アカデメイア・カフェ」カテゴリーアーカイブ

第5回アカデメイアカフェのお知らせ

百木です。次回イベントのお知らせです。

<アカデメイアカフェ第5回>
テーマ:「たべるをつくる たべるとくらす ~ダイエットから自給自足まで~」
日程:11月17日(土)14~16時
場所: 京都市左京区下鴨花園町 サクラカフェ

(詳しくはリンク先参照 http://ameblo.jp/rarara-sakura-cafe/ )

今回のアカデメイアカフェは今までとは少し趣向を変え、実際のカフェをお借りして開催することとなりました。場所は洛北高校のすぐ近く、閑静な住宅街で営業されているサクラカフェさんです。
アットホームな店内でお茶会を楽しみながら、ざっくばらんなディスカッションをして頂こうと考えています。

テーマはズバリ、「食」。
私たちの日常生活を考える上で、食べ物についての関心や悩みは欠かすことができません。
おいしいものが食べたい、健康的な食事を心がけたい、はたまたダイエットで悩んでいる、といった個人的なことから、食の安全をどう確保したらいいか、世界的な食糧危機が叫ばれる中で私たちの生活はどのような変化を被るか、といった社会的なことまで、テーマは多岐に渡ると思います。
今回はこうした「たべる」をめぐる様々なことについて語り合います。いつも以上に間口の広いテーマですので、あまり難しく考えず、お気軽にご参加下さい。

なお、参加費という形ではありませんが、今回はサクラカフェさんでの開催ということで1ドリンク制とさせて頂きたいと思います。ご了承のほど、よろしくお願い致します。

参加を希望される方は京アカのメールアドレスkyotoacademeia[at]gmail.comまでご連絡よろしくお願い致します。
皆さま、ふるってご参加下さい。

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第4回アカデメイアカフェ「ハシズムを考える」まとめ

百木です。先日の第4回アカデメイアカフェ「ハシズムを考える。」の簡単なまとめです。論点が多岐にわたったので、とてもすべての議論を網羅することはできませんが、大まかにでも当日の雰囲気が伝わればと思います。

当日の参加者は15名程度でした。大学生と社会人が半々程度で、アカデメイアカフェに初参加の人と以前参加したことがある人も半々程度だったと記憶しています。いわゆる「ハシズム」に対して強く言いたいことがある!という人と、正直に言ってこれまで橋下徹市長に強い関心を持っていなかったがなんとく興味をもって参加してみたという人も両方いて、(結果的に)バランスの良い構成になったかなと感じています。

◆橋下改革の政策内容について(前半)

議論の始まりは、橋下市長の文化政策についてでした。橋下市長は、財政改革の一環として、交響楽団や文楽協会や児童図書館への補助金を大幅カットor廃止するなどの政策を進めてきました。この文化政策にたいして、「橋下さんは自分の価値観で理解できないオーケストラや文楽などの伝統文化をすべて切り捨てようとしているのではないか」という意見が出ました。橋下市長個人の価値観を大阪全体の政策に反映しようとしているのはけしからん、という意見です。この意見にたいしては、しかし大阪市・府の財政状況が厳しいことは事実で、市民・府民の税金を使ってそういった文化を補助し続けることは果たして適切といえるのか、なぜオーケストラや文楽などのハイ・カルチャーだけが特権的に保護されるべきといえるのか、といった反論が出ました。

この件に関して、橋下市長がよく言っているのは「伝統文化も大衆娯楽も、同じ土俵で競争するべき」ということです。自分は別に文楽などの伝統文化が悪いと言っているのではない、ただそれらが伝統文化であるというだけで無条件に補助金を受けていることが問題なのであって、補助金なしに市場競争で勝ち残るなら何の問題もない、と。いわば橋下市長は、これまで特権的に保護されてきた伝統文化に市場的な「競争原理」を持ち込もうとしているわけですが、これはなかなか難しい問題だと思います。文化や芸術に愛着のある人にとっては、そういった文化や芸術は市場競争の中では生き残っていくのが難しいので、補助金をつかって保護されるべきだし、そのことが大阪(あるいは関西)にとってもプラスになるはずだ、と主張します。他方でそういった文化や芸術にさほど思い入れのない人にとっては、それらの文化も吉本のお笑いや他のエンターテイメントと同様に市場競争の枠組みで切磋琢磨すべきではないか?という意見になるでしょう。

