書名:市民的不服従
著者:寺島 俊穂
出版社:風行社
出版年:2004

 現代ドイツの教会アジールについての研究書を読んでいて、国家の公権力の専横に歯止めをかける対抗的公共圏の可能性へと通じる道筋として、「市民的不服従」という概念を知った。現代において平和の場としてのアジールをどのような形で創成しうるかという関心から、この概念についてもっと詳しく知りたくなって読んでみた。
 大きく言って二つの点で、非常に有益な書物であった。ひとつには、市民的不服従の理念と運動に関する明快かつ丁寧な解説がなされている(第一部)という点で。また一つには、市民的不服従という考え方を媒介に、戦争廃絶を視野に入れた「非暴力防衛」という目から鱗が落ちるような防衛理念を打ち出している(第二部)という点で。以下ではまず各部の概要を紹介しよう。

第一部

 第一章では市民的不服従の理念が概説される。「市民的不服従civil disobedienceとは、自らの行為の正当性の確信のもとに行われる非合法的行為である。それは、特定の法や政策に自覚的に違反する公的行為であり、自分の良心に照らしてどうしても服しえない国家の命令に対してなされる。」(15)。その特徴は三つにまとめられる。①法そのものの否定や政府の転覆を狙うものではなく、特定の政策や法に対して限定的になされ、求める変更がなされれば運動は終結する。②公共性を備えていること。これには二つの意味がある。第一には、衆人に公開されたかたちで公然と行われること。第二に、抗議の内容が公共の利益に関するということ。③自己の正当性を主張するのに正しい手段を択ばねば一貫性が保てないため、抵抗手段が非暴力的であること。
 次に著者は、現代において市民的不服従を有効たらしめている条件として、①権力や影響力の源泉がいくつもあることが権力の流動化の条件になっており、いったん市民的不服従が運動として展開されると、既存の権力に対峙するだけの一つの権力となりうること、②統治機構に暴力装置が集中している状態では暴力で立ち向かっても勝ち目がなく、逆に非暴力の方が公的支持を拡大してゆくうえで有効であること、③マスメディアの力が増している現代では、報道されることにより市民的不服従は共感を勝ち取りやすいこと、などを挙げている。そして、市民的不服従が集団的な運動として既成の権力に対する対抗権力を獲得してゆく力学を、アメリカにおける自発的結社行動の文化についてのハンナ・アレントの考えなどを参照して分析している。
 第二章では、市民的不服従の理念の祖であり、奴隷制に対して納税拒否という形でプロテストしたアメリカの詩人H.D.ソロー、および、それをサティヤーグラハという運動にまで発展させたガンディーについて、その思想と運動が、両者の伝記的事実を交えつつ概説される。ガンディーの市民的不服従の特徴は、ソローのあくまで個人的な市民的不服従を、集団的な運動形態にまで発展させたところにある。また、ガンディーは集団的不服従運動のなかに「受動的抵抗」と「サティヤーグラハ(真理の把持)」の区別を設け、前者は相手への憎しみをも含む「弱者の武器」であり、後者は復讐心を抱かず、敵を赦す精神的な力に支えられた「強者の武器」であるとした。「サティヤーグラハ」によってガンディーはたまたま敵対している相手にも信頼を築き、闘争相手の覚醒を目指した。こうした考えから、ガンディーは1941年のヒトラー宛書簡でも「親愛な友」と呼びかけ、「私があなたを〈友〉とお呼びするのは、儀礼上そうするのではありません。私は敵を持ちません。」(101)と言っている。なお、ガンディーのサティヤーグラハは単に英国の不正を是正する手段にとどまらず、「建設的プログラム」とガンディーが呼ぶ、社会の不正全体を正してゆく社会改革のプログラムとしても追求された。
 第三章・第四章ではそれぞれ、M.L.キング牧師と公民権運動、および、日本での在日朝鮮・韓国人の指紋押捺拒否の思想と運動が概説される。
 キングは運動の過程で図らずもリーダーに押し上げられていったが、その中でガンディーの影響を受けながら「非暴力の哲学」を培った。その骨子は五点に要約される。①非暴力抵抗は反対者に彼らが間違っていることを説得しようと努めている、②反対者を打ち負かしたり侮辱したりすることは求めず、反対者との和解こそが目的である、③攻撃の目標は、たまたま悪を行うようになった人間ではなく、悪そのものの力である、④報復しないで攻撃者の攻撃を甘受する、⑤非暴力の中心には愛の原理(アガペー)があり、身体的暴力だけでなく、内面的な精神による暴力も避ける。
ガンディーの場合もそうであったが、キングの場合も、指導者のカリスマの力が大きな役割を果たし、彼らの運動がマスメディアによって伝えられることで支持者が増え、それが目標の達成に大きな力となっていた。
 指紋押捺拒否運動については、これが市民的不服従の一種であるということに、評者は本書を読むまで迂闊にも気付かなかったが、日本で―日本人が主体となってではないが―実践され成功した数少ない市民的不服従の運動として記憶にとどめておくべきであろう。

