書名:未承認国家と覇権なき世界 著者:廣瀬陽子 出版社:NHK出版 出版年:2014 |
■ 非公式帝国の辺境
2014年ごろから現今の国際秩序が大きな転換期に差しかかっているという指摘が、頻繁にされるようになってきた。もちろん、事態を誇張してセンセーショナルに表現しようとする傾向がジャーナリズム一般にあるのは言うまでもないが、現在進行している事象が国際秩序の根底にある構造の質的な変容をともなっていることは、いずれにせよ間違いない。イラク戦争を含むアメリカの中東政策の帰結というべきISIL(いわゆるイスラム国)の出現、ギリシャ信用危機以降ほとんど出口なしの状態に陥ったEUの終わりなき構造的危機、「アラブの春」後の中東諸国の不安定化を代表するシリア内戦により深刻さの度合いを深めたヨーロッパの移民・難民問題、冷戦の遺産が形を変えて再燃しつつあることを白日の下にさらしたウクライナ危機――。ざっと挙げてみただけでも、世界情勢が数年前とはあきらかに異なるステージに入ってきていることは否定しがたいだろう。
ひとつの大きな問題は、今日の学問がこうした世界の変化を総合的に把握するための視座を構築できなくなっているということである。背景には、極端なまでに進行した学問の専門分化がある。特に地域研究の分野ではこの趨勢は顕著であり、ところが言うまでもなくグローバル化や情報化のかつてない進展により、個々の地域や研究対象をそれじたいで孤立させて研究することはいまや不可能になってしまった。むろん地域研究はフィールドワークが一方の基軸とならねばならないから、その基本を逸することなく地域や学問領域を越境して総合的な理論を構築していくことがたいへんな負担になるのも確かである。他方、国際政治学・国際関係論についていえば、それが本当に学問といえるのか疑念が生じてしまうほどにアメリカの外交上の利害や世界戦略と密接不可分に結びつき、21世紀に入ってからのアメリカの外交政策の失態があきらかになるとともにその信用は失墜してしまっている。いきなり完成度の高い総合的な理論を確立することは不可能であるから、両者の領域のこれまでの成果を再点検しつつ、少なくともそうした理論構築を志向した研究プランが打ち出され、それを一種の統制的理念としながら地道な実証的研究のほうも組織化されていくというサイクルを創出することが欠かせない。
廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』は、こうした観点からみて近年まれな研究成果であるとともに、今後の地域研究と国際政治研究の総合にむけてのひとつのモデルケースになりうるような著作だといってよいだろう。評者は、これまでの思想史と政治哲学を基礎とした国家論・主権論研究から、今後の国際秩序理解の最大のキーワードのひとつが「多極化」ならぬ「無極化」にあると考えてきたが、「覇権なき世界」とはまさにこの事態をさししめす言葉である。
■「覇権なき世界」とはなにか
まずは「覇権なき世界」の内実を、評者の観点から敷衍しておきたい。その核心を一言でいえば、今日の国際秩序におけるヘゲモニー構造の終焉が、今後の国際政治の最大の不安定化要因となりうるということである。冷戦後の世界のほとんど唯一の基軸原理であったパクス・アメリカーナは、現在、従来の覇権国家の衰退とはだいぶ異なる形で終焉を迎えつつあるようにみえる。いま生じつつあるのはヘゲモニー国家の交代ではなく、国際政治におけるヘゲモニー構造じたいの消滅である。そこには、エネルギー資源をめぐる地政学的なファクターもかかわってくる。