議論はここから発展して、伝統文化・芸術は公的に保護されてでも伝承されるべきという「京都のお公家さん」的志向と、伝統文化も大衆娯楽も同じ土俵で戦えば良いのでは?という「大阪の庶民」的志向の違い、などにも話が及びました。さらに、大阪には地域の文化や伝統を担っていく「町衆」的存在があまり残っていないのではないか(そういった人々は阪神神戸あたりに移住してしまった?)といった意見も出て、どこまで信憑性があるのか僕自身は判断できないのですが、議論は盛り上がって興味深かったです。

これまで公的に保障されていた分野に「競争原理」を持ち込もうとする橋下市長の態度は、文化政策に限ったものではなく、教育や地域自治、社会保障、公共サービスなどに関しても共通して見られるものです。4年間の「橋下改革」をまとめた記事がしんぶん赤旗に載っていますが、中小企業予算の大幅カット、敬老パスの有料化、学童保育の補助金廃止、区民センターの統廃合、公共交通機関の民営化促進などが「改革」の内容として挙げられています。やまもといちろうさんがブログで「しんぶん赤旗の橋下徹批判が、読む人にとっては絶賛にしかなっていない件」という記事をあげてらっしゃいましたが、これらの改革内容を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかで橋下市長への評価が別れるところでしょう。

また、「大阪の財政は苦しいと言っているが、他地域から見ればとてもそんな風には見えない。大阪の中心部はあんなに栄えているし、裕福な人もたくさん住んでいるではないか、大阪が貧しいなんていうのは嘘ではないか」という意見もありました。これに対しては、大阪出身の方などから「それは大阪の一面的な部分しか見ていない、中小企業や自営業などで働いている大阪庶民の暮らしはかなり苦しい」という声があがりました。この点についても、人によってまったく見え方が違うところなので難しい問題です(この点に関して、明確な答えは出ませんでした)。

さらに、どういった層が橋下市長を支持しているのか?という疑問も出ました。比較的に裕福な層が支持しているか、それとも意外に低所得層が支持しているのか(小泉純一郎フィーバーの際には、結果的に自分の首を絞めることになるであろうに、低所得者層が小泉氏を支持したことが話題なりました)。後日、社会学者の櫻田和也さんが分析しておられる橋下支持率と区分析を見ると(平均世帯年収老齢人口率失業率転入率)、基本的には平均年収が高く老齢人口率が低い区ほど支持率が高いようなので、少なくとも一口に「低所得若年層が橋下を支持している」とは言えなさそうな気がします。この点については、他に分析した論文などもあるようで、検討が必要なところでしょう。

◆橋下改革の政策手法について(後半)

カフェの後半は、橋下市長の「政治手法」をめぐってでした。橋下市長の政治手法の特徴としては、1)メディアパフォーマンスが上手い、2)世論の支持を味方につける、3)トップダウン式に強引にでも改革を進める、などが挙げられるでしょう。これらを一言でまとめれば「ポピュリズム」的手法だと言うことができるかもしれません。ときには嘘をついたり、違法スレスレの手段を使ってでも、「スピーディーな改革」を実現しようとする姿勢には「独裁的」との批判もありますが、橋下市長本人も「改革のためにはある種の「独裁」が必要だ」と開き直った発言をしています。
その背景には、多くの国民が民主党政権にたいして感じている「決定できない民主主義」への不満・苛立ちがあると考えられます。消費税を上げる・上げないをめぐっても延々と議論がもめていて重要な決定が何もなされない、311後の対応も後手後手に回っていて復興がなかなか進まない、など。そういった閉塞感を打ち破る存在として、橋下市長の「決断主義」「独裁主義」が支持を集めているのではないか。

このような橋下市長の改革手法は本当に「強引」と言えるのか?という疑問も出ました。これに対しては、4年に1度の選挙で代表者を選び、その人に対して「白紙委任」をするという現在の間接民主制じたいに問題があるのではないか?という大きな問いが出されて議論が広がりました。つまり、選挙時点ではすべての細かい政策方針について同意したうえで立候補者に投票するわけではなく、その立候補者の全体的なイメージや大きな政治方針に賛同して投票したにすぎないところが、実際にその立候補者が当選して政策を実施する段になると、様々な面で有権者と政治家の間で意見の食い違いが起こってきてしまい、当初の期待が裏切れてしまう結果になる、ということです。こうした間接民主主義の限界をどのようにして乗り越えればよいのか?という所までは答えが出ませんでしたが、ハシズム・橋下現象をきっかけにして、こうした大きな政治論点にまで議論が及んだのは良かったのではないかと思っています。

