発表者:百木 漠
記念すべき第一回の模擬授業は、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』を題材にした授業が行われました。当日は約20名の院生・学部生が参加し、ディスカッションも大いに盛り上がりました。
▼ グローバル化時代の『共産党宣言』?
『〈帝国〉』は2000年に発表され、「グローバル時代の新たな主権と資本主義の在り方」をマルクス主義的な視点から論じ、発表当時は大きな話題を呼んだ書物です。スラヴォイ・ジジェクはこの書物を(やや揶揄を込めた意味で)「現代の共産党宣言」と評しました。
この書物はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著で書かれているわけですが、主著者であるネグリはイタリア出身で筋金入りのマルクス主義者、というよりもラディカルな活動家です。同時に、マルクスやスピノザなどの研究で知られ、パドヴァ大学やパリ第8大学で教鞭をとる政治哲学者でもあります。
▼ グローバルな主権の登場――〈帝国〉
この本の冒頭でネグリ=ハートが主張しているのは、現在、国民国家に代わる「グローバルな主権」が新たに登場しつつある、ということです。ネグリ=ハートはそのグローバルな主権を〈帝国〉と名づけます。
「主権」は、英語sovereigntyの訳語であり、通常、「領土内のあらゆる集団や個人を支配する最高絶対の権力」という意味で使われます。国民主権や国家主権という言葉をよく耳にするとおもうのですが、近代においては、基本的に主権をもつ主体は国民国家nation-stateであるとされています。
しかし、ネグリ=ハートは現代のグローバル化の進行状況を受けて、もはや国民国家は重要な主権の担い手ではなくなってきている、と見ます。現在、世界の政治や経済の在り方を決定づけている「最高絶対の権力」は国民国家ではない、それは新たなグローバル主権、すなわち〈帝国empire〉である、というのです。
さらに、〈帝国〉はグローバルな主権であると同時に、グローバルな資本主義システムでもあります。現代の世界経済は、決して国民国家経済の枠組みでは捉えることができない。むしろ、グローバル空間を自在に行き来する資本主義の流れこそが決定的な要因です。それは、中心をもたず、ネットワーク状に作動する新たな「権力」と「資本」の在り方です。
▼ 〈帝国〉かアメリカ「帝国」か
このようなネグリ=ハートの〈帝国〉=グローバル主権+グローバル資本主義の捉え方は、グローバル化時代に適合した新たな主権論&資本主義論として、論壇に大きな反響を巻き起こしつつ、同時に大きな批判をも引き起こしました。さらに、『〈帝国〉』出版直後の2001年にアメリカで9・11テロ事件が起こり、その後のアメリカのテロリストに対する振る舞い(「文明と野蛮の戦い」)やアフガニスタン・イラクでの戦争を経て、まさにアメリカが世界「帝国」を形成しようとしているのではないか、という議論も沸騰しました。冷戦が崩壊し、ソ連というライバルがいなくなった今、アメリカが敵なしの超大国として世界に君臨し、「自由と民主主義の帝国」を創ろうとしているのだ、というわけです。
しかし、ネグリ=ハートは、新たなグローバル主権である〈帝国〉と、あくまで国民国家の枠組みで捉えられた「アメリカ帝国」を慎重に区別しています。〈帝国〉はある意味で非常にアメリカ的であり、アメリカは〈帝国〉のなかで特権的な位置を占めているけれども、〈帝国〉=アメリカではない、とネグリ=ハートはいいます。このあたりが非常に議論が錯綜するところで、模擬授業中のディスカッションでもこの点がひとつの大きな論点となりました。
▼ 〈マルチチュード〉とは何か?
さらにネグリ=ハート『〈帝国〉』が批判されやすいのは、もうひとつのキーワード、〈マルチチュード〉をめぐってです。ネグリ=ハートは、「現在のグローバルな主権と資本主義の支配下にいるすべての人々」のことを〈マルチチュード〉と呼び、この〈マルチチュード〉こそが〈帝国〉に対抗する主体となるのだ、といいます。つまり、かつての資本家に対抗するプロレタリアートにあたるのが、現代の〈マルチチュード〉だ、ということですね。
かつてのプロレタリアートでは、労働者、特に工場で働く男性賃金労働者がイメージされていましたが、ネグリ=ハートのいう〈マルチチュード〉は、男性賃金労働者だけでなく、家事をする主婦や失業者、学生や老人、移民や障害者やセクシュアル・マイノリティなど、資本=〈帝国〉に対抗するすべての人々を含みます。もともと〈マルチチュードmultitude〉とは、「群衆」や「人々の群れ」という意味です(浅田彰は、これを日本語に訳すなら「有象無象」が一番しっくりくる、と表現しました)。このような多様な人々の群れ=マルチチュードという概念は、ネグリがイタリアで「アウトノミア」と呼ばれる運動に関わるなかで獲得されたものです。
ネグリ=ハートは、〈マルチチュード〉が〈帝国〉の内部で、〈帝国〉の武器を逆用しながら、〈帝国〉への対抗運動を起こす、という現代の「革命」像を極めてポジティブに、オプティミスティックに、この本の最終章に書き表しています。このネグリ=ハートの戦略は、あまりに楽観的にすぎるものだ、としばしば批判されています。左翼批判の文脈だけでなく、左翼論者(マルクス主義者)のなかからもそのような批判がしばしば聞かれます。
このような批判は果たして妥当なものなのだろうか?ネグリ=ハートの戦略に現実可能性はあるのだろうか?そもそもなぜ〈帝国〉に対抗しなければならないのだろうか?こういった疑問もディスカッションの中で取り上げられ、大いに議論を呼びました。
▼ 第一回模擬授業を振り返って
発表者としては、院生を中心に議論が盛り上がってよかったな、と思う反面、学部生や他分野の人には分かりにくい授業をしてしまったかな、と反省しています。「学部生や他分野の人にもわかりやすい授業をする」というコンセプトだっただけに、この点は大きな反省点&今後の課題点です。レジュメ主体のゼミ形式の発表になってしまったことも反省点で、次回以降は黒板を使った「授業」の形式にこだわった講義をしてもらえれば、と次回以降の講師に期待しています。
初めての模擬授業でいろいろと慣れない点はあったのですが、当日は20名近くの院生・学部生が様々な分野から集まってくれて非常に嬉しかったです。次回以降も、さらに活気のある「模擬授業」を展開していければ、と考えています。