国際政治学上の主要な争点のひとつに、一極構造と多極構造のどちらが国際関係を安定させるかという問題がある。ごく大まかにいえば、1648年の百年戦争の終結によりその原型が出現したとされたウェストファリア体制(主権国家体制)は、ヨーロッパ列強の錯綜する同盟関係をともなう諸国家の勢力均衡をベースに、相対的に強力な国家がヘゲモニーをにぎり優位な立場から勢力均衡を維持するという構造をそなえていた。第二次英仏百年戦争のクライマックスを飾るナポレオン戦争の終結によりパクス・ブリタニカが確立された19世紀にあっても、ヨーロッパ世界は完全な一極支配からはほど遠かった。相対的なヘゲモニー国家はその地位を狙う新興大国を牽制する必要から同盟関係の再編を行ない、その意味で、緩やかな多極構造を維持することこそがヘゲモニー国家の国益にかなうという機制が働いたのである。対するに、20世紀の国際政治は古典的な勢力均衡を超えて一極支配をめざす諸大国の抗争によって特徴づけられる。世紀後半の米ソ冷戦が、総体として多極構造ではなく二極構造を実態としていたことはあきらかであるし、この二極構造がいわゆる恐怖の均衡によって支えられていた以上、モデルとしては一極的な覇権安定がめざされていたことは否定できないだろう。
キリスト教的普遍帝国の理念が依然として影響力をもった初期近代のヨーロッパ地域ではじめて可能だったといってもよい多元的な勢力均衡による国際政治の安定にもどることがおそらく困難である以上、ヘゲモニー国家の存在は現代の国際政治に当分のあいだ欠かせないということになろう。第二次世界大戦後のアメリカはそれまでのモンロー主義(孤立主義)から明確に舵を切り、西側諸国の盟主として積極的に国際政治に関与する外交政策をとった。そこでは、勢力均衡か覇権安定か(多極か一極か)という軸にくわえて、国際政治学上のリアリズムと理想主義という対立軸が重要なファクターとして作用してくる。一概にはいえないが、全体としてアメリカの対外政策における理想主義の影響力の相対的な高まりが、一極支配による覇権安定への志向性を現実的なものとしていたということができるように思われる。人権・自由の拡大や民主化といった普遍的価値へのコミットメントが、対外的にも国内世論にたいしても、積極的な拡張主義政策を正当化する根拠となったからである。そして、実際の勢力拡大のなかでアメリカが世界各地に権益をもち利害関係を深めていった結果、リアリズムの観点からしても、アメリカ一極支配のもとでの国際関係の安定(とときにはさらなる拡大)がアメリカの国益と一致するケースが格段に増えたのである。理想主義とリアリズムの結合は、ネオコン(新保守主義)の影響のもとイラク戦争を主導したG・Wブッシュ政権において頂点に達する。ネオコンの論客のひとりロバート・ケーガンの議論は、いまなお傾聴に値する部分がある。理想的な世界秩序を実現するためには、それにみあった現実的な力が必要だが、ヨーロッパ世界はいまや普遍的な理想を唱えながらもそれをいかに実現するかというリアリズム的思考をすっかり放棄してしまった。かくして、アメリカこそが世界の安定化と基本的価値の実現のために実際の行動をともなった責任を果たさなければならない、と。
ところがイラク戦争以降のアメリカは、とりわけ第二期オバマ政権において顕著なように、理想主義の看板を実質的に引込めリアリズムの観点のもと世界政治への全般的な関与を限定する方向にむかっている。いまだ不確定要素は多いものの、将来的にシェール革命などを通じてエネルギーの自給率を高め中東の石油資源への依存度を下げることに成功すれば、理想主義的な使命感を低下させたアメリカは、現実の国益という観点から中東情勢への働きかけを消極化させるだろう(むしろ焦点は、アメリカ国民が借金をして消費し世界の過剰な生産を吸収するというインバランス構造を是正すべく、成長センターであるアジア太平洋地域に巨大市場を作りだすという方向にシフトする。いうまでもなくTPPはその一環である)。
これでアメリカが世界に余計なおせっかいをすることもなくなり一件落着となるかというと、もちろんそうはいかない。アメリカが国際秩序の一極構造の維持に関心をうしなった場合、どのようなことが生じるか。通常予想されるのは、次なるヘゲモニー国家が台頭して一元的な国際秩序の維持に利害と責任をもつということであるが、たとえば現在の中国がそのような役割を積極的にになう可能性は低い。むしろ大いにありうるのは、そのような一極支配それじたいの崩壊である。だが現状では、この変化が世界に多極的な安定をもたらすとは考えがたい。19世紀以降の欧米の植民地政策の爪痕が深刻な諸地域では、地域の秩序をみずから構築できるような状況にはない。反対にこの種の「無極化」は、過激派テロ組織や西洋起源の国際秩序の転覆をはかる原理主義的国家の勢力拡大を許し、世界の不安定化を急激におしすすめるだろう。