また、個々人の思想信条にまで介入し、憲法に違反するような政策を実施する(君が代条例問題、職員への思想調査アンケートなど)ような橋下市長の政策は絶対に許すことができない、という「全否定」派と、全面的には賛同できないけれども個々の政策によっては支持できる部分もあるのではないか、市民の側がうまく橋下市長をコントロールしていくことも可能ではないか、という「是々非々」派との間でも意見が別れました(橋下市長全面賛成派はいなかったように思います)。これについてもどちらの意見が正しい、という明確な答えは出ませんでしたが、アカデメイアカフェは明確に一つの結論を出すことを目的としているわけではなく、様々な立場の人が集まって様々な意見を交換しあい、ひとつの社会問題に対していろんな意見をもった人がいるのだ、ということを理解してもらえれば良いと考えているので、これで良かったのではないかと考えています。

以上、長文でとりとめない内容となりましたが、おおまかにでも当日の議論の雰囲気が伝われば幸いです。今回のアカデメイアカ フェは参加者も多めで、年齢層や属性も幅広く、議論も白熱して大変良い会になったのではないかと自負しています。最後に一言ずつ感想をもらったのですが、 今回の議論をきっかけにして橋下改革に関心が湧いた、普段は聞けないような話が聞けてよかった、自分とは異なる立場の人の意見が聞けて思考の幅が広がっ た、などと言っていただき大変ありがたかったです。また今後も定期的にこのようなイベントを開催していければと考えていますので、みなさんどうぞよろしく お願いします。機会があればいつでもお気軽にご参加ください。

第4回アカデメイアカフェ 「ハシズムを考える」 のお知らせ

新年度となりました。第4回、アカデメイアカフェのお知らせです。
どなたもお気軽にご参加ください。

当日はUSTREAM:kyoacaで生中継をします(予定)

テーマ:「ハシズムを考える」
紹介文:
 第4回アカデメイアカフェのテーマは、「ハシズムを考える」です。「ハシズム」は「橋下徹氏の強硬な政治スタイルを揶揄するための批判用語、ファシズム(一党独裁)にかけた造語」(出典:はてなキーワード)の意味です。大阪府知事に就任して以来、橋下徹氏は地元の大阪府民(市民)を中心に大きな支持を集めており、メディア等でも何かと話題を振りまいています。橋下氏が打ち出す大胆な政策や強引とも思える政治手法は、熱狂的な支持を集めるいっぽうで、強い批判も絶えることがありません。

 次回のアカデメイアカフェでは、このような橋下氏の政策や政治手法について、自由な立場から議論をすることができればと考えています。橋下支持/不支持という単純な二分法だけで結論を出すのではなくて、橋下氏のどういった部分には共感ができて、どういった部分には問題があると感じるのか、といった議論をしたいという意図です。おもに前半では橋下氏の政策内容、後半では橋下氏の政治手法についてディスカッションをする予定です。

 橋下氏に対する政治的批判/支持を展開するというよりは、「橋下現象」を通して日本の政治のあり方や、民主主義のあり方などについて幅広く考えることができれば嬉しいです。とくに予備知識や専門知識のない方でも、橋下政治について話し合ってみたい、という方であればどなたでも参加歓迎です。お時間ある方はぜひお気軽にご連絡ください。

<第4回アカデメイアカフェ>
テーマ:ハシズムを考える。
日時:4月28日(土)15時~18時
場所:京都大学附属図書館共同研究室
集合場所:当日14時50分に附属図書館前集合

※おおよその人数を把握したいため、参加希望の方は事前にkyotoacademeia@gmail.comまでご連絡いただければ幸いです。
USTREAM:kyoacaでUstream中継予定です。(ただし動画保存はしない)
※当日連絡先(百木携帯:080-3813-5362)

(注意)
当日、読売新聞の記者が取材に来られる予定です。いわゆる「橋下現象」について、識者の意見を聞くのではなく、一般の人が橋下政治をどのように捉えているのか、できる限り中立的な立場から特集記事にまとめたいとのことでした。京都アカデメイアとしては、今回事前に担当記者の方ともお会いしたうえで、取材に来て頂くことになりました。当日の議論内容の一部が記事に使われたり、写真撮影も行われる予定ですが、そのような対象となりたくない方には十分配慮しますし、個人情報にも配慮させて頂きます。また記者の方から、可能であれば後日さらに詳しく参加者に話を聞きたいと依頼されていますが、これについても望まないのであれば断っていただいて一向に構いません。
もしご不明な点がありましたら、事前にお問い合わせください。よろしくお願いします。

