躍したケッタイな教育家ジョセフ・ジャコトに捧げた一冊のモノグラフだ。このひと、ランシエールが取り上げなければ誰もあえて名前を思い出すことなどなかったかもしれない、そんなひとである。ランシエールは、こういう妙なひとを見つけ出して、ふさわしい思想史上の位置を与えるということにかけては、ほんとうにセンスが光っている。
ケッタイだ、妙だとばかり言っていてもしょうがないので、少しジャコトのことを紹介しておく。彼の運命は、ある実験の成果を目にした結果おそるべき臆見にとりつかれてしまった日に決する。それは、王政復古のフランスから逃れてやってきたオランダの地、ルーヴェン大学の教室でのことであった。そこにはオランダ語を解さないジャコトと、フランス語を解さない学生たちが居合わせており、ジャコトは彼らにフランス語を教えねばならなかった。ジャコトは「共通のモノ」として一冊の本、対訳版『テレマック〔の冒険〕』だけを用意した。前半は対訳を参考にしながらフランス語原文を暗記し、後半は自分で物語れるように読むこと――たったこれだけの指示を学生に与えることは、ジャコトにとってひとつの実験であったろうが、はなから何らかの望みがかけられていたものかどうか。ほかに手段がなくて、とりあえずそんな無謀なことをクラスに持ち込まざるをえなかった、ということかもしれない。ところがしばらくして学生たちにフランス語を作文させて、ジャコトは驚いた。フランス人顔負けに彼らはフランス語を書けるではないか!
これがジャコトが遭遇した奇跡の一幕だ。そしてそれはジャコトに啓示を与えた。「知性の平等」という啓示である。
まじめな教師たちはふつうこう考えるはずである。知っているものたちが、知らないものたちに教えなければならない。理解できないものに向かって、理屈というものを説明してやらなければならない。さらにその説明をわかりやすくしてやらなければならない。説明の方法、教え方のメソッドを改良していかねばならない。いきあたりばったりの経験知を、整理され総合され体系化された知のなかに導きいれねばならない。劣った知性をより優れた知性へと引き上げねばならない。しかしジャコトが遭遇した実験からは、まったく別の風景が切り開かれてしまった。たとえば母語をはじめて身につける子どものように、学生たちは、説明する教師の存在なしにでも学ぶではないか。ジャコトにとって世界が裏返る瞬間である。善良でまじめな教師たちの世界、つまり説明する教師と理解する生徒たちの世界は、そもそも二つの知性のあいだの絶対の不平等を、あらゆるところで再生産しているだけに過ぎない。一歩進んだとしても、そこにはさらに誰か「より知っているもの」、「より優れたもの」がいる。ちょうどアキレスと亀のように、どこを切っても、ひとつのおなじ不平等が見つかる。そうに違いない、そうでなければならないと、みながあらかじめ信じ込んでいる世界、ルサンチマンからなる世界だ(注7) 。より高い知性へ導こうとする教師たちの野心は、同時に目の前の知性をより低いものとみなし、その無能力を動かぬものとして言い募ろうとする野心でもある。ジャコトはこれを「愚鈍化」と呼ぶ。
卑屈の暗がりを再生産するためだけにあるようなこの世界にたいし、ジャコトはいまや光のような知性のあり方に目を向ける。そもそも目の前は同じ本性をもつ知性であふれている。『テレマック』を書いたフェヌロンの知性、さらにそのオランダ語翻訳者の知性、またフランス語を学ぼうとする生徒たちの知性。どこでもかしこでも、ある言葉を別の言葉に置きなおし表現しようとする知性の行き交いがすでに見つかるではないか。だから学ぼうとする者は、目の前にあって人間知性のすべてを既に体現している一語へと、注意深く眼を向ければよい。「カリプソは、カリプソは…」と『テレマック』の冒頭を生徒たちが繰り返すのは、そこに既に人間知性のすべてがあるからだ。メタ言語はなく、トートロジーのみがある。