かくして、実際にはアメリカも厳しいディレンマに直面する。資源外交の観点からは中東に関与する意義は小さくなるのに、それで関与を低下させればさせるほどテロリストの活動の余地は拡大し、結果として安全保障上の脅威は深刻化するのである。とりわけシリア情勢やイエメン情勢において、オバマ政権はこの種の解きがたいアポリアに悩まされている。ヘゲモニー国家が希少資源をめぐる地政学的関心をうしなったあとの空隙にしばしば生じるのが内戦、ないしは破綻国家化であり、イラクをみれば明白なように今日これこそが原理主義とテロリズムの最大の温床となりつつあるのである。これらの事態が図らずも再考を迫っているのは、そもそも主権国家とは何なのか、何であったのかというすぐれて原理的な問いである。
■ 領土保全vs民族自決
以上の大まかな見立ては、本書の視角と完全に合致するものではないかもしれないが、ともあれ、覇権国家が存在しない、ないしその役割をはたそうとしない将来世界においては、勢力均衡や多極構造を有した古典的な国際秩序ともまったく異なる深刻な課題が突きつけられるという、基本的な視座で一致しているのはたしかだろう。次に、本書に即しながら「未承認国家」、あるいは「デファクト国家」と呼ばれるものについて見ていきたい。
政治哲学の観点からみたとき、近代国家の特質はまずそれが主権国家である点、そしてそれが国民国家である点に求められる。歴史的には、前者は絶対主義以降の中央集権化のプロセスに、後者はフランス革命以降の民主化のプロセスに関連している。そして、今日の国際政治を駆動させる二大原則である「主権尊重(領土保全)」と「民族自決」は、この二つの特質にある程度まで対応している。フランスに代表される西欧地域でのネーション形成にあっては、理念的には両者は最終的に一致するものと観念される。というのは、このケースではまずは王権や中央政府が内乱を克服して領土を確定させ、それに続いて、中央集権化された領域国家の広がりに対応するようなかたちで文化的・言語的単位としてのネーションを創出するということが進められたからである。ところが、アーレントが『全体主義の起源』でフェルキッシュなナショナリズムと名づけた東欧地域における国民国家建設においては、民族意識の覚醒のほうが先行してしまい、しばしば分散して居住していた同一の文化的・言語的共同体のモザイク状の分布は、既存の国家の領土の広がりと一致することがなかった(多民族帝国)。そのため、それぞれのネーションに国家をもつ権利があるという主張、ネーションは至高の政治的単位として扱われるべきだというナショナリズムの主張は、東欧地域においてはヨーロッパの既存の領域秩序にたいするラディカルな挑戦として現れざるをえなかったのである(以上について詳しくは、上野大樹「「人間」の条件と「市民」の条件」、『社会システム研究』(第14号)、特に第5節を参照)。ここにおいては、いまだ国民国家とはなっていなかったヨーロッパの王朝国家が互いの主権を相互に承認して既存の領土区分を尊重すること(現状維持status quo)と、民族自決権を認めることとは、鋭く対立するほかなかったのである。
本書の著者は、主権尊重・領土保全と民族自決という国際政治の二大原則が、本質的に癒しがたい矛盾をそもそもはらんでいたことを指摘し、未承認国家の存在はこの原理的な矛盾の直接的な帰結としてとらえられると論じる。そのうえで、具体的な歴史状況がこの原理的な矛盾を実際に国際社会に顕在化させたり、あるいは潜在的な状態にとどめたりした(64-72頁)。著者は、現実の国際政治においては、前者の領土保全の原則がもっぱら優位に置かれ、後者の民族自決はいくつかの例外的な時期にのみ、前者の原則にたいする優位性を獲得することができたと述べる。