第2回 アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめ

 

先日行われた第2回アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめです。例によって浅野個人による主観的なまとめですので、補足や修正があればお願いします。

*今回はUstream中継動画の録画を公開しておりません。どうしてもその録画を見たいという方がもしもいらっしゃいましたらお問い合わせください。

就活の「くだらなさ」

前半は自己紹介から就活の「くだらなさ」へと自然に話が移行しました。振り返ってみれば、就活にうまく乗ってきましたという人が参加者の中にはいなかったように思います。まぁそれもこのようなテーマを掲げたのだから仕方ないかもしれません。

就活の「くだらなさ」とは、今就活を経験している人や少し前に経験した人に言わせると、大学3回生のある時から「就活ヨーイ、ドン」と号砲が切られて、スーツを買え、就活サイトに登録しろ、どのような仕事をしたいか考えろ、と一斉に急き立てられることです。そしてその流れに乗って企業にエントリーシートを送ったり面接を受けたりしても、よくわからない基準で落とされ続けると嫌になります。就活の「くだらなさ」とは画一的な競争を煽られることであり、しかもその競争の勝敗の基準がはっきりとしないことです。受験競争も画一的な競争ではありますが、まだ勝敗の基準ははっきりとしています。

この就活の「くだらなさ」を採用する側から見たらどうなるのでしょうか。今回の場では企業の採用に携わるなど様々な経験をされてきた方が採用活動の裏側を惜しげもなく披露してくださいました。それによると、不動産の物件と同じで、そもそも好条件の仕事は関係者のコネなどですぐに埋まってしまい、就活サイトに出されているものはその残りだということです。積極的に人を集めようとする企業は従業員が定着せずに辞めていくからいつも募集をかけているわけであり、就活サイトにお金を払って自社を美しく飾ってもらって人を集めているのです。虚飾が少ないという意味では、労働条件を明示することなどを法律で義務付けられている職業安定所(ハローワーク)のほうがよほどマシです。

このような状況ではあっても、就活サイトで募集をかければ履歴書の束が数センチにもなるほどに応募があるそうです。その内容を全て吟味することなど到底不可能で、採用担当者の目に留まりたければ履歴書を芸術作品にするくらいのことをしなければならない、と採用担当を経験した参加者は言っていました。しかも採用担当者にはバカな人もいるわけだから、なぜわざわざそのような枠に入ろうとするのか理解できないとも付け加えられました。採用の現状がこれなのですから、「こうすれば就活で採用される」などという一般的な解などないのです。

その代わりに、研究室の先生に推薦してもらう、製品の展示会などで役員と意気投合する、などして個人的なつながりをつくるとスムーズに事が運ぶとのことです。いきなりそのような形で関係を作るのが難しければ、どこでもいいからいったんアルバイトとしてでも関連企業に入り込み、技術を磨きながらお目当ての企業役員や採用担当と知り合う機会を探ればよいのです。これだけ就職が難しいと言われている時代であっても、特に中小企業の社長の中には後継者を探しても見つからずに困っていて、日夜出歩いている人も多いそうです。

あるいは人に雇われる道ではなく、自分で独立して仕事をするという道もあります。そして仕事がなければ創り出せばよいのです。最近の言葉では創職やノマド、3万円ビジネスと呼ばれている路線です。岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学のまとめと感想も参考にしてください。昔からの言葉で広く含めるならフリーランスですね。

ここまで話が進んで私はふと疑問に思いました。就活に乗れず、かといって会社の偉い人と仲良くなるような要領のよさもなく、独立して仕事ができるほどの能力も創職するほどのガッツもない人はどうすればいいのかと。この議論の場では仮に「草食」や「まったり」と呼んでいた人たちです。