教師はそこで、生徒たちがきちんと真面目に用心深く理性を働かせているかに注目すればよい。もはや優れた知性と劣った知性のあいだの屈従の関係は必要ではない。教えようとするものと学ぼうとするものの、ふたつの真摯な意志があるのみであり、そこで確保される注意深さのもとで、知性のほうは自分の軌道を引いていくことができるのだ。問題はそれゆえ、何事かを教えることであるよりも、解放なのである。解放され、知性の平等を知るようになった生徒たちは「何事かを学び、そこに他のあらゆる物事を、すべての人間は平等な知性を持っているという原則に基づいて関連させる」(27頁)――この「知性の平等」の原理をもって、ジャコトは「普遍的教育」の始祖となったのである。
3.狂ったジャコト
今日でも自主学習やらアクティブラーニングやら生涯学習やらに関心があるひとのうちには、ひょっとしたら似たようなことについて考え始めたことがあるひともいるかもしれない。ただし、ここでは断固として、ランシエールがジャコトの思想を何度も「狂気」と呼んではばからないことの重さを確保しなければならない、と思う。「普遍的教育」はよりよい教育学なのではない。劣った知性が優れた知性になるための、いくらかましな方法なのではない。それは「平等」への「狂信」であるとすら言ってみたい。「平等は到達すべき目標ではなく、出発点であり、どのような事態においても維持すべき前提なのである」(204頁)。まさしくこの立場のラジカルさを確保するのでなければ、ジャコトに立ち返る必要など微塵もないのだ。
「普遍的教育」は、まず第一に、優れた知性と劣った知性のあいだの分断というフィクションにたいする妥協なき抵抗である。旧式の先生方々はもとより、「普遍的教育」を教育メソッドとして応用することを目論む進歩主義的折衷主義者たちもまた、うっかり近寄れば大やけどしてしまうような反逆なのである。結局のところ、当時の革新的流行であった進歩主義的教育学は、「愚鈍化」を新たな仕方で再生産し、不平等に新たな存在理由を与えることだけを望んでいたに過ぎない。貧しい民衆に教育を施すなどと言っても、それに先立って彼らの知性の解放がなければ、何も変わりはしない(ついでに言えば、歴史はこうして実際に何も変わらなかったことを教えているわけだが)。したがって「ジョゼフ・ジャコトの特異さ、彼の狂気は、この時代、解放という新しい大義、人間の平等という大義が、社会の進歩という大義に変わりつつあったことを感じ取ったことだった」(198頁)。似たようなことを感じ取るひとは今日にもいるかもしれない。
さて、そうした抵抗であると言ったとしても、「普遍的教育」が社会のなかで組織化されたり、制度化されたりするわけではない。それはできっこない。「普遍的教育」と社会との関係はいささか込み入っている。そもそも解放された知性が「社会」を作る理屈などないからだ。知性はただ個人の思考のうちで己に固有の軌跡を描きだすものだからである。一方、個々人は集まってしまう。ジャコトによれば、これは知性のゆえにでも、知性のためにでもなく、単に物理的法則にしたがって集まってしまうのである。だったら知性は知性で、なにも物質に縛られる必要はないのだからマイペースを貫けばいいはずであるが、そうはなっていない。この物質の重力圏で、注意深く理性を保つことに失敗した知性は、自らの軌道から離れていくのだ。「不注意があるだけで、すなわち知性が気を抜いてしまうだけで、知性は物質の重力に運び去られてしまう」(117頁)。だが、それは何故だろうか。この不注意は、それ自体、理性を動かすことの拒否でもある。「不注意な者はなぜ注意を払わなければならないのか分からない。不注意とは第一に怠惰であり、努力から逃れたいという欲求である。だが怠惰それ自体は身体的な麻痺状態なのではなく、己自身の力量を見くびる精神の行為なのである」(117頁)。すなわち己に対する侮蔑。社会はこうした侮蔑にとりつかれている。不平等の情念にとりつかれている。理性の努力はそこに言い訳を見つけ出し、自らを停止する。それがゆえに解放された知性の道行きは社会のなかで頓挫するのだ。