第二部

 「戦争廃絶の論理」と題された第二部では、まず第五章で、市民的不服従の一形態としての兵役拒否(良心的兵役拒否と徴兵忌避を含む)について、その思想と歴史が概説される。ロールズやアレントはこれを市民的不服従と区別するが、著者は「特定の法に違反する」という点に重点を置き、良心的兵役拒否を、それが法制化されていない国では市民的不服従の一形態ととらえる。
 これまでの現実の歴史では、キリスト教の特定宗派(クエーカーやブレズレン派、エホバの証人)の教えに基づく宗教的良心によるものが多く、南北戦争期における法制化に与って力あったのもアメリカに渡ったクエーカーであった。イギリスでは1916年の徴兵制導入とともに、フランスでは1963年のアルジェリア戦争において、スイスでは1991年の国民皆兵策の転換とともに、良心的兵役拒否の制度が導入された。全般にカトリック国では導入が遅いこと、「良心」が宗教的良心のみからそれ以外の道徳的信条に基づくものまで認める方向にあることが確認される。
 日本では明治国家における国民皆兵制度とともに徴兵に対する拒否や反対は生じたものの、世間の目を恐れ同調圧力が強く働く日本社会では、ごく一部のキリスト者を除いては良心的兵役拒否は見られず、集団的なそれは灯台社(エホバの証人)にしか見られなかった。
 普段は他人の生命を奪う行動が最大の悪とされているのに、戦争においては、他人の生命を奪う行動が正しいとされている。この二重道徳の矛盾を鋭利にしてゆくことに、著者は兵役拒否の今後の思想的基盤を求めている。そして、そこから戦争そのものの存在理由を問いかけ、正戦論をこえて戦争システムそのものから人類を解放する道を探るべきだとしている。
 第六章・第七章では、ここまでの市民的不服従の思想と実践を基礎に、「非暴力防衛」の思想がそれぞれ展開される。
 両章では、これまで一国の内部で成果を挙げてきた市民的不服従という闘い方を、国家間の戦争においても応用するという考えが展開される。通常、他国からの侵略に対しては対抗軍事力で防衛するということが固定観念となっているが、「侵略に対して非暴力手段で立ち向かうことが有効なのか、非暴力抵抗を中心に据えた防衛戦略とはいかなるものなのか」(217)ということが、考究されるべき問題であることが示される。それは「非武装」ではあっても「無抵抗」とは峻別される。「非暴力防衛とは、たとえ軍事的侵略を受けても、国民が一丸となって非暴力抵抗運動を行い、侵略の目的を遂げさせず、軍事的侵略を敗北に追い込んでいくことを狙いとしている。」(242)
 そして、著者はこうした非暴力闘争の手段として、以下の四種を挙げている。①行進、ピケ、ヴィジル、官吏への付きまとい、プロテストのための文書配布、栄典の放棄、などの「非暴力的プロテスト」、②ストライキやボイコットによる「非暴力的非協力」、③座り込み、ハンスト、断食、第二政府の樹立、などの「非暴力的介入」、および、④国の内外にむけて占領の実態とそれへの抵抗の存在を知らせることによって、国内的・国際的な世論をする「情報伝達」。
 また、非暴力闘争が国家間の紛争で効果を上げた歴史上の実例として、第一次大戦後のフランス・ベルギーによるドイツのルール占領へのドイツの抵抗、ナチ占領下のノルウェー国民の非協力運動、チェコの「プラハの春」の春において民衆の間に自然発生的に生まれた非暴力抵抗(物資供給拒否、新政府樹立句碑、戦車の前の座り込み、ラジオでの占領軍兵士の説得など)、ハンガリー動乱における同様のプロテスト―そこではソ連軍将校の中からハンガリー側に身を投じ戦死する者が現れた―、1991年のソ連でのクーデタ阻止、などを挙げている。
 非暴力抵抗は何故有効なのか?「非暴力抵抗が有効だとしたら、それは侵略国にとって侵略それ自体が目的ではないからである。侵略は、より大きな目的を達成するためになされるものである。そして、そのためには他国の民衆を効率的に占領・支配しなければならないが、非暴力的抵抗によってこれが困難になるのである。」(223)
 実際、非暴力抵抗はとくに二十世紀以後に有効になっている。それは大国と小国の軍事力の差が拡大し、小国が対抗軍事力で防衛する方がかえって相手の報復によって犠牲が大きくなっているという現実、および、メディアの発達によって大国の不正を世論に訴えやすくなっているという現実に根差している。実際、著者によれば、海外の各国において非暴力防衛は「信条」ではなく「政策」として真剣な検討の対象とされてきている(たとえば1991年、ソ連に隣接するバルト三国は独立時に非暴力防衛の政策が検討・決議された)。そのことは、本来は憲法九条の存在によってこうした「政策」への道が最も近くにあったはずの日本が、逆に自衛のための軍備を年々増強しており、ついには先制攻撃論まで出ているという皮肉な実情と対照的である。それには「非武装」と「無抵抗」をあいまいに混同してきた旧社会党などの護憲勢力にも責任があると著者は鋭く指摘している。
 そして、「非暴力が国内的な闘争で有効だったという点に注目するなら、対外的な意味での非暴力の有効性を高める途は、市民社会を国家の枠を超えて拡げて行き、国家の壁を下から相対化していくことにあると言えよう」と言い、そのためにまずもって必要なのは「近隣諸国との友好関係を市民レベルで確固としたものにしてゆくことである。こういった公共圏が重層的に構成する場として、地球市民社会は形成されてゆくと思われる」(258)としている。
 本書の終章である第八章では、憲法九条を戦争廃絶の原理として位置づけることが試みられる。その前提として、憲法九条の論理を明確化したうえで、その成立と解釈の歴史をたどることに多くの紙幅が割かれている。日本国憲法の成立過程、占領政策の転換に伴う解釈改憲と自衛隊の成立、「自衛のための戦力は合憲」という芦田修正の解釈、なし崩し的な軍備拡大etc.という、現在に至る日本の防衛政策のねじれと詭弁と偽善の歴史が時系列に沿って明快に整理されており、憲法九条をめぐる戦後史のコンパクトなテキストとしても有用と思われる。著者はこうした整理の上に立って、厳密な意味で憲法九条と矛盾しない形の防衛戦略は、前二章で展開された「非暴力防衛」であり、これがやがては世界における戦争廃絶へと通じる可能な道筋である、と論じている。

