発表者:浅野直樹
第二回の模擬授業は「精神分析入門/応用」と題して、事前に精神分析にまつわる疑問を募集し、それに答えながら精神分析の入門的な講義を行い、最後には個人的な研究内容を紹介しました。
<目次> Ⅰ.導入 Ⅱ.精神分析入門 Ⅲ.現代社会への応用 Ⅳ.ディスカッション |
Ⅰ.導入
▼ 事前に寄せられた疑問
・精神分析は科学か否か
・エディプスコンプレクスの仕組み
・リビドーやタナトスとは何か
・臨床実践的有効性
・病気の理論が普通の人にも適用できる?
・心理学や精神医学との関係
・男性中心主義という批判
▼ フロイトの略年譜
年代 | 年齢 | 出来事や代表的な著作など |
1856 | 0 | オーストリア帝国内のフライベルクにて誕生する。 |
1860 | 4 | ウィーンに移住(以後晩年までウィーンにて暮らす) |
1860 | 1895 | 4 | 39 | 医学部にて神経学の研究 プラトンやJ.S.ミルの翻 *1 コカインや失語症の研究 |
1895 | 39 | 『ヒステリー研究』 |
1900 | 44 | 『夢解釈』 *2 |
1900 | 1912 | 44 | 56 | いろいろな症例や理論を発表 |
1912-13 | 56-57 | 『トーテムとタブー』 |
1915-17 | 59-61 | 『精神分析入門講義』 |
1917 | 1932 | 61 | 76 | メタ心理学(『自我とエス』など) |
1932 | 76 | 『続・精神分析入門講義』 |
1939 | 83 | ロンドンにてガンのため死去 |
*1 「知」や「自由」という、精神分析理論の中で重要な位置を占める概念が、プラトンとミルの翻訳という形で精神分析以前に見出されるのがおもしろいです。
*2 これまでは『夢判断』と訳されることが多かったのですが、岩波書店から刊行中の『フロイト全集』では『夢解釈』となっています。この岩波版の全集は訳注が充実しています。これまでは人文書院の『フロイト著作集』が一番まとまった邦訳で、その他に重要な論考の邦訳が文庫版などで出版されています。『フロイト全集』ではこれまでの訳語に大幅な改変が加えられており、既存の訳との対応に気をつけなければなりません。
Ⅱ.精神分析入門
▼ 『精神分析入門講義』の位置づけ
第一章で失錯行為、第二章で夢、第三章で神経症が論じられています。これはフロイト自身が研究発表を行った順番とはちょうど反対になっています。このように順番が入れ替えられたのは、正常だと考えられている人にも身近な失錯行為や夢を通して、精神分析理論の正当性をフロイトが主張したかったからでしょう。『続・精神分析入門講義』では初代の『精神分析入門講義』以後に深められた、メタ心理学の説明に多くのページが割かれています。
▼ 失錯行為、夢
失錯行為に関して、フロイトは「心的な事柄に偶然はない」と主張しています。よってうまくいけば失錯行為を解釈して、行為者の無意識的な動機に迫ることができます。しかし、特定の失錯行為が一義的に解釈できるわけではないことには注意が必要です。
「夢は夢を見ている人の願望充足である」というのがフロイトの基本線です。まず「夢を見ている人」という部分に注目してください。フロイトは個人主義的な図式を堅持します。テレパシーを論じる際も、テレパシーが存在するかどうかはわからないが、精神分析的に解釈することが大事だという結論に至ります。その点集合的無意識を考えるユングとは大きく異なります。
夢は願望充足であっても、それをストレートな形では表現していません。いわば検閲を受けたかのように、内容が歪められています。ですので検閲されて出来上がった夢の顕在内容から、夢を見た当人の連想や象徴表現のルールから解釈をして、潜在思考を再構成するのが精神分析の作業となります。
▼ 神経症
まずは神経症の大まかなイメージをつかんでもらいましょう。ネズミに透明なドームをかぶせて閉じ込めると、しばらくはそこから出ようともがいた後は諦めるようになり、ドームを外してもじっとしたままであるという心理学的な実験の話があります。その実験そのものの当否はさておき、神経症とはこのネズミのような状態です。つまり、今では自由に行動できるはずにもかかわらず、幼年期に身につけてしまった、当時は合理的であった現実への対処法にしがみついている状態です。これが「固着」です。
それではその神経症をどのように治療するのかというと、今は自由に動けるのだよと患者に知らせるのです。もちろんそれは口で言うほど簡単なことではありません。単に分析家が「あなたは自由である」と患者に告げるだけで神経症が治るなら誰も苦労しません。
それではそのことを患者に知らせる技法を考えましょう。フロイトも時代の流行に則り、初期の頃には催眠や暗示によって神経症の治療を試みていました。しかしその方法では仮にうまくいった場合であっても効果が持続しませんでした。それに権威主義的なやり方がフロイトの気に入らなかったということもあります。というわけでフロイトは独自に自由連想法を編み出しました。患者に自由な思いつきを話してもらい、分析家は平等に漂う注意でそれを聞いて解釈をするという方法です。自由に思いつきを話すといっても、本当に自由(ランダム)であってはどうしようもありません。そうではなく、そこで話される思いつきは、ちょうど夢と同じように、無意識の願望と検閲との妥協の産物なのです。
フロイトは自由連想法を用いて神経症治療の実践を積み重ねていくわけですが、一つの問題に突き当たりました。神経症は「(つらい)現実」への対処なのですが、幼い頃に父親から誘惑されたという「現実」を話す女性が相当な数に上ったのです。そこでフロイトは、神経症に関しては実際の物理的な現実であっても、心的な現実であっても構わないと軌道修正することにしました。この点をめぐって後に、特にアメリカで訴訟合戦に発展しました。