社会とは不平等の情念のもとでの理性逸脱なのだ。集団として、公民としてある限り、すべての者はこの理性逸脱に服従せねばならない。では理性の道はお先真っ暗だろうか。いや、ジャコトによれば、ひとは個人としてなら、己の知性をこの理性逸脱から逃れさせることもできる。そのうえで「理性を備えた人間がすべきなのは、公民としての狂気に服従しながらも、そこで理性を保つように努めることである」(136頁)。ここでジャコトが勧めていることは、一見すると順応主義的だ。理性を己自身に用いることにより、理性を部分的に放棄して理性逸脱に甘んじよというのだ。さらには、知性の平等の原理に基づき、理性逸脱の手練手管をも同じ知性から出たものとして学ばねばならないともする。だがランシエールはこうしたジャコトを救い上げる。そうして理性を確保しておくことが、出来事としての平等の訪れを実際に可能にするであろう、と。してみれば、理性者の像は、ここでは社会の理性逸脱のなかに身を隠す、一種の地下潜行者として描かれているようにも思われる。
したがって、「普遍的教育」における解放は社会的解放ではありえない。それは、人間の関係のなかで、局所的に生じる特殊な解放として生起する。「この自己対自己の関係を活用し、それに本来の真摯さを取り戻させてやることで、社会的な人間のうちに理性的な人間を目覚めさせることは常に可能である。社会機構の歯車のなかに普遍的教育の手法を組み込んでしまおうとしない者は、自由を愛する者たちを魅了するこのまったく新しいエネルギー、二つの極の接触により電光石火のごとく伝播する、重力も凝集もないこの動力を、生み出すことができる」(160頁)。わたしたちが期待をかけるべきは、まさしくこうした解放が、理性逸脱の社会の地下を潜行していくことである。たとえばそれは家庭から始まるであろう。「もし私の言うことを各家族が行なえば、国民はまもなく解放されることだろう。それは民衆の知性で理解できる範囲内の説明によって博識家たちが与える解放ではなく、博識家たちに対抗してさえ、自ら学ぶ時に自分で獲得する解放である」(148頁)。ひとつの勝利の瞬間のために、こうした解放の葉脈、理性の葉脈が途絶えないようにせねばならないのである。
さて、こうした構えが、政治的実効性の弱さとして指摘されるとするなら、おそらくその通りであると言わねばならないだろう。ジャコトの思想をランシエールが引き受けるという形をとる『無知な教師』では、政治的実効性は弱い。もちろんランシエールのその後の著作に見られる政治的テーゼとつなげて何か考えることに異を唱えるものではないが(注8) 、本書に留まる限りでは、むしろこの弱さに注目を与えておくほうがよいだろう。この弱さにおいてこそ、人間ジャコトの孤独とセットになった解放の潜在性というテーマが強く維持されることになるからだ。「ジャコトは、進歩を目に見える形で描き出すこと、それを制度化することを、平等の知的かつ道徳的な冒険の放棄として捉え、公教育を解放の喪の作業として捉えた、ただ一人の平等主義者だった。こうした類の知は恐るべき孤独をもたらす。ジャコトはこの孤独を引き受けた」(198頁)。狂ったものを捉える孤独は、しかし時間を超えた応答に委ねられよう。ジャコトを再び取り上げたランシエールがまさしくそうである。彼は、ジャコトの思想を自分の思想の内容にするというよりも、自分の思想の方法にするという仕方で、新たな孤独を引き受けようとしたのではないか。わたしたちも、ランシエールの政治哲学体系の理解をめざすそのちょっと手前で、『無知な教師』の読書を通じて、この孤独のいくらかを引き受けようと試みてみるのも悪くあるまい(注9) 。
4.対話のゆくえ
『無知な教師』についてこんなに長く説明の言葉を並べることほどパラドキシカルなことはなく、もういい加減やめにしたいが、もう少しだけ評者の関心事である精神分析との関連から話を続けたい。