対抗戦力とは別様の防衛へ

 上記のような内容を備えた本書のなかで、評者がとくに蒙を拓かれたのは、評者の当初の関心であった市民的不服従についてよりもむしろ、戦争廃絶という人類史的目標を見据えつつ著者が展開した「非暴力防衛」という考え方についてである。
 現在(2018年3月)、改憲勢力が衆参両院で三分の二以上の議席を獲得しており、日本国憲法の改正がいよいよ現実味を帯びた問題となってきているが、憲法第九条と自衛隊をめぐって現在は大きく分けて三つの立場があると思われる。
 一つは、安倍内閣が打ち出しているように、自衛隊の位置づけを憲法で明白に位置づけるべきだというもの。だがそうすると、自衛隊は国防のために「存在しなくてはならないもの」という位置づけになる。それは軍事費の際限なき増大を招く恐れがあるばかりでなく、そもそも本来は違憲と思しき自衛隊を無理な解釈改憲でなし崩しに存在させたことを肯定することになってしまうという根本問題がある。
 他方で、憲法九条を制定当時に趣旨に沿って厳密に解釈し、自衛隊を災害救助隊などの形へと転換してゆき、自衛のためであっても武力を一切保有しない、という当初の理想に近づけてゆく、という考えがある。これは確かに考えとしては理想的だが、「万一ヒトラーのような独裁者が現れて対話の可能性を一切無視して日本を攻撃してきたらどうするのか」といった不安には十分に応えられないものとなる。「そのときも、対抗して戦争するよりは、坐して死を受け入れる」という肝の据わった平和主義者もいるだろうが、誰もがガンディーのような聖人ではない以上、皆にそうした覚悟を強いることは現実的には無理である。
 第三の考え方としては、あえて「自衛軍」として憲法上で国防の義務を明記してしまうと際限なき軍国主義に通じる可能性があるので反対だが、まったくの非武装では不安だから専守防衛を原則に自衛隊はそのまま残せばよい、という考え方である。これはいわば現状維持派であるが、そうすると「自衛のための戦力は戦力のうちに入らない」とか「自衛隊は軍事組織ではなく行政上の組織だ」という現状の詭弁や偽善を承認してしまうことになる。これは第一の考えと同様、憲法そのものの存在意義を蝕むことになる。
 以上、三通りの考え方それぞれに難点はあるが、憲法に反しないという点を根本に据えれば、第二の考え方を選ぶことになる。しかし、侵略に対してどのように対応するのかという問題に対して、旧社会党をはじめとする人々は、これまで明確なヴィジョンを持っていなかった。そのため「誠意をもって話し合えば相手国との関係修復に至るはずだ」というヒューマニスティックな議論にすら陥りがちであり、それが「お花畑」と揶揄される原因ともなっている。実際、社会党村山内閣は1994年に政権中枢につくや否や、従来の憲法解釈を180度転換して自衛隊合憲に転じるという醜態をさらした。そこに、従来の護憲勢力の政策論的な脆弱さが露呈したのである。
 だが、それが「お花畑」になってしまうのは、「非武装」と「無抵抗」を区別しなかったことによる。「非武装」であっても「抵抗」の道はあり得るし、「非武装」だからといって誰もがガンディーやキング牧師のように侵略者を愛する気持ちを持つ必要はない。敵に対して憎悪を抱くのは仕方ないとして、純粋に戦略として「武力によらざる防衛」という選択肢があること。それを、歴史上の実例をふまえて説明しているところに、本書の眼目がある。戦力放棄を厳密に遵守しつつ、対抗戦力とは別様の形で防衛力を持つ、という本書の考え方は、憲法論議と併せて、政策的レベルでももっと議論・検討されてよいと思われる。

