月別アーカイブ: 2012年12月

いま、京大で起こっていること。 part3 -国際高等教育院問題

 

百木です。前回からに引き続いて、国際高等教育院問題について私的にコメントを頂いたことへの僕なりのレスポンスです。

3,意地悪な見方をすれば,この問題はこれまで「教養とは何か」という根本的な問いを避けてきたことのツケがまわってきたことを意味しているのではないか。

これは重要な指摘だと思います。実際に、これまで教養教育を担ってきた総合人間学部や人間・環境学研究科でも、「教養とは何か」「京大の教養教育の現状にどのような問題があり、どのようにそれを変えていくべきなのか」といった議論がなされてきたのかと言えば、否、と答えざるをえません。もちろんそれぞれの先生方の内では自分なりに考えるところがあったのかもしれません。しかし、そういった議論が異分野の先生方や院生・学生の間どうしで行われる機会はおそらくほとんどありませんでした。総人・人環は「異分野どうしの学際的交流」「人文科学、社会科学、自然科学を総合した人間学」を目指すという理念を掲げていますが、実際にはその実現はなかなかに難しかったと言わねばなりません。

これは他学部からよく批判されることですが、結局のところ総人・人環は、マニアックな研究をしている人たちがタコツボ的に寄せ集められた組織になっている、特定の分野を専門的に突き詰めることができず中途半端な研究・勉強にとどまってしまっている、正当な学問研究(アカデミズム)から逸れた異端なことばかりやっている、という状況が存在することは確かです。僕自身が総人を卒業して人環に所属している大学院生なのですが、そのような批判は甘んじて受け入れねばなりません(もちろん、そのような状況ばかりではなく、様々に生産的な研究や教育が行われていることもまた確かなのですが)。

もちろん、「異分野どうしの学際的交流」「人文・社会・自然科学の総合」「教養の統一的定義の設定」など簡単に実現できるものではありません。少しずつ、地道で迂遠な対話を積み重ねながら、じっくりと時間をかけて実現していくしかないものです。そういった壮大なテーマについての成果を短期間で出せといってもどだい無理というものです。しかし他方で、そのような努力をこれまでの総人・人環が少しずつでも積み重ねてこられたかといえば、胸をはって「Yes」と答えるのも難しいというのが本音のところです。京都アカデメイアもそういった部分を補うことができればと思って、これまで様々な活動をしてきましたが、やはり畑違いの人間が集まって何かを生み出そうとすることは本当に難しい。稀にいくつか上手くいったこともありますが、失敗も多々あります。

先ほどの先生は「総人が立ち上がった当初は、理系の先生と文系の先生で一緒に議論して何かやろうという企画もあったのだけれど、結局、お互いにうまく話が噛み合わず、数年でその企画も流れてしまった。それ以後は、ほとんどそういった試みは有効的になされてこなかった」とも仰っておられました。外の学部から見れば、そういった総人・人環の状況がいかにも中途半端で非効率的なものに見え、今回の国際高等教育院構想を良い機会として、総人・人環を実質的に解体させ、新しい組織でリスタートさせよう、という意見が生まれてくるのも無理はないな、という気もします。

そして大変皮肉なことに、総人・人環の教員と学生はこの危機に際して初めて、異分野の者どうしが一箇所に集まって同じテーマについて議論をし、それぞれの見地から積極的に意見を交わすという理想的状況が出現しています(笑)国際高等教育院構想のどこが間違っているのか、教養教育とはどのようなものであるべきなのか、京都大学の「自由な学風」の良さとは何なのか、といった論点について、物理学の先生や社会学の先生や化学の先生や哲学の先生などが一箇所に集まって熱く語るという光景を、僕は京都大学に入学して以来、初めて目にしました。国際高等教育院構想に反対する先生方の演説は、いつもの講義のときの話しぶりよりもずっと熱がこもっていて、聞いていて大変に面白いものでした。こういった議論をもっと早くに先生方から聞ければ良かったのになぁ、と思いました。


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今やもう時すでに遅し、ということなのかもしれません。(昨日12月18日の部局長会議において国際高等教育院構想が正式に承認されたとのことです。)しかし、折角こうして始まった「教養」をめぐる活発な議論が、このまま消えていってしまうのでは寂しいなと思います。また、このまま再び専門分野を横断した議論が沈静化していってしまうのならば、所詮、総人・人環とはその程度の学部であったのだし、実質的に解体されていったとしても仕方がないのかなという気もします。(とはいえ、来年からいきなり総人・人環という学部が消えてなくなるということはないそうです。「来年度からも表面上は何も変わらない」という言葉をいろんな先生の口から散々聞きました。)動画のなかで多賀先生が仰っているように、来年度からも表面上は何事も変わらないように見えながら、少しずつ「自由」や「寛容」の空気が蝕まれていき、十年も経つと京大の雰囲気がすっかり変わってしまっている、というのは大いにありそうなことです。

