書名:ハンセン病療養所を生きる 隔離壁を砦に
著者:有薗真代
出版社:世界思想社
出版年:2017

本書の概要

 十余年にわたる聞き取り調査と文献精査を通じて、全国のハンセン病療養所における入所者の集団活動が持った意味を、従来とは異なる角度から浮かび上がらせる労作。
 ハンセン病療養所入所者の活動についての従来の研究は、1953年に最高潮を迎えた「らい予防法」撤廃闘争を中心に語られることが多い。この時、らい予防法は結局撤廃されず、それ以後の闘争は療養所の生活待遇の改善要求へと目標を転換し、結果として1996年に至るまでらい予防法が存続した。この事実のみを見るとき、この闘争は敗北に終わったと結論づけられることになろう。しかしながら、著者によれば、こうした観方の背景には、こうした施設からの「自由」とは、そこからの「脱出」すなわち脱施設化によってのみ実現されるとする暗黙の前提がある。
 らい予防法の廃止と脱施設化の成否という政治的側面にハンセン病患者の活動を還元せず、戦前から戦後にかけての療養所入所者の活動が一貫して追求していた「平等原理」の実現(それは入所者の中でも経済的・社会的・身体的にとりわけ過酷な状況にある患者のなかから起こってきた)の成否という側面に注目するとき、彼らの闘争は意義ある成果を達成したものとみることができる、と著者は考える。
 また、待遇改善へと目標が転換されたことの時代的文脈も考慮しなくてはならない。後期近代への移行に伴い、「脱出」や「可動性」にもとづく解放戦略は、例えばフレキシビリティの重視という形で権力装置の中に組み込まれてゆく。そこでは「合理化」の名のもと、国庫支出を抑制するために入所者の脱施設化を推進し、福祉商品の消費者として彼らを位置づけなおす新自由主義的政策が主流となってくる。こうした流れの中、ようやく根を張り始めた療養所での生活をも奪わんとする動きへの対抗措置として彼らの待遇改善闘争を理解するとき、それは「動かないこと」を通じた「自由」への逆説的な道筋であったとする観方が開けてくる。権力の側から押し付けられた境界線を自分たちの側から主体的に引き直すこと。「隔離壁を砦に」という本書の副題はそれを意味している。実際、ある時期からは「らい予防法」は空文化していたと言われるが、それは療養所から「動かないこと」を通じた「自由」の達成にほかならない、と著者はみている。
 ハンセン病患者への国家の処遇をめぐる闘争史の意味を著者がこのように読み解くのは第4章においてであるが、著者の目はこうした公的記録に残りやすい活動だけでなく、「あおいとり楽団」の文化活動(第2章)や、賭博や酒屋の営業、ビニールハウス製作などのささやかな日常的活動(第3章)にも向けられている。こうした集団活動が過酷な環境にあった入所者たちに生きがいを与え、さらには隔離壁を超えて外部との回路までをも形成する「自由」を実現していた事実を、著者は丹念に掘り起こしている。
 終章では、これまで閑却されがちであったこれらの活動史の意味が総括される。近代の統治権力が強いた療養所という否定的な環境を、入所者たちは共同作業のなかで編み直し、肯定的なものへと転じることで、自他の生を豊穣化していった。この過程を、著者はアジール/アサイラムという二つ語のニュアンスの差を考慮しつつ「アサイラムからアジールへ」の再編過程として捉える。そして、それがハンセン病施設入所者のみならず、収容所的な支配システムが一般人の生活にまで地続きになっている現代社会において、「脱出」とは別の「自由」の回路の可能性を我々に示唆するものであるとして、論を結んでいる。

書評

〈「動かない」ことによる自由〉

 本書の最大の特徴は、「自由=脱出」という観念の呪縛を解くところにある。「脱出」や「可動性」の契機を取り込んだ新自由主義的政策が推進される現代社会においては、むしろ「動かない」ことによって所与の条件を「編み直し」、そこから「自由」への道筋を作り出してゆく可能性がある、と著者はいう。
 近代の都市民を基準として考える限り、これは逆説的に響く。そこでは「集団(共同体)」の抑圧的から「脱出」した「個人」こそが「自由」な人間のモデルとされているからだ。「脱出する個人」ではなく「動かない集団」における「自由」。それはいかなる「自由」なのだろうか?
 本書で著者も言及している神谷美恵子が、その問いにヒントを与えてくれると評者は考える。神谷は長島愛生園での勤務経験をもとに、『生きがいについて』(みすず書房)を著した。「生きがい」を持つ人は、自分の生活における価値の軸が明確になる。そのことによって「生きがいはそのなかでのびのびと生きていけるような、その人独自の心の世界をつくる」と神谷は記している。この伸びやかさは、その価値を共有する他者がいることによって、いっそうその根を広げることになる。「動かない集団」における自由の本質は、まさにこうした種類のものであろう。
 そして「生きがい」に基づく「自由」を入所者たちが享受することは、結果として、その活動のひげ根を療養所の外部にまで伸ばし、外形的にも見て取れる「自由」への回路を開くことにもなってゆく。社会学者としての著者の記述は、こうした外形的に確認しうる回路を具体的に示すことで、「動かないことによる自由」を実証する形をとっている。しかし、著者が彼らの活動について「分かち合うことそれ自体が価値となり希望となる」と表現しているように、これらの活動によって得られる「生きがい」そのものがこの「自由」の本質だと言えるだろう。
 より普遍的な視点に立てば、このような「生きがい」は、療養所のような閉鎖空間を「脱出」しているか、そこから「動かない」かに関係なく、人間が真に「自由」の豊饒さを享受しうるためにはつねに必要な条件であるといえよう。たとえ制度的変革によって療養所そのものから物理的に「脱出」したとしても―むろんそれも重要なのは確かだが―「生きがい」の根を持たないアトム的個人のままであっては、人は自由になれない。
 「被害者」として国家権力を批判する「否定」の力による政治的解放とは別の形の、「生きがい」が与える肯定の力による現実の編み直し。ともすれば「支配体制への適応」「療養所的思惟」として批判されることもありがちなこうした実践に、著者は、政治的解放に劣らぬ―あるいはそれをも超える―本源的な価値を見ているように思える。