戦後の70年あまりで世界の国家の数が三倍近くに増えていることは、民族自決権にもとづく独立が領土保全に優先されるような状況が、少なくとも一定程度は存在したことを意味している。本書によれば、国際社会において民族自決が優先された歴史的時期は、大きくわけて四つあった。すなわち、第一の波は19世紀前半のラテンアメリカ諸国、第二の波は第一次世界大戦後の東ヨーロッパ、第三の波は第二次世界大戦後のアジアとアフリカ、そして第四の波が冷戦終結後の旧共産圏(旧ソ連地域と東中欧)である(73頁)。
ところが、同じように民族自決権を掲げて独立国家の樹立を宣言しながら、国際社会によって独立を承認されないままにある種の実効支配だけが継続するようなケースもある。それが、未承認国家である。前述のように、国際政治の二大原則が原理上の矛盾を抱えるなかで、通常は領土保全の原則のほうが優先されてきた。したがって、国際社会が民族自決権にもとづく現状変更を認めるのはむしろ例外的であり、ある民族や地域が独立運動を展開しても、よほどのことがなければ国際的承認が得られることはないとまずは見るべきである。そう考えると、不安定な地域で、国際承認は受けているものの国土全域を掌握できていない脆弱な国家のなかで、反政府勢力が一部地域の実効支配に成功した場合、そこに「事実上の国家(de facto state)」が出現しながら、同時に国際的にはその正当性が承認されないという事態が生じる可能性は、大いにあるといわなければなるまい。ヘーゲルは主権の構成要素を対内主権と対外主権とに区分したが、一定領域内での実力の実質的な独占と住民による積極的・消極的な支持の調達よりなる前者の要件を満たしつつ、後者の対外主権が獲得されていないケースを、未承認国家と考えることができよう。
■ 国際原則の矛盾と「未承認国家」出現の要因――ナショナリズムの構造
本書は未承認国家が出現・継続する要因を、対内的要因と対外的要因とに分けて説明している(93-110頁)。より重視されているのが対外的ないし国際的要因で、それが具体的に意味するのは、上述の民族自決の世界的な波が生じたときに国際的に独立が承認されるにはいたらなかったケースとして、未承認国家が出現しているということだと見てよいように思われる。本書が焦点を当てるのは、冷戦後の国家独立の第四の波に乗りながら、しかし国際的な承認を得るにはいたっていないケースであり、主に旧ソ連地域とバルカン地域(旧ユーゴスラビア)である(42頁の一覧表を参照)。
これらの多くに共通するのは、民族連邦制をとる国家からの独立であり、しかも先行する連邦国家において最上位の自治的単位としては認められていなかった政治主体が独立を主張しているという点である。著者は「アゼルバイジャンやグルジアは独立したのに、なぜ同じコーカサスに位置するチェチェンは独立できないのか」というよく聞かれる質問を例に、民族自決を唱えるナショナリズムの主張が未承認国家を生み出した機制を説明する(62頁)。旧ソ連でいえば、ソビエト連邦を構成する最上位の単位は共和国(連邦共和国)であり、グルジアやアゼルバイジャンはこれにあたる。ソ連を構成する各共和国の内部に自治共和国や自治州といったより下位の行政単位が存在しており、チェチェンはこの自治共和国であった。著者は民族連邦制のこうした構成を、マトリョーシカ構造として説明する。ソ連というマトリョーシカを開ければ、そこにはロシアやグルジアといった一段小さなマトリョーシカ(共和国)が15ほど並んでおり、さらにそれらのマトリョーシカのなかにはより小さなマトリョーシカ(自治共和国)が入っている。チェチェンは、二番目のマトリョーシカであるロシア共和国のさらにそのなかに包含されている、第三番目のマトリョーシカということになる(61-64頁)。民族独立の波のなかで国際社会が独立を認めたのは、連邦国家という一番目のマトリョーシカが解体した際に必然的に表世界に出現してきた二番目のマトリョーシカであった。三番目以下のマトリョーシカが独立した国家になることは認めなかったのである。
次に述べるように、国際社会が民族自決権の行使をできるだけミニマルなものにし、通常は領土保全を優先させるのには、国際政治学でいうリアリズムの観点からすればそれなりの合理的な理由がある。とはいえ、何番目のマトリョーシカにせよ独立を強く希求する民族の側からみれば、国際社会が独立を許容する基準はひどく恣意的なものと映じるのもたしかである。