就活の「くだらなさ」を超えた先は創職なのかそれとも草食なのか。休憩をはさんで後半に入りました。

「くだらなさ」を超えて

前半では、大学の3回生くらいから一斉にスーツを着て専用のサイトに登録し、企業の選考を受けることを就活(就職活動の略で「シューカツ」とカタカナ表記されることもある)と呼んで、その「くだらなさ」を指摘してきました。そうすることによって今まさに就活で苦しんでいる人の心の救いになることが考えられます。しかしそこに留まっていては生産的ではないので、就活の「くだらなさ」を超えてさらに進もうというのが今回のアカデメイア・カフェの目標でした。

就活の「くだらなさ」を超えて進むのだといくら力を入れても、就活の存在を前提にしていてはなかなか話が進みません。こういうときは歴史の力を借りて就活を相対的に眺めてみましょう。

大雑把に言って、江戸時代以前の封建的な中世の社会では、原則的に職業は世襲でした。職業選択の自由がない反面、親の跡を継げば仕事はありました。そこでは大多数の人が農民で、職人や商人、武士が少数いました。明治以降の近代社会では工場や事務所などで働く賃金労働者が増加しました。この傾向は現在でも続いていると言えそうです。

そうした賃金労働者がどのようにして集められたのかと言えば、中学や高校を通して新卒者が企業に紹介されることが多かったと推測されます。私の世代(1980年代前半生まれ)でも、高校に来ている求人から選んで応募するという光景は思い浮かべることができます。大学でも、特に実験系の研究室では、学校推薦で就職するという形が残っています。

そのような状況から現在の就活へと移行するのにはインターネットが大きな役割を果たしました。それまでは高校や大学によって応募できる企業が限定されていたのですが、就活サイトを通すとたくさんの企業に応募できるようになりました。そうは言っても大学生が企業のことを詳しく知っていることは少ないでしょうから、有名さやイメージで応募する企業を決めるということになりがちです。毎年人気企業ランキングが発表されますが、そこに登場する顔ぶれは大体同じです。このようにして前半で指摘した雇用のミスマッチが起こったと考えられます。

就活に関係したもう一つの最近の変化はグローバル化にともなう雇用環境の変化です。その筋には有名な、日経連が1995年に出した「新時代の『日本的経営』」を参考にすると、企業が正社員として雇用するのはごく一握りの管理職だけにして(「長期蓄積能力活用型グループ」)、残りは非正規雇用にする(「高度専門能力活用型グループ」と「雇用柔軟型グループ」)という方針がはっきりと見て取れます。非正規雇用の人たちはずっと雇うわけではないのですから、日本人に限定せずその都度人件費の安い人を採用すればよいということです。この路線で考えると正社員の新卒一括採用を前提とした就活は前時代の遺物に過ぎません。

このような変化の末路を幾分誇張するなら、一方には正社員で待遇が保障されているけれども過労死するほど働かされる人がいて、もう一方には仕事がなかなか見つからず見つかっても待遇の悪い非正規雇用だという人がいることになります。過労死か失業か——というどちらを選んでも悲惨な状況です。

思い起こせば日本でバブルが崩壊した1990年代以降は、多少の浮き沈みはあってもずっと就職の難しい状態が続いてきました。バブルの頃は企業が応募者の交通費を負担するのは当たり前で海外旅行などの接待までして採用しようとしていたと聞くのに、現在では応募者が涙ぐましいまでの努力をしてもなかなか採用されない有様です。いくら学力低下だと言われていても、たったの10年や20年でそこまで若者の学力が落ちることはさすがにないでしょう。コミュニケーション能力にしても、最近の若者はソーシャルメディアなどで熱心にコミュニケーションを図っているのですから、昔と比べて大幅にコミュニケーション能力が落ちたとも思えません。そもそもこの「コミュニケーション能力」という言葉は何を指しているのか曖昧ですけれどね。

現状を嘆いてばかりいても始まらないので、そろそろ就活の「くだらなさ」を超えた先を考えましょう。一つには前半にも話が出ていた創職(ノマド)路線です。良くも悪くもグローバル化は進行しているのですから、日本で仕事がなければ海外で仕事を見つけるか創るかすればよいのです。これまで日本国内で培われた知識や技術を必要としているところはきっとあるでしょう。物価にしても日本と比べて大幅に安い国がたくさんあるので、日本国内でいくらか資金を貯めていけば十分に事業を始めることができるでしょう。

そうは言っても草食(まったり)路線の人たちは海外に出ることを選ばないでしょう。日本で生まれ育ったという事実は消せないのですから、その経緯を無視して海外に行けと強制するのは乱暴です。こうした人たちの最後の希望の綱は生活保護です。仕事がなければ生活保護を受給すればよいのです。生活保護と言うと抵抗があるなら、今時風にベーシックインカムと言ってもよいでしょう。