なんだか総人・人環の話ばかりになってしまいましたが、この状況はおそらく今の京都大学全体に当てはまる問題ではないかと僕は思うのです。やや大げさに言えば、これは日本の現在の大学やアカデミズムが抱える病を象徴する問題ではないかとさえ思います。残念ながら病がすぐに治癒する特効薬はありません。病の進行はすでに身体の相当広い範囲にまで及んでいるように見えます。この瀕死の病人を助けることができるのかどうかはわかりませんが、微かな期待を込めて、「教養」や「大学」についての議論を僕たちがこれからもいろんな場所で続けていく以外に、この病人のためにしてやれることはほとんどないのではないか

僕自身も日々の生活のなかでそれなりに色々とやらなければならないことがあり、この問題にばかりに時間を割いていくわけにもいきません。これからもささやかながら、無理のない範囲で自分にできることをやっていくつもりです。日本の政治状況や社会状況についてもそうですが、あまり過剰に希望を持ちすぎても絶望しすぎても仕方ないのだと思います。京都アカデメイアでも、これまでにやってきた活動の蓄積を活かしながら、「教養」や「大学」について議論をする場を用意するぐらいのことならできるのかなと考えています。そのような場を用意できた際には、いろんな人たちと「教養」や「大学」についての議論を交わすことができれば幸いです。それこそがまさにこの大学の「教養」の一部となるでしょうから。

「教育院」設置決まる 京大 異例、評議会で多数決
京都新聞の記事です。教育研究評議会の決定が多数決でなされるのは異例の事態とのこと。実際の教育活動が始まるのは2014年度からだそうです。

※京都アカデメイアの掲示板に「教養ってなんだろう」というスレッドを立てました。すでに複数人の方にそれぞれの「教養」観について書き込んでもらっています。ぜひ皆さんも「教養」についての議論に参加してみてください。仮名OKです。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode4&menu=bbs&id=956

※いくつかのブログでもこのブログと同趣旨の意見を見つけました。
京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その2)-enomoton2011の日記
こちらの記事では、文科省-総長側は曲がりなりにも教養について具体的な定義を与えているにもかかわらず、人環教員有志ではそのような定義を与えていないではないか、手続き面で反論するのはわかるが、大きな理念の面では「京大の自由な学風」といった従来的な漠然とした概念を持ち出すにとどまり、積極的な反論ができていないのではないか、という指摘がなされています。

国際高等教育院問題に関する個人的要望のまとめ-仄暗い夢の底
こちらの記事でも基本的には総長の説明責任不足などを批判しつつ、同時に人環の先生方もまた「教養」や「自由の学風」についてどのように考えているのかを説明できていないのではないか、という指摘がなされています。

人環の先生方がこういった疑問に対してこれからどのように答えていかれるのか、あるいは何も答えないのか、動向を見守ってきたいです。それにしてもどちらのブログも相当な力作ですね。

※最後に、参考として人環に所属しておられる佐伯啓思先生が古典と大学改革について書かれたエッセイのリンクを貼っておきます。今回の大学改革問題に深く関わる良い文章だと感じましたので。関心ある方はどうぞ。

【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 古典軽視 大学改革の弊害
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121119/edc12111903290000-n1.htm

いま、京大で起こっていること。part2 -国際高等教育院問題-

 先週,「国際高等教育院」問題(以下、教育院問題と省略)について書いた記事に対して,私的なものも含め,いくつかのコメントをいただきましたので,それに応答したいと思います。今回の記事も、百木の個人的な見解・解釈を含んでおり、これが京都アカデメイア全体の見解ではないことをあらかじめ断っておきます。
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1)経緯についてはよくわかったが,この問題は「教養とは何か」「大学の役割とは何か」といった理念論で語る前に,大学で新しい組織を立ち上げる際の正当な手続きを踏んでいないという手続き論で批判すべき問題ではないか。

正論です。実際に,この構想に反対している人環の先生方もそのような手続き論に則って,総長サイドに対して反対しています。具体的には,この計画の手続き上の不備をめぐる監査請求が行われています。その手続き上の不備については,人環教員有志のサイトに簡潔にまとめられています。念のため,以下に引用しておきます。

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「国際高等教育院」構想推進に関する問題点

1.大学規程違反
規程に定めのない総長裁定委員会の乱用
既存委員会と任務が重複する委員会を設置して既存委員会の権限を蔑ろに

2.共通教育検討段階での責任部局の排除
全学共通教育を担う総合人間学部と4学部(経済・農・教育・薬)を抜きにした構想推進

3.委員会議論の恣意的な解釈
委員会に提案された2案のうち支持の多かった案を説明も無く撤回
強い反対があっても了承と主張(反対意見が多く出た案を修正もせずに部局長会議に提案)