■ コソヴォ問題からグルジア紛争、ウクライナ危機へ
かくして、リアリズムの観点からすれば、ナショナリズムやエスニシティを国際政治という舞台の俎上に乗せることは、既存の国際秩序を一挙に不安定化させる革命的な効果をもつということになる。領土保全・現状維持に対して民族自決権を強調する傾向にあるのは、国際政治学でいう理想主義やリベラリズムの流れのほうである。民主化とならんでナショナリズムの活発化が、じつは現実主義(リアリズム)や保守主義よりもむしろ理想主義とリベラリズムによってもたらされがちであるということには、留意が必要である。
こうしたリアリズムの観点からは、理想主義的な国際世論の高まりなどによって民族自決を通じた国際秩序の大きな変動を経験せざるをえなくなった場合でも、できるだけその国際的な熱狂(enthusiasm)をおさめ、主権尊重・領土保全が基調となるstatus quoの状態に回帰させる必要があるということになる。ところが、冷戦後の国際社会はこの動向を鎮静化させるどころか、反対に「パンドラの箱」を開けてしまう。それがコソヴォ問題であった。本書でもうひとつ出色なのは、このコソヴォへの国際社会の対応こそが、今日の極端に流動化しつつある国際情勢のひとつの起点となったという指摘である。
ここでコソヴォの「独立承認」にいたる経緯を追うことはしない。本書の叙述(158-177頁)を読むと、欧米の対応がいかに一貫性を欠いたものであったか、またコソヴォの独立をいかに例外的事例におしとどめようとしても、ダブルスタンダードにもとづく欧米の欺瞞的な政策が国際秩序にたいする信頼を決定的に損ね、その後の国際政治の不安定化に拍車をかけたことが、とてもよく分かる。われわれが日本で、実質的に欧米のメディア報道を直輸入する形で接してきた情報がいかに偏ったものであったか、考えさせられる内容である。著者はウクライナ・クリミア問題についても、欧米の報道が、かつてのセルビア悪玉論と同様のしかたでロシア悪玉論を醸成しようとする情報戦略にそのまま乗る形でなされている点に警鐘を鳴らすが(cf. インタビュー「国家のあり方を読み解く「未承認国家」という鍵」、SYNODOS、2014年12月22日。http://synodos.jp/newbook/11887)、これは日本のマス・メディアの構造的問題にかかわり、非常に根が深い。たとえば、ウクライナ上空でのマレーシア機撃墜事件が東部の親ロシア派の仕業であることの証拠とされた盗聴記録は、のちに偽物であることが判明したが(廣瀬陽子「対米、対欧の陣取り合戦にプーチン帝国の勝算はあるのか?」、『第三次世界大戦は本当に起きるのか?』総合ムック、2015年)、日本でこの件での追跡報道や検証報道はほとんど行われなかった。
ただ同時に興味深いのは、国際政治における情報戦の意味がこれまで以上に高まっているということを、この種の事態がしめしてもいるということである。後で触れるように、それがどのような手段で調達されたものであれ、各勢力にとって国際世論を味方につけることの重要性は否定しがたい。
本書の白眉は、このコソヴォ問題こそ、グルジア紛争や、クリミア編入を含むロシアと欧米・ウクライナの対立といった今日の国際情勢を理解するためのカギになるという議論にある。そしてそこで重大なプレイヤーとなっているのが、未承認国家だというのである。この点についても、詳しくは本書を直接あたってもらいたいが、国際舞台に再登場した民族自決の原理を援用しつつ未承認国家を支援することで、相手陣営に揺さぶりをかけるという戦略が、欧米とロシアの双方でいまや大きな位置を占めるようになってしまったプロセスが描きだされている。これがテロリズムという国際政治の新たなファクターを結果的に増長させてしまっていることも、後述するとおりである。いずれにせよ、大国の戦術に民族自決権にもとづく未承認国家の利用という新たな手が加わったことは、安定性を重視する領土保全・主権尊重の観点からは大きな打撃になったことはあきらかだ。