海外で創職するか日本で生活保護を受給するかというだけでは両極端なので、もう少し中間的なあり方を考えましょう。生活保護の前には失業給付などがあります。しかし日本の生活保護以外の福祉的制度はかなり貧弱ではあります。非正規雇用であれ働いているのなら、労働組合に入って待遇をよくすることも可能です。よくよく調べてみれば非正規雇用でも有給休暇は当然に発生しますし、期限の定めのない雇用なら簡単に解雇することはできません。そして何より2人以上が集まれば労働組合を作ることができ、労働組合が団体交渉を申し入れると使用者が断ることはできず、使用者が無茶な応対をするなら、労働組合は刑事上も民事上も免責される団体行動に打って出ることができます。ただし労働組合と一口に言っても内実は様々で、特に非正規雇用であれば企業内組合よりも地域のユニオンに相談したほうが親身に対応してもらえる可能性が高いと思われます。

もっと別の道を探るなら、自分たちで共同体を作ることも可能かもしれません。何も企業に雇用されて賃金を得るだけが生きる道ではないのですから。衣食住さえ確保すればどうにかなるかもしれません。日本の地方部では過疎化が深刻だと聞きます。住むところを見つけて、農作物を作りながら、必要に応じてお互いに助け合ったり物々交換をすれば立派な共同体になります。しかしそうした生活を捨てて都会に出てきた人たちが過去にたくさんいたわけで、ましてや今の時代にそうした生活が本当に可能なのかという疑問は残ります。そこまで厳密に考えずにできるところから始めれば案外できるものなのかもしれませんが。

このように就活の「くだらなさ」を超えて大きな展望を描こうとすると政治の領域に踏み込まないわけにはいきません。雇用環境や福祉などの社会制度を決めるのは政治ですし、地方と都市の問題にも政治が大きく関わっています。決められた枠の中でいかに立ち回るかを考えるだけでなく、その枠そのものを疑うことがあってもよいと思います。

教育という観点を導入しても面白いでしょう。現在ですと、高校や大学でフリーターはいかに損かということが教えられ、就活サイトや企業の合同説明会に参加することが勧められます。しかし今回の議論を踏まえるなら、創職(ノマド)の基本的な技術が教えられてもよいはずですし、生活保護の受給の仕方や労働組合の使い方が教えられてもよいはずです。共同性を育むということも重要な課題です。

ということで少し強引ですが、教育について考える場として、3月10日(土)の13:00〜15:30に山の学校で行われる次回の第3回アカデメイア・カフェ「今、教育を考える」をよろしくお願いいたします。Ustream中継は行いませんので、ご都合が許されましたらぜひ直接足をお運びください。

アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめ

浅野です。

第1回アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめです。これはあくまでも浅野個人が記憶に基づき当日の話には出なかったことなども盛り込みながら再構成したものです。補足やご批判があればぜひコメントを書き残していってください。途中からになりますが、当日の模様の録画も残してあります。

アカデメイア・カフェ第1回「最近の大学ってどーなん!?」(USTREAM中継動画の録画)

1.学生運動、自治について
今回の最大のテーマは「大学の自治」だったように思います。事前にテーマを細かく設定せず、その場の流れに任せた結果そうなりました。

その背景にはキャンパス内での喫煙・飲酒の禁止や夜間の出入り禁止など、大学によるキャンパス規制が厳しくなってきている状況があります。このあたりのことは府大キャンパスフォーラムで詳しく話されることでしょう。

「大学の自治」と言えば学生運動と切り離せません。この場には学生運動に否定的な人もいれば肯定的な人もいて、主張には共感するけれども手段が有効的でないと感じている人もいました。ここではその議論の詳細には立ち入りませんが、こういう議論ができるということ自体が大切だと思います。

大学のもう一方の当事者は教職員です。最近では各地の大学でFD(Faculty Development)と呼ばれる教育開発の取り組みがなされています。こうした流れが加速すると、大学ごとに独自の教育観を打ち出すまでに至るかもしれません。教職員にせよ学生にせよ、大学教育への意気込みは人によって大きく異なるのが実情ではありますが。