残された論点―メディア・防護施設・言論統制

 「市民的不服従」を戦争廃絶へとつなぐ道筋として、本書は「非暴力抵抗」の理念を提示しているが、これと関連して併せて論じられるべき点がいくつかあると思われる。ひとつは、メディアの活用という問題である。本書でも言及されているように、ガンディーやキング牧師の活動が成功を収めたことの大きな要因として、メディアによって彼らの活動と抑圧者の不正が全世界に知らされ、世論が彼らに味方したことが挙げられる。したがってメディアの役割は非暴力抵抗においても重要である。だが、ベトナム戦争ではリアルタイムで送られてくる戦場の映像が反戦の世論を喚起してアメリカの敗戦を招いたことを教訓に、国家の側もメディア対策をしていること、しかも、ボスニア紛争やイラク戦争の場合のように、そこに広告代理店までもがかかわっていることが知られている。そうした国家のメディア戦略と対抗して、なおかつ、フェイクニュースなどによるメディアそのものへ不信をも乗り越えながら、非暴力抵抗の現実を国内・国外に広く知らせ世論に訴えるにはどうしたらよいのか、その戦略を具体的に練ってゆく必要があるだろう。その点、著者には別稿で論じてもらいたいところだ。
 また、非暴力抵抗の手段については既述したとおりであるにしても、これを非暴力防衛という国家防衛の次元に置いて論じる際には、戦争時の物理的な防護策(シェルターやレーダーの整備、戦災時の避難訓練など)の充実化を併せて図ってゆくことが必要であり、その点が不十分であれば「非暴力防衛」が座して死を待つ「無抵抗」と混同される可能性が残ってしまうであろう。
 なおまた、非暴力防衛は軍隊が主体となった軍事力による防衛ではないため、民衆一人一人の非暴力の自覚と忍耐に依存する部分が大きい。そして、非暴力を最後まで貫徹できなければその効果は薄い。それは、アイスホッケーの対ソ連の試合でチェコチームが優勝した興奮から民衆が非暴力の規律を失ったときに「プラハの春」が敗北したことからも理解できる。
 したがって、著者も言うように、非暴力による防衛を実現させるには、民衆を非暴力へと向かって訓練してゆく必要がある。だが、非暴力で民衆(国民)を一丸とすることは、暴力へと向かって民衆を一体化させるよりも難度が高いと言えるだろう。攻撃的な「熱い」思想のほうが民衆を一体化させやすいことは日常の経験からもわかる。それだけに、非暴力を一貫しようとすれば、非暴力思想に疑問を持つことが一切禁じられるような強固な言論統制が、生じないとも限らないであろう。この点の危険をどう考えるか、著者の考えを伺いたいところである。
 このように、さらに論理を詰めるべき点はいくつかあると思われるものの、本書は「市民的不服従」の概説書としても、それを戦争廃絶へと橋渡しする画期的な「非暴力防衛」の考えの啓蒙書としても、また、憲法九条と自衛隊について考えるための新しい視角を提供する研究書としても、極めて優れた著作であることは動かない。タイトルの『市民的不服従』の語自体が人口に膾炙したものではないために、隠れた名著にとどまっているように思われる。憲法改正論議が本格化しつつある現在、本書を多くの人に薦めたい。

(評者:舟木徹男)

更新:2018/03/16