■ コソヴォ問題からイラク戦争、中東動乱へ――情報戦・民主化・国際世論
本書があきらかにした「コソヴォ → グルジア → ウクライナ・クリミア」という流れにくわえて、21世紀の国際政治の伏流をなすもうひとつの系譜を考えることができるように思われる。「コソヴォ → イラク戦争 → 中東動乱」という流れである。
注目すべきは、民族自決権(the rights of peoples to self-determination)が同時に「民主化」の趨勢にも深く関わっているということである。国際社会が未承認国家の活性化と独立承認に傾く今日の動向は、国際社会が民主化を支援する動きとも連動しているのである。たとえば、ウクライナやグルジアなどでの「色革命」は、アメリカ政府やソロス財団など欧米によって密かに支援され、実現をみたといわれている。かつて「アラブの春」と呼ばれたチュニジア、シリア、リビア、イエメンをはじめとする中東地域での体制転換と、その後の政情不安ないし内戦突入も、インフォーマルなしかたでの欧米による反政府勢力支援が背景となっていることはいうまでもない。独裁体制によって各国の「人民(people)」が抑圧されているとみなされるとき、the rights of peoples to self-determinationがそのような体制を変革することへの大きな動機づけとなることは自明であろう。国際社会で民族自決の影響力が強まった結果、それは旧共産圏での体制変動だけでなく、中東・北アフリカなどでの「民主化」とその後の混乱にも派生したといえるのだ。
前述のように、民主化の背景にある民族自決が重視される雰囲気の醸成においては、情報戦が大きなファクターとして働いている。コソヴォでは、情報を有利にコントロールしミロシェヴィッチによる民族浄化の残虐性を印象づけることで、KLA(コソヴォ解放軍)を中心とする独立派は彼らに有利な国際世論を生みだし、NATOによる軍事介入まで引き出したといえる。中東の民主化についても、同じく反体制派に好意的な国際世論の醸成が、小さくない役割をはたしたということができるだろう。情報戦の結果として出現する国際世論の大きなうねりが、近年の国際情勢の大きな規定因になってきたと考えられるのである。
ところが、このファクターの重要性の拡大が、結果的に欧米の外交政策に大きな矛盾をもたらしてしまったように思われる。というのも、従来アメリカを中心とした欧米諸国は、エネルギー資源を大幅に依存する中東をはじめとした途上国地域への関与においては、地域の安定性の維持を自国の主要な国益とみなし、この観点から民族・宗派紛争の現出を抑止しうるような権威主義体制を黙認したり公然と支援したりしてきた。象徴的なのは、イラン・イラク戦争に際して当時最年少の国防長官であったラムズフェルドがサダム・フセインと握手をしている光景である。日本や欧米の先進諸国が、国民もふくめて、権威主義体制を堅持する中東政策を通じてエネルギー安全保障上たいへんな利益を享受してきたことは否定できない。先進諸国の国民世論は、それにもかかわらず、後には同じ地域に民主化を求め、実際に反政府勢力を直接・間接に支援しはじめた。欧米の植民地政策の結果、民族分布と国境が一致せず国民国家が脆弱であるかほとんど存在しないような地域において、peoplesの自決権を無責任に推奨することがもたらす破滅的な帰結は、当然にも予想されたことである。このような実情を、欧米における“権益ばかりを追求する政府vsコスモポリタン的連帯を志向する善良な市民”という構図によって置きかえてしまうことの欺瞞性は、否定しようもないだろう。いうまでもなく、先進諸国の国民も共犯関係なのである。