他方でユニオンエクスタシーなどが取り組んでいるように、大学の非正規職員は現行の法律や判例を根拠にして3年や5年で雇い止めされるという問題があります。かなりの部分の仕事を非正規職員に頼っているにもかかわらずです。このような状況ですと職員が主体的に大学を運営するのは難しいですし、そもそも職員の雇用を法的な形式論でしか扱えないということ自体が大学の自治の低下を示しています。

大学の自治といえば大学寮もはずせません。少なくとも京大の寮にはまだ自治がかなり残っているように思われますが、寮の自治をやめて大学が管理しようとする動きもありますし、寮生の間でも面倒な自治には関わりたくないという人もいます。学生一般にしても大学に強い帰属意識を持っている人もいれば帰属意識をまったく持っていないような人もいます。学生は大学の構成員なのでしょうか、それとも消費者なのでしょうか。次に学費を軸にしてそのことを考えてみます。

2.学費は高い? それとも安い?
現在の国公立大学の授業料は原則的に年間535,800円です。これを高いと見るか安いと見るかは究極的にその人の価値観によるでしょうが、いくつか考慮すべき材料があります。

まず、実際の教育・研究活動で必要な費用を考えに入れなければなりません。大雑把に文系的なところでは図書館の本と論文やレジュメの印刷が費用のほとんどを占めます。教員が学生に関わる度合いは様々なので、その人件費をどう計上すればよいかはわかりません。それでも一人当たり年額535,800円は高いように感じます。ましてや大学にはそれなりの税金も投入されているのですから。しかし工学系や医学系となると話は大きく変わります。数億円もするような機械を使うことも日常茶飯事です。そう考えると535,800円は安く見えます。

今度は得られる見返りから検討します。4年で卒業するとしたら合計二百数十万円かかります。大学を卒業することにより生涯年収がそれ以上に上がればお得な投資であり、そうでなければ損な投資になります。これも分野によって様相は大きく異なります。極端な例としては、文系の学部から大学院に進学すると、交通事故などの際に算定される生涯年収がむしろ低くなるという話を聞いたことがあります。これが本当だとすれば学費を払って大学院に進学すると金銭的にプラスがないどころか投資した額以上の損失があることになります。

それでも大まかに言えば大学に行けば(少なくともこれまでのところは)生涯年収が上がってお得だから、多くの人が大学に行くようになった(日本の多くの場合でより正確に言えば親が子どもを大学に通わすようになった)のでしょう。それでは生涯年収の上昇をもたらす大学とは何なのかを次に考えます。

3.大学が就職にもたらす価値
現在では大学卒業を見込んで就職活動をすることが一般的になっていることもあり、大学を論じるにあたって就職を避けることはできません。卒業見込みの一年半ほど前から就職活動が始まるので、四年制の大学でも約半分、短大や大学院の修士課程では約4分の3の期間を就職活動をして過ごすことになります。せっかく年間50万円以上も払って大学に通っているのに、これはどういうことでしょうか。

答えは簡単です。一つの割り切った考え方では、就職の際に評価されるのは大学に入ることができたことから想定される基礎学力のようなものです。大学で何を身に着けたかということではありません。ユニクロが大学一年生から採用活動をする方針にしたのも、この考えを裏付ける一つの証拠になり得ます。だからこそドライに戦略を考えて就職活動する人が内定を得て、まじめに大学で勉強しようとする人が苦労するのかもしれません。このあたりのことはもはや人ごとじゃない!就活をめぐるタブーなき大”論”闘でも話されました。

もちろんこれは一つの割り切り方であり、分野によっても異なります。医学系や工学系なら数億円の機械を用いて練習してきたという能力そのものを買われることも多いでしょう。だからこそ研究室での活動を妨げないように自由市場での就職活動ではなく教授推薦での就職があったりするのだと思います。法学系なら法律の知識や複雑な論理を考える力を生かして資格を取るという道もあります。

この分析が正しいとすれば、そして大学新卒の就職活動を通じた就職が難しくなってきているのだとしたら、中途半端に大学に行くよりも手に職をつけられるような専門学校に行くほうが賢い選択になります。実際、ここ数年は専門学校人気が高まりつつあるとの報道を目にします。本田由紀さんがドイツを参考にしながら提唱しているあり方ですね。