神経症ではその中核に性的な事柄が深く関与していることが多いです。この点が精神分析を批判する格好の材料となるわけですが、フロイトは最初から性的な事柄からすべてを演繹しようとしたわけではありません。あくまでも臨床経験の中から性的な事柄の重要性を確信するに至ったのです。また、「性的」と「性器的」とをしっかりと区別する必要があります。思春期以前の子どもは「性器的」な愛情表現はできませんが、「性的」な愛情表現をすることはできます。キリスト教では生殖につながらない性行為を否定する側面が強いですが、子どもはそんなことはおかまいなしに多型倒錯的なのです。子どものときにそうなのですから、大人になっても倒錯的な傾向を示すことは珍しくありません。「倒錯」というと極端な印象を受けますが、倒錯概念を厳密に適用すると、キスすることも倒錯に含まれてしまいます。
最後に神経症に関して、あと一つだけ重要な概念を紹介しておきましょう。それは感情転移です。フロイトは自分が治療をしている患者から不当に愛される、あるいは不当に憎まれることが多いということい気づきました。それは治療の推進力になることもあれば妨げになることもあります。この感情転移はエディプスコンプレクスと大きく関っているのですが、それについては後で触れましょう。
▼ メタ心理学
ここまで確認してきた初代の『精神分析入門講義』の中に精神分析の基本的な道具立ては揃っています。それではそれ以降にフロイトが何をしたのかというと、精神分析の理論や用語の深化を図ったのです。
その最たる例が「無意識」です。当初は単に「意識されていないもの」という記述的な意味合いで用いられることが多かったです。後に頑張れば意識化できる前意識が意識と無意識の間に挿入されましたが、大きな概念変更ではありませんでした。この無意識―前意識―意識という記述的な用語は第一局所論と呼ばれています。しかしこれだけでは抵抗や検閲といった力動を説明することができませんでした。そこでフロイトは新たにエス―自我―超自我という第二局所論を提起するに至りました。エスは無意識とおよそ対応すると考えてもそれほどはずれてはいませんが、前意識と自我、意識と超自我に対応関係はありません。自我はエスと超自我と外界の三者に同時に仕えるような存在ですし、超自我はそのエネルギー源をエスに負っています。エス―自我―超自我は下図のようなイメージです。
「続・精神分析入門講義」より |
力動論そのものにもこの時期に変更が加えられました。最初の頃フロイトは「飢えか愛か」という詩人の言葉を引き合いに出して、自己保存欲動と性欲動とを対比していました。しかしその枠組みではナルシシズムや攻撃性などがうまく説明できません。そこでフロイトはこの二つの欲動を生の欲動として統合しました。そうすると心的エネルギー一元論の立場に立つユングと同じだと思われるかもしれませんが、生の欲動は死の欲動と新たに対比されることで二元論の枠組みそのものは維持されます。死の欲動を生物学的に記述するなら、無機物へと戻ろうとする傾向です。
こうした概念の練り上げを受けて、この時期にエディプスコンプレクスについても正面から論じられるようになりました。男の子はそもそも自分の世話をしてくれる母親に愛情を向けるのですが、あまり直接的に愛情を向けるわけにはいきません。そうしようとすると父親から「去勢するぞ」と脅されるのです。その時の父親に対する憧れと攻撃性とが混ざり合って超自我を形成することになります。そして「正常」だとされる近親者以外への異性愛へと向かうわけです。他方女の子もそもそもの愛情対象は母親です。しかし自分にペニスをつけてくれなかった母親を恨むようになり、その結果父親、さらには男性一般へと愛情を移すことになります。このときに禁止が介在しないので女の子の超自我は弱いとフロイトは言っています。ひいき目に見てもこのフロイトの説明はうまくいっていません。この点についてはディスカッションでも議論しました。
▼ 文化論
文化論に入る前に、まずは精神分析の科学性について考えてみます。フロイトは精神分析が科学であるという立場を放棄することは決してありません。思弁を避けて生物学などの根拠を探し求めるという姿勢は一貫しています。フロイトは科学の中でも天文学と比較することを好みました。どちらも観察はできても実験はできないという点で共通しています。
フロイトは科学に高い価値を置く一方で、宗教には冷淡です。宗教は集団での神経症だというのがフロイトの基本的な見解です。フロイトは困難な現実に直面したときに進む道が三つあると言っていています。そのうちの一つが宗教で、残りは薬物中毒と神経症です。
その困難な現実は物理的な現実であることもありますが、文化が要請する社会的な現実であることもあります。神経症の原因の半分は文化だと言っても間違いではないでしょう。しかし文化がなければよほど力の強い人以外は満足を断念しならないとフロイトは言います。ホッブズ的な自然状態を想像しているわけです。『トーテムとタブー』で描かれているような、全ての女性を所有していた父を兄弟たちが殺し、その後は争いを避けるために以前父が所有していた女性に手をつけてはいけないという掟を課すという、いわゆる原父神話も同じ図式です。また、人々を労働に駆り立てるために文化は存在しているともフロイトは述べます。私の意見としては、そもそも女性を所有するという考えが狭い価値観であり、労働に関してもこれだけ生産力の高まった現代においてはそこまで強制しなくてもよいのではないかと主張したいです。
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