4.教養教育の中身の議論の欠如
人員確保と組織図作りに終始
教育院の中身とは関係ない資料(総長参考資料1、2、3、4)を示して、中身を十分議論したと偽装

5.欺瞞に満ちたメッセージ発信
構想の一部だけを強調したメール送信で学内世論を誤誘導

6.拙速・杜撰な構想推進
次年度4月に発足させる組織を前年末に強行決定することを画策
「専任教員」「再配当定員」等の定義不明ポストで構成された粗雑な組織設計

7.部局の人事権の強引な剥奪
法的根拠もなく教員を部局から移籍させて実質的な管理下に置く(1913年澤栁事件・1933年滝川事件以上の前代未聞の)暴挙

8.社会不安の誘引
未確定な構想内容の報道を許し、人間・環境学研究科・総合人間学部大幅縮小との誤解を社会(とりわけ受験生)に与えたこれらの問題は、以下の点で京都大学の基本理念に反している:

「高い倫理性」の欠如
「多様かつ調和のとれた教育体系」の破壊
「対話」の拒絶
「開かれた大学」の否定
「自由と調和に基づく知」の破壊
「学問の自由な発展」の阻害
「教育研究組織の自治」の破壊
「全学的な調和」の軽視
「社会的な説明責任」の放棄
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以上の指摘はいずれも的確なものだと思いますが,実際に監事側がどのような判断を下すのか,そしてその判断がどの程度,総長の方針に対して拘束力をもつのか,というのは今のところよく分かりません。おそらく,こういう風に総長の方針に対して教員から監査請求が行われるということが異例の事態なので(上記の指摘では,これは「1913年澤栁事件・1933年滝川事件以上の前代未聞の暴挙」だとされていますが),どのような判断が下されるのか,注視したいと思います。

また,このような手続き論でもって反対するのが正攻法だとして,それだけで本当にこの計画に待ったをかけられるのか?という疑問も残ります。なぜなら12月4日に開かれた部局長会議において,総長サイドは教員・学生から反対の声があがっていることを知りつつも,元の計画を修正することなく,それを強行採決しようとしたそうだからです。11月26日時点で全教員にたいして送られた総長メールと,全学生にたいして送られた副学長メールでは,いったん譲歩の構えを見せておきながら,12月4日の会議では,そのメールと全く異なる内容(つまり,元のままの計画)で採決を行おうとしたと聞いています。これに対してはさすがに,人環以外の研究科長からも反対の声があがり,その会議での結論は持ち越しということになったそうです。

つまり,総長サイドとしては,教員・学生から反対の声があがろうが(11月末時点で1255名の反対署名が集まってる),手続き上の監査請求がなされようが,そういった反対の声には構わず,また京大の教員や学生に対して正式な説明を行わないままに,この計画を元のままの案で通そうとしているということです。これを総長の権限を超えた横暴だとして批判することはもちろん真っ当なのですが,他方で,そうまでして強引にこの計画を通そうとする総長サイドの意図は何なのだろう?ということも気になります。学内で多少の反対意見があがろうとも,大学の正式な手続きを踏み越えてでも,この計画を今年度中に通して,来年度から実際に新組織を立ち上げようとする総長サイドには,何らかの後ろ盾なり,これを強引に突破しても大丈夫だという論理なりが存在するのでは,と勘繰りたくなってしまいます。

今後の予定としては,今週18日(火)の臨時部局長会議にてこの計画について何らかの決定が下される予定だということです。この会議においても,総長サイドは元の案を修正することなく強行突破の予定だ,という噂を聞いておりますので,もはやどんな反対があろうとこの計画は可決されることが決められているのかもしれません。この点についても,ひとまず18日の決定がどのようなものになるかを見守りたいと思います。

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2,今年3月に文科省から出された「予測困難な時代について~」という文書,および6月に発表された「グローバル人材育成について~」という文書にも言及してほしい。

前回の記事でも書いたように,この教育院計画は松本総長が単独で立案し,実行しようとしているものではありません。その背景には,文科省が推進している「大学改革実行プラン」があります(今年6月発表)。さらにこのプラン策定のための方針を示す答申として3月中教審から「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」という文書が発表されています。この大学改革実行プランとは「生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成」などを目標とした大学改革プランです。そして今年度が「改革始動期」,来年度と再来年度が「改革実行期」と定められており,おそらくその計画に沿って今回の教育院構想も立ち上がったのであろう,ということです。注目すべきは,このプランが発表されたのと同じ6月に「グローバル人材育成推進会議の中間まとめ」が発表されているということです。この文書では,「グローバル化の加速する社会において活躍できる人材の育成の重要性が増していることは論を俟たない」とされています。おそらくこの二つの文書は互いに関連しあっており,「大学改革実行プラン」の具体的な実行路線が「グローバル人材育成」にあることは既定のもので,その既定路線に沿ったうえで教育院が構想されています。ちなみに京都大学が国際高等教育院構想についての基本方針が初めて示されたのが翌月の7月でした。また8月には中教審からこれらを総合した「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)」という文書が示されています。