インタビュー集『平等の技法』において、ランシエールは、『無知な教師』の出版がえらく精神分析家(特にラカン派であろう)にウケたことを語っている(注10) 。なるほど確かに、自分では何も知らないのに話し相手の言葉の動きに鋭く注意を払い、そのひと自身の理性の道が発展する助けをしてやる、という風にまとめれば、分析家と無知な教師には相通ずるところがある、と見ることができる。こうした「対話」は、リベラルな哲人の語りときっぱり線を引くものとして特徴づけられる。普遍的教育は、ソクラテスの弁証法のようなものではないことが、本書では何度か繰り返し強調されている。奴隷から知を引き出すための巧みな言い回しなのではないのだ。他方で、フランスの精神分析家ジャック・ラカンも、やはり、この哲人の語りを「主人の語り」として批判的に論じて、分析家の語りと区別していたことが思い出される(注11) 。
さらに両者をむしろ積極的に結び付けているものを指摘することもできる。それはある種の「テクストへの信頼」とでも呼べるようなものである。普遍的教育における知性の発展は、なによりモノの共通性によって支えられている。書物の物質性であり、それが教える者と教えられる者のあいだを、引き離しつつ接続する。この物質化された言語を媒介として、知性は、絶え間ない読み替え、翻訳を、幾層も潜り抜けつつ発展する。ここでぜひともジャコトの美しい言葉を引用しておきたい。そこでは、まさに言葉のポリフォニーを潜り抜けることで深められる人間知性の厚みが物語られている。「一つ一つの単語はだた一つの思考だけを運ぶことを意図して送り出されるのだが、話す者の知らぬ間に、そして彼の意に反するかのように、この言葉、この単語、この幼虫は、聞く者の意志によって豊饒なものとなる。あるモナドを代弁するものがあらゆる方向に光を放つ思考の球の中心となり、かくして、話者は自分が言わんとしたことに加えて、ほかの無数に多くのことを実際に言ったことになるのだ」(94-95頁)。であるから、問題はまさしくこの厚みを潜り抜けようとする意志、もっと簡単にいえば、相手の言わんとすることを読みぬこうとする意志なのである。
一方、精神分析はまさしくこの言語の多層性を「無意識」として想定することによって成り立つ実践である。ふたりのあいだには、翻訳の絶え間ない努力を待ち受けている、言語の物質性が存在しているのだ。もちろん、この物質性というところで議論は複雑になる。おそらくここで、精神分析を成り立たせている言語メディアの物質性の条件についてひとしきり考える必要があるだろう。ジャコトの普遍的教育の成立が、一八世紀末における書物的公共性とおそらく無縁でなかろうのと同じように、一九世紀末についても、無意識を共通のモノとして置くことを可能にした言語の物質的・メディア的条件があったはずだ。ラカン風にいえばそれはシニフィアンの発見、あるいはより一般に音素の発見、といったことに還元できるかもしれないが、まぁここではこれ以上は首をつっこまない。いずれにせよ、対話が解放的なものとなるのは、そのあいだに何か共通のモノが、むしろ対話する両者に距離を作るために横たわっているおかげである、という見方が可能であるように思われる。
しかし一八世紀末、一九世紀末ときて、そこで示されるパラダイムがなんとかランシエールが本書を書いた一九八〇年代まで生き延びていたとしても、これを今日の「対話」の条件という観点から見るときに、まだ同じことが言えるだろうか。ここで、冒頭の「反知性主義」うんぬんの話にも戻ることになる。というのも、やはりそれをめぐる議論のなかで最も不満な点とは、今日の対話の条件に大きく寄与するはずのインターネットについて十分な分析がないように思われるからだ。とりわけ、日本のここ数十年のネット文化の発展史とでも呼べるものを踏まえた分析が欠けていると思われる。