〈アジ―ル論への寄与〉

 「自由」をめぐる著者のこのような見方は、「自由」の場としての「アジール」についての論議にも一石を投じるものである。これまでのアジール研究では、一方にアーヴィング・ゴフマンに代表される全制的施設の研究がある。これらは近代におけるアジールの抑圧的側面を強調するものであり、その場合「アサイラム」と英語発音で表記されることが多い。他方、オルトヴィン・ヘンスラーや網野善彦、阿部謹也らに代表される主に前近代のアジール研究があり、そこではアジールが持つ元来の「自由の場」としての側面が強調される。その場合には「アジール」とドイツ語発音で表記されることが多い。
 既述のように、入所者たちが療養所での集団活動を通じて所与の否定的現実を生の豊饒へとむけて編み直していった営みを著者は「アサイラムからアジールへ」と表現している。元来の民衆的アジールが近代では国家の制度に取り込まれ官製の「アサイラム」へと再編成されていった歴史的経緯をふまえるならば、これは「アサイラムの再アジール化」と言うほうがより適切かとおもわれる。だがいずれにせよ、元来同じ語であるこの二つのカタカナ語のニュアンスの違いを実証研究のなかで連関づける議論は、著者に独特の論点であると言える。
 しかし、評者の考えでは、著者の論考のなかでアジール論にとってより重要だと思われる論点は、「生きがい」をうむ「自由」が、「動かない集団の活動」から生じるという点である。ただし、「生きがい」のもたらす自由は、既述のように究極的には物理的な「脱出」の有無とは無関係であり、むしろ、生を支える中心的価値の有無による。このことを考えれば、「動かない集団」の活動は―神谷も参照するシモーヌ・ヴェイユの言葉を借りて―「根を持つ集団の活動」と言い換えることができよう。それは、長島愛生園で光田健輔が「指がまがっても食物をかきよせるだけの動物になるな。人間の魂を開墾する鍬を握れ」と入所者の文化活動を農耕の隠喩をもって奨励していたこととも照応する。
 こうした「根を持つ集団の活動」が「生きがい」を伴う本源的な自由をもたらす事実は、従来のアジール論に付きまといがちな「アジール=空間」というイメージの弊を解消する効果を持つと思われる。アジール論の古典であるヘンスラーの『アジール その歴史と諸形態』(国書刊行会)では、アジールの分類に「場所的」(寺院や墓地や森など)「時間的」(祝祭期間など)「人的」(客人歓待・共食・氏族共同体など)の区分がある。つまりアジールとは空間に限られず、聖性にもとづく庇護が提供される場全般を意味する。
 しかし、その後の多くのアジール論では空間的アジールばかりが言及され、またそれがアジールたり得る根拠も、その場所自体の神秘性に求められることが多い。むろん宗教的なアジールが存在した時代の人々がその様に表象していたことは事実である。しかし、現代の研究者がそうした神秘力の存在を無邪気に前提した議論を行うことは適切でない。むしろ、ある種の人間集団が編み上げる非日常的な共同性の「根」が、特定の時空に定位されているとき、それが時空そのものの不可侵性として表象される、と考えるべきであろう。その意味で、ヘンスラーの三区分のうち、「人的」アジールが最も本質的なアジール形態であると言える。著者の論考は、そのことを具体的な事例に基づいて実証しているといえよう。

〈筆致〉

 最後に、著者の文章について。「受難の物語を越えて」と題された序章において、著者は入所者S氏の言葉を引用している。「苦しかったことやつらかったことはいくらでもあったけど、『こんなにつらい思いをしました』ってことばっか話してたら、俺たち生きてきた意味がなくなるじゃない。そのなかで何をしてきたかってことを、ありのままに伝えることが、俺の役目だと思っている。」
 この言葉から「重要なことを伝えようとしている」と瞬時に感じたという著者の述懐をはじめとして、本書に一貫して見て取ることができるのは、療養所の人々とその活動を「ハンセン病者」「ハンセン病文学」「加害者/被害者」「権利闘争」「自由=脱出」といった既成のわかりやすい概念や二項対立の枠のなかに押し込めまいとする、著者の繊細な配慮である。対象の概念的明晰化が求められる研究書において、苦難のなかで他者とともに生きがいを作り出した人々の営みを、多様性を損なわないままに掬い出すこと。隘路をゆくようなこの困難な課題を、著者の筆致は成就しえていると思う。本書を多くの人に薦めたい。

※この書評は雑誌『宗教と社会』24号掲載の研究ノート「アジール研究の現状と今後の方向性―網野善彦から自然法と公共性へ」(舟木徹男)において既に公表した内容と部分的に重なっています

(評者:舟木徹男)

更新:2018/06/11