書名:近代――未完のプロジェクト 著者:ユルゲン・ハーバーマス 訳者:三島憲一 出版社:岩波書店 出版年:2000 |
20世紀を代表するモダニズム運動の一つが「バウハウス」にあるとするなら、同じラインから 〈近代〉 を掩護する理論家としては、ユルゲン・ハーバーマスの名を挙げることができるでしょう。
本書に収められた「近代 未完のプロジェクト」(1981年)は、しばしば評判の芳しくない「近代」を、その理念・理想において擁護するマニフェスト的な論文と言ってよいでしょう。
◆ 近代の合理化=社会の機能分化
そもそも、19世紀以来、資本主義や国民国家といった、合理的なシステムが制度化される一方、社会の合理化は、社会の断片化を、マックス・ウェーバーが「精神なき専門人、心情なき享楽人」と呼ぶような病理をも生み出しました。
「生活と芸術、産業の融合」というバウハウスの目標が、バラバラに砕け散った社会の再統合を図る試みだったとすれば、ハーバーマスの関心もまた、経済、政治、科学、文化システム…として、複雑に機能分化している社会全体を、どうやって統合できるのか、という実践的な課題にありました。
だから、彼にとって「全体社会の統合, Integration der Gesellschaft」とは、たんに各システムが正しく機能しているだけでは不十分で、それぞれのシステムを、現実に私たちが生きている「生活世界, Lebenswelt」へと係留しておくことが必要なのです。
◆ 美的領域への注目
さて、以上のような彼の理論的な前提を大急ぎで確認した上で、この論文が興味深いのは、〈近代〉の試金石として、美的領域の問題が遡上にあげられていることです。では、社会の統合にとって、芸術はどのような役割を果たすというのでしょうか。
ハーバーマスは、古代以降信じられてきた「真・善・美」という価値領域が、次第に統一を失っていくというカント・ウェーバーの時代診断を踏まえています。芸術の自律化がもたらしたのは、かつてのパトロンであった教会や宮廷とは無関係に、創作や批評を可能にした反面、美の知識や技術の専門化による、一般の市民にとっての芸術の無意味化、疎隔化でした。
20世紀初頭、「自動筆記」などで知られる「シュルレアリスム」が現れたのは、高踏化した芸術の敷居を下げようとする目的からですが、ハーバーマスに言わせれば、それはせっかく確保した芸術の自律を台無しにする性急な試みであり、その意味でナンセンスなものであったと。
したがって、彼が望むのは、分化した美の領域を保ちつつ、同時に、芸術は生活世界との結びつきも失わない、という微妙なバランスの維持なのです。
◆ 政治の美学化 vs. 美学の政治化
ちなみに、美と生活実践との間違った統合の例はナチス・ドイツです。アメリカのフランクフルト学派の一員をなすマーティン・ジェイは『場の力(原題 “Forse Fields” )』において「政治の美学化」と「美学の政治化」とを対置しています。
画学生志望だったヒトラーは、レニ・リーフェンシュタールによる記録映画「意志の勝利」や建築家 A・シュペーアが演出した「光の大伽藍」をはじめとする、圧倒的な芸術の動員によって自らの政治的偉大さを飾り立てました。もちろん、それが重大な誤りであったことは、今日では自明でしょう。
◆ 探照灯としての美的経験
では、ありうるべき”統合”とはどのようなものなのでしょうか。
それは、「政治の美学化」ならぬ「美学の政治化」です。ハーバーマスは次のように述べます。「美的経験が、受容者の生活史上の状況を闡明する探照灯的(explorativ)な役割をもつ(73頁)」と。
つまり、芸術的経験が、私たちの社会についての理解や、あるいは、”何をなすべきなのか”といった道徳的規範にも影響を与える可能性を示唆しているのです。
「真・善・美」のなかで、一番頼りなさそうな”主観的・美的経験”に焦点が当てられているというのは、興味深いことです。
この点については、たとえば、ハーバーマスとハイデガーを対比させたP・ドゥベネージの”Habermas and Aesthetics”、あるいは、カントの美的判断論の政治的可能性について論じたH・アーレント『カント政治哲学講義録』、宮崎裕助『判断と崇高』が参考になりそうです。
なすべきことの確たる根拠が揺らぐとき、”手すりなき思考”のヒントは、ひょっとすると、一人ひとりの美的経験のなかにあるのかもしれないのです。
(評者:大窪善人)
更新:2018/08/12