経済合理的に考えれば考えるほど実学系以外の大学には魅力がないことになります。特に悲惨なのが文系大学院の博士課程で、水月昭道さんの著書のタイトルから「高学歴ワーキングプア」という言葉が普及するほどになりました。京都アカデメイアは最初は文系大学院生が中心となって始まりましたし、他にも近いところでは佛大・社会学研究ゼミがあります。研究職という視点から大学を捉えることもできますが、今回はその話は脇に置いて、もう少し広く社会という視点から大学について考えます。

4.社会の中の大学
大学は社会の中に存在しており、大学と緊密な関係を保っている社会組織が教会→国民国家→私企業(資本主義)と移り変わってきたということを吉見俊哉さんの『大学とは何か』で学びました(吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだを参照)。先に見たような就職に関する大学の位置づけは国民国家から私企業へと移行する際の過渡期的な現象であると考えると、今後は実学系以外の大学は衰退すると予測されます。実際、大阪の知事から市長になった橋下徹さんは「私は大学は私立がやるものと思っている」と言い、その線での政策を推し進めるつもりのようです。こうなると実学系を中心とした経営体としての大学が中心になりそうです。

この路線にはいくつかの疑問があります。第一に、教育は企業モデルになじまないということが挙げられます。企業モデルでは合理的に計算して利益が最大になるように投資します。しかし教育では計算通りにいかないことがたくさんあり、そちらのほうが本質だとも言えます。また、仮に教育の効果をある程度計算できるにしても、その期間は長くて短期的な投資にはなじみません。内田樹さんが言っていることですね。研究についても同じことが言え、遊びから生まれる発見などもあり成果を完全に計算することはできず、仮に計算できたとしてもその期間は非常に長くなることもあります。

第二に企業モデルだとお金が払えないと大学に行くことができません。それは大学に行きたいけれども行けない人にとって不幸であるだけでなく、社会の損失にもなります。優秀で熱意もあるがお金がない人が大学に行けないのは合理的ではありません。優秀で熱意がある人には奨学金を出せばよいではないかと言われるかもしれませんが、優秀さを測定するのは困難であり、先ほど述べたように思いがけない成果が生まれるのが教育・研究です。

第三に、企業モデルで行われる研究に内在的な疑問や批判が生じるのかという問題があります。これはおそらく実際に起こっていたことなのですが、例えば原子力発電所を作るための研究をしていてこのままでは危険だと思っても、批判をしたりコストのかかる安全装置の設置を提案したりするのが経済的な関係から難しくなってしまうということです。

ここまで三点に渡って個人的な意見を硬い言葉で表現しましたが、要は、何をやりたいかなど高校生までではわからないし、大学に入ってからいろいろな人に会う中で価値観が変わることもあるし、大学では自由に物が言えたほうがいいし、大学って楽しいところだから来たい人が来られるようになったほうがいいというだけのことです。

このように考えると、大学には少なくとも企業の論理だけではない何かが存在するはずです。教養教育が必要だというのもその一つです。XmajorCollege Caféでやられているように専門分野を越えて出会った人同士が議論するのもそうです。こうした企業の論理だけではない別の何かを名指すとするなら「市民」でしょうか。それなら大学という枠にこだわることもないわけで、scienthroughや各地で行われているサイエンスカフェ、哲学カフェのように大学の外で活動することもできます。京都アカデメイアでも地域の寺子屋とも言うべき山の学校と共同イベントをしたことがあります。そして今回のアカデメイア・カフェの場そのものもそうです。

アカデメイア・カフェをまとめようと思って書き始めたのに自分の意見を前面に出してしまう結果になりました。修正や補足をぜひともお願いいたします。

アカデメイア・カフェ

こんにちは、京アカです。

京アカではこれまで、月一回の定例イベントとして「模擬授業」をやってきましたが、今月より新たに、「アカデメイア・カフェ」企画を始めます。
月にひとつテーマを決めて、皆でわいわいディスカッションをしようという企画です。
第一回のテーマと日時は以下の通りです。

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テーマ:「最近の大学ってどーなん!?」

USTREAM:kyoacaで生中継をします(予定)
日時:1月22日(日)14:00-17:00
場所:京都大学 附属図書館 共同研究室 (googleマップ) 
定員:20名程度
※附属図書館前に13時50分に集合ください。
※参加費無料(身分、所属を問わずどなたさまでもご参加いただけます)

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趣旨など詳細につきましては、以下のページをご覧ください。
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/seminar.html
興味をもたれたら、どなたでもお気軽にお越しください。

カフェと言いつつ、場所は図書館ですが(笑)