自分でもこのあたりいまひとつよくわからないのだが、まさにこの分からなさが言論メディアとしてのインターネットに深く関わっているような気もするし、さらに放っておいたらどんどん誰にもわからなくなるのではないかとも危惧されて、とても気にはなるのである。特に最初にぽろりとこぼした話と関係あるが、インターネット上において、テクストの歴史的順序やその実在性までも可塑的となりうることは、わたしたちのものの見方、考え方に大きな変化を現在進行形で及ぼしているように思われる。インターネットは明らかにいまや「共通のモノ」と化している。しかし、そこで形を定めず動いているものは、人間的平等という地平ではもはや捉えられないものかもしれない(注12) 。
ランシエール=ジャコトの「知性の平等」を、人間性における平等を、言語空間の奥行きを頼りにして、いわば「社会」の外として再発見するような思想であるとまとめるとするならば、現在におけるその媒介の変質――とりあえずネット空間の問題をそのように曖昧に指し示すとして――は、この思想にどのような修正を迫るであろうか。ひょっとすると非人間的知性ということから、平等の問題を根本的に捉え返すことにもなるのだろうか。この問いは開いたままにしておこう。
いずれにせよ、われわれは今日もう一度、「対話」がいかにして解放的であるかについて考える必要があるのだろう。そこが「知性」について語っていく肝となるかもしれない。そろそろ筆をおかねばならないが、この問いとの関連で、いささか気まぐれな思いつきで締めくくらせていただく。
あの映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが口にする名台詞、”Don’t think, feel”は、ある意味で、「反知性主義」と称される今日の知性の状況を言い表していると言えるだろうか。確かにそうかもしれない。「感じること」、「感性」の分割が、知性が交流しあうはずであった平面をあらかじめ横切っており、そこで既にある程度の勝負が決してしまっている、と、そういう風に現代を読むこともできそうである。たとえば起こりうる戦争で死にゆく貧しい人々のことが見えるのか、見えないのか。野宿者の寝床の寒さをその身にも感じるのか、感じないのか。そのあいだの分断は、知性によって操作されるというよりは、知性を働かす前提のところで揺ぎ無いものとなっているように思われるのだ(悲観的だろうか?)。であれば、いま必要なのは”think”の大号令であろうか。そうかもしれない。来るべき知性主義とは、そのようなことかもしれない。だが、『無知な教師』を読んだ後では、別のことを言うこともできるだろう。知性の平等を前提とする解放的教育ではなにより、理性が重力を振りきり空へと飛び立つための、対話の技法が問題なのだ。思い出しておけば、ブルース・リーの先の言葉もまた、教師が拳法修行をする弟子に向けてかける言葉、学びの指針であった。この組み手という対話のコツを、既に用意された思考によって捕まえようとしてはならない。対話そのものによって対話の理路が明かされるように、感性を働かさねばならない、そしてこれを鍛えねばならない。そのための“feel”なのである。いまある感覚をただ肯定するのではもちろんない。学びのなかで、そして学びのために、感覚を移動させ、広げ、別のものに接触させること、見えなかったものを見ること、聞こえなかったものを聞くことが問題なのだ。政治=美学的にも発展させうるそうした契機の基礎は、ジャコトが示したとおり、家族のなかでのような親密な対話のうちにある。こうしてわたしたちに最後にかすかに見え始めるのは、思想と知性が問題のときにこそ、いま現在の対話のなかで怠ることなく感性のクンフーを積まねばならない、ということではないだろうか。
注釈
(注1)『現代思想2――特集:反知性主義と向き合う』、vol. 43-3, 青土社、2015.および内田樹編『日本の反知性主義』、晶文社、2015.