ちなみに、ミロシェヴィッチ政権に対抗する勢力の急先鋒として欧米が支援することになったKLAは、当初アメリカによって「テロ組織」として名指しされた勢力であった。人民ないし民族の自決権を掲げる反体制派を支援することは、テロリストを支援することとは異なるといった主張は、実際的にはほとんど何の意味ももたない。ポスト冷戦期に旧ソ連地域や旧共産圏へとみずからの勢力圏を拡大すべく民主化を支援してきた欧米諸国は、しばしば各国政府にとっての「テロリスト」を支援してきたし、あるいは地域の不安定化を促進することで国際テロ組織が暗躍する空隙をみずから創出してきた。この理想主義的な潮流が、それを実現するための武力をともなって(リアルな力をもって理想を実現することこそネオコンの教義であった…)中東にまで流れこんだとき、終わりなきテロとの戦いは、もはや引き返すことのできない地点にまで到達してしまったのである。
■ 主権国家、帝国、未承認国家
中東のケースは、主権国家の維持やデファクト国家の樹立さえままならず、かつ覇権国家が地域への関与を堅持するインセンティブを弱めたために、内戦や国家破綻が現実のものとなり、権力の空白地帯にテロリズムの巨大な温床を生みだした例だといえるだろう。帝国の世界戦略の致命的な失敗例をここに見出すことができる。これに対して、国際的承認は得られていないが対内的には実効支配を確立しえたデファクト国家、つまり未承認国家が樹立されるにいたった旧共産地域のケースでは、辺境・周縁地域を巧みに利用する非公式帝国の新たな戦略が垣間見える。超大国が複数の地域から撤退を図ろうとする「覇権なき世界」において、莫大なコストのかかる領域的管理は放棄しつつも、なお最低限の機動的な関与を可能にするために点在する軍事拠点を確保するうえでは、未承認国家は使い勝手のよい装置だということができる。特にアメリカの場合、未承認国家やその周辺地域に非公式の基地を保持することが、いわば「軽い帝国」の中心的な世界戦略のひとつの軸をなしている。このように、旧帝国の周縁地域ないし辺境には、帝国秩序を脅かす「破綻国家」と、帝国の軽量化された軍事戦略に寄与しうる「未承認国家」の両方が存在しているのである。
旧共産圏を勢力圏にとりこもうとするアメリカ(とEU)の攻勢に対しては、ロシアはコソヴォの例を逆用し、旧ソ連地域の親欧米諸国の内部にある未承認国家を軍事支援したり独立を承認したりすることで、揺さぶりをかける。この戦術が諸刃の剣であることは間違いなく、チェチェンをはじめ自国内の少数民族問題を再燃させるリスクは高まっている(同書、178-192頁を参照)。他方アメリカのほうでも、未承認国家やその周辺に設置された基地は、「軽い帝国」戦略にとっての重要拠点として大きな役割を期待されるようになっている。
このような未承認国家に重点化された基地戦略の転換は、米軍の海外基地のスケールやその質・役割の変化とも連動しているようである。いわゆる「グローバルな防衛体制の見直し(Global Defense Posture Review)」のなかで、「日本、ドイツ、韓国にあるような冷戦期型の大きな軍事基地の数を減らし、規模を縮小する」と同時に、「アフリカ、中央アジア、黒海地域など、アメリカが伝統的に存在感をもっていなかった地域に、より小さく、より柔軟性の高い軍事施設のグローバルなネットワークを構築する「リリー・パッド」戦略を展開する」(245-6頁)ことが図られた(ライト・スイッチ)。かつてより軽量で機動性の高い小規模基地を帝国周縁地域に多数確保し、相互のネットワーク化を推進していくうえで、未承認国家は戦略上のかつてない重要な位置を与えられつつあるのである。
■ 帝国が産出する無法地帯
哲学者ジョルジョ・アガンベンの診断では、例外状態の全般化に現代社会のひとつの特徴がある。例外状態においては、人間は法による保護から引き剥がされ、ホモ・サケルとしての生を生きる存在となる(アーレントはこれを「諸権利をもつ権利」を剥奪された状態と見た)。その典型的な形象が「収容所」であり、シリアなど秩序が崩壊した地域で大量発生している難民がキャンプでまさにそうした生活を送っていることはいうまでもない。だが同時に、帝国が一面ではみずから進んでそうした超法規的な空間を創出し、戦略上のひとつの拠点として活用していることも忘れてはならない。その象徴が、グアンタナモ米軍基地である。そして、第二、第三のグアンタナモが見出せるかもしれない場所こそ、未承認国家なのである。
(評者:上野大樹)
更新:2015/11/14