書名:仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき
著者:船山徹
出版社:岩波書店
出版年:2013

はじめに

仏典漢訳とはインドで作られた仏典を当時の中国語に翻訳することを意味し、古くは後漢(25~220)の頃に始まり断続的に清(1616~1912)の時代まで続いたとされています。本書ではこの仏典漢訳という事業に関して様々な論点で解説されています。仏典漢訳の歴史的な流れ、その具体的な方法、各訳者の翻訳観、翻訳上の問題点、さらには中国語への影響など、どの章を読んでも興味深く、素朴な疑問点が解消されるような内容になっています。もっとも、この手の書籍は仏教に関する専門知識がないと読み進めにくいという印象がありましたが、本書はそのような難点を最小限にとどめ、一般読者でも興味深く読み進められるよう配慮されています。ここでは、私が特に興味深いと感じたところを3箇所紹介します。


翻訳が具体的にどのように行われたか?(第3章)

第3章では実際にどのように翻訳が行われていたのかについて、翻訳現場(「訳場」と呼ばれる)の様子とともに具体的に描かれています。仏典漢訳の基本スタイルは複数の人が集まって各人が役割分担をするというチームで行うものでした。そのうえで、①およそ3~6世紀のタイプ(鳩摩羅什が代表例)と、②隋唐以降のタイプ(玄奘が代表例)の2パターンに分けられます。前者は翻訳と同時に訳僧による経典講義を伴うタイプで、数十人から数百人の僧が聴衆としてその講義に参加していたようです。翻訳の役割分担はまだ曖昧で、一人が数役を担当することもありました。ちなみに鳩摩羅什は「手に梵本を執って口で梵語とその漢訳を述べた」と記録されており、ほぼ一人で中心的役割を果たしていたようです。一方、隋唐以降の後者のタイプでは講義は行われず、比較的少数の専門家集団が細かな分業体制を敷いて作業に当たっていました。

さらに本書では後者のモデルケースを紹介しながら各役割が説明されています。大きな流れとしては以下のように要約されます。まず初めに「訳主」と呼ばれる訳場の総責任者が梵語文を読み上げる。その際、通常インド人が担当する「証義」がその左側で梵語文の意味内容に問題がないかを検討し、同じくインド人の「証文」がその右側で訳主の朗読を聞いて誤りがないかを点検する。さらに「書字の梵学僧」が梵語文を聞き取り漢字に直す(これは外来語を日本語のカタカナで書くことに相当する)。続いて「筆受」が漢字で書かれた梵語文を漢語に改め、さらに「綴文」が漢語として適当な語順になるよう文字の順序を入れ替える。最後に「参訳」が両言語の文字を比較検討し、「刊定」が冗長なところを削除し、「潤文官」が訳語の表現に関して吟味し必要であれば漢語を補う。大雑把にまとめてしまえば、訳主、証義、証文が原文チェック、書字の梵学僧と筆受と綴文がいわゆる翻訳作業、参訳、刊定、潤文官が翻訳校正を行ったということになるでしょう。

ちなみに総監督の訳主はほとんどのケースで外国出身の僧が務めたようですが、一部例外的に玄奘や義浄など卓越した漢人僧が務めた例もあるようです。また鳩摩羅什のように漢語にも堪能であったために、訳主をしながら翻訳作業にも従事していた僧もいましたが、グナバドラ(求那跋陀羅)のように漢語を解しなかった外国出身僧もおり、その場合は「伝訳」と呼ばれる通訳が活躍したようです。上述したモデルケースはあくまでモデルであり、訳場によってさまざまなケースがあったと考えられます。


訳者の翻訳観(第4章)

続いて訳者の翻訳観に触れまず。ここで取り上げるのは鳩摩羅什の翻訳観です。本書によれば彼はクリアな漢訳を目指しながらも、その限界を熟知していたがゆえに音訳(音写)も柔軟に取り入れていたようです。そもそも鳩摩羅什は仏典漢訳に関して次のような考えを持っていたと記録されています。「まるでご飯を嚙んで人に与えると、味が失われるだけではなしに嘔吐を催させるようなものだ」。この強烈な嫌悪感は両地域での韻律の差が問題だったと思われます。一般的に梵文は短母音と長母音の規則的な組み合わせによりリズムを作り出すのに対して、中国では各句末での押韻が一般的でした。漢訳時に各句の字数をそろえるまでは可能だったかもしれませんが、押韻まではできなかった。つまり鳩摩羅什にとっての漢訳文は、梵文の美しいリズムが取り除かれてしまった無味乾燥なものであり、ここに彼の翻訳に対するある種の諦めのようなものが窺えます。それゆえに漢語に翻訳するのが難しい原語は音訳にとどめました。

例えば、「悟りの木」を意味するbodhi-vr̥kṣa-(ボーディ・ヴリクシャ)という語は、通例「覚樹(bodhi-は「目覚める」という意味の動詞語根budh-の変化形)」や「仏樹(「仏陀」は音訳だが、その仏陀が目覚めた木という意味では意訳)」などのように意訳または意訳に近い音訳が用いられていたようです。しかし鳩摩羅什は基本的には「菩提樹」と訳し、bodhi-は「菩提」という音訳にとどめました。おそらく彼は仏典の文脈におけるbodhi-の意味と漢人にとっての「覚」の意味が必ずしも一致しないと考え、音訳にとどめたのでしょう。これは仏典漢訳だけの話ではなく、翻訳という行為一般に当てはまる問題でもあると思います。


音写語として用いられた漢字(第7章)

最後に翻訳上の問題で気になった点を述べたいと思います。それは音訳・音写に関してです。本書によれば「仏典の音写語は基本的特徴として、音写語に用いる漢字は意味を伝えない」。例えばブッダという名前を「仏陀」と音訳したとき、「仏」も「陀」も音を伝えているだけで、それ自体の意味は無化されるということです。最初この事実にはとても驚くとともに、本当にそのようなことは可能なのだろうかという疑いも生じました。というのも漢字は音とともに意味も表すはずで、表意性を意図的に消すことなど本当にできるのだろうかと思ったからです。しかしこの疑問は私が日本語という言語体系の中の漢字を想定していることに由来していました。現代の日本語では音だけを表したいときにはカタカナが用いられることが多く、その分漢字の表意機能が相対的に浮かび上がって感じられるのだと思います。外来語を音訳する際は漢字ではなくカタカナを使うこと多く、例えばAmericaは「亜米利加」よりも「アメリカ」と記すほうが一般的です。つまり日本語使用者にとって漢字の担う表意性のインパクトは非常に大きいため、それを意図的に取り除くのは難しいと感じるのだと思います。

この問題に関しては結局のところ漢語における漢字の役割を知る必要があり私の手には余りますが、一つ考えられるのは、古くからの漢字の分類法の一つである仮借との関係です。仮借とは、ある意味を表す漢字がない場合に意味は異なるが発音が同じ漢字を適用するという方法で、いわゆる当て字のことです。仏典漢訳における漢字使用は、仮借を外国語翻訳に応用したものであるとも考えられるかもしれません。


(評者:山田修平)

更新:2022/04/08