(注2)特に酒井隆史の論考「現代日本の「反・反知性主義」?」は、「反知性主義」というラベルに孕まれるもどかしさを明晰に整理してみせたうえで、現代社会の時間論へと議論を発展させていて優れて生産的であった。個人的所感になるが、『現代思想』の冒頭にこの論考が置かれていたことが、いちばんの安堵であった。
(注3)その意味では、アカデミズムへの依存はこんにち異様に高まっているともいえ、まさにそのことが「大学」の社会的・政治的機能をめぐる問題をいっそう際立たせているともいえる。
(注4)流行り言葉に振り回される同時代アメリカ知識人について、ホフスタッターがその歴史感覚の皮相さを嘆いていることを、わたしたちも思い出しておきたい。R.ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、みすず書房、2003年、5頁.さらに、この語のアメリカ・キリスト教史的文脈を辿りなおした以下の文献は、そうした方向修正をこの語に与えつつ、反骨としての反知性主義の文脈を思い出させようとしている。森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』、新潮社、2015.
(注5)しかし、現代の支配者たちこそこうしたゲームにおける勝ち筋を読みきっているがゆえに、そこにわざとらしく抵抗勢力を巻き込もうとしているかにも見える。最近の国会答弁などで聞かれる、「戯画的」といってよいほどわざとらしく軽はずみな反共的発言を思い出す必要があろう。
(注6)J.ランシエール『無知な教師』梶田裕/堀容子訳、法政大学出版局、2011.以下、括弧内の頁数は本書のもの。
(注7)ルサンチマンとは単に「劣っている」とされるもののねたみではなく、「優れている」とされるものの傲慢、蔑み、臆病、言い訳がまさしとしても姿を現す。どうして「優れている」とされるものは、自分が優れていることをわぁわぁ申し立てたがるのだろうか。無論、とくべつに優れてなどいないからである。
(注8)たとえばそうした整理については、同書における梶田の訳者解説が有益である。
(注9)個人的事情を付け加えると、評者はこの点に関して、ラカン研究者としてとくに関心を持っている。後で取り上げるとおり、インタビュー集『平等の技法』によれば『無知な教師』は精神分析家にウケたということだが、それはこの無知な教師の像に精神分析家と相通ずる要素がある、という点のみならず、その解放的成果の伝達が社会的平面においては潜行的なものでしかありえない、という点とも関わっているのではないか。そして歴史を振り返るならば、精神分析についても同じく、進歩主義は解放の喪の作業である、と言うことができる。
(注10)J.ランシエール『平等の技法』市田良彦ほか訳、航思社、2014.
(注11)J. Lacan, Le séminaire livre XVII, L’envers de la psychanalyse, Seuil, 1991.
(注12)ここで、どう受け取られるか分からないが、ひとつ妄想めいたはなしを書いておこう。Twitterには○○Botというアカウントがいくつか存在する。Botというのは「ロボット」の「ボット」のことで、要はある特定フレーズを選択して投稿する人工無能プログラムを指す。以前からそうしたBotを人間と取り違える、という話は聞かれたが、どうも最近、反対に、botと自称していながら実は人間がむしろ人工無能の模倣をしている場合もあるように思われることがある。いずれにせよ、両者の差異をはっきりさせるのは双方向に難しくなっているように見える(CG技術と整形技術の発展が「不気味の谷」の問題を解決するようなものだ)。例えば、これまでは常識と思われていた範囲をやすやす飛び越える極右発言を投稿する或るTwitterアカウントは、画面上では実在する人間が投稿者であることになっている。だが、あまりにもクリシェ、あまりにも露骨なそれが、実はブラック「ユーモア」の類であって、極右的発言を自動生成する人工無能が動いているに過ぎない、と明かされても驚きではない。このあたり、テクストがそもそもメディア上の特性としてソリッドな知性に裏打ちされていなさそうな感じを、どのように扱えばよいのか考えあぐねる次第である。
(評者:上尾真道)
更新:2015/06/03