先ほど,総長サイドが反対の声があるにもかかわらず、強引にこの計画を進めようとしている背景には何か後ろ盾があるのでは…、と書いたのはこのことです。といっても,「裏で文科省役人がすべてを操っている!」という陰謀論的な話をしたいわけではありません。また「グローバル人材の育成」自体に反対しているのでもありません。ただ、個々の大学の教育現場の現状や特質を理解しないままに「グローバル人材の育成」だけが至上命題として掲げられ、総長が予算や権限を獲得するために文科省の定めたプログラムをそのまま受け入れて、これを教員と学生への説明なしに強引に実行しようとしていることに反対したいのです。せめて総長はこの計画について京都大学の教員と学生にその意図を正式に説明する場を設け、教員と学生の概ねの賛同を得たうえで、これを実行していく義務を負っているでしょう。

この教育院構想には今のところほとんど具体的な中身がありません。グローバル人材を育成するためにネイティヴスピーカーを多く雇い、英語授業を増やすという程度の情報が漏れ伝わってくる程度です。しかし、英語の授業を増やせばグローバルに活躍できる人材が育成される、というほど単純なものではないはずです。京大生ならば英語力は自力でもそれなりに身につけられるはずです。問題は、英語を使った授業の中でどのような内容の講義や議論がなされるかということです。そういった話を抜きにして、ただネイティヴスピーカーの講師を大量に雇えばいい、といった表面的な計画だけで教養教育改革が進もうとしているのであれば、これはかなり危険なことなのではないかと思います。

また、松本総長が今回の計画を焦って実現させようとする背景には、来年度に文科省から京都大学へ国立大学法人評価が入り、その結果いかんでは国からの予算が大幅に減らされてしまうかもしれない、という危機感があるそうです。聞くところによれば、数年前にある国立大学がこの評価査定の結果、約5億円の予算を減らされたとか。松本総長はそのことを非常に気にしており、文科省から良い評価を獲得するために、わかりやすい大型プロジェクトとして今回の国際高等教育院構想および思修館構想入試改革などを進めようとしているのでないか、との推測があるらしいです。この思修館構想や入試改革の内容も相当に問題含みなものですが、問題の本質は、文科省から予算を取ることが大学当局にとっての至上目的となり、根幹の研究現場や教育現場での意見や、教員・学生の意志がおざなりにされているということです。この問題は、そもそも2004年の大学独立行政法人化以降、大学に競争原理を持ち込んだ文科省の方針にその根源があると言わねばなりません。この問題も是々非々で議論すべき論点が多数存在しますが、ひとり総長の暴走を問題とするのではなく(それだけでも相当に問題はあるのですが)、文科省が90年代以降に進めてきた大学改革のあり方が正しいものであったのか、という大きなレベルで問題を考える必要があるのではないでしょうか。(続く)

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いま、京大で起こっていること。 -「国際高等教育院」問題について

百木です。いま、京都大学でちょっとした騒動になっている「国際高等教育院」問題についてまとめてみました。できるだけ客観的に・事実に基いて書いたつもりですが、いろいろと僕個人の意見が反映されている部分もあると思います。この記事はあくまで百木個人の意見であり、京都アカデメイア全体の見解ではないことをお断りしておきます(この問題についてはいろいろな意見・立場の人がいるので)。もし何かお気づきの点、反対意見、補足情報などあればコメント欄にお願いします。

1.現状のまとめ

最近の京大は、「国際高等教育院」問題で揺れています。
初耳だという方も多いでしょうが、朝日毎日などの大手新聞でも記事になっていたのでそちらをご覧になった方もいるかもしれません。いくつかリンクを貼っておきます。

朝日新聞: 京都大、教養教育を一元化へ 13年4月に新部門検討(2012年11月15日9時58分)

毎日新聞: 京都大:教養教育一元化へ 学力低下ストップ狙い、来年度にも新組織(2012年11月17日)

また京都大学新聞の特集記事にも詳しい経緯がまとめられています。なかなか良い記事です。
京都大学新聞:緊急特集 「教養共通教育再編」を考える(2012.10.16)

大まかにどういう事態になっているかを説明しますと、

1)来年度から一般教養科目(いわゆるパンキョー)の制度を大きく変えるという計画が浮上。
2)それに合わせて、一般教養科目担う「国際高等教育院」なる組織を設立する計画が浮上。
3)ところがこの「国際高等教育院」計画に対して教員・学生から異論が続出。
4)教員・学生有志による反対の署名活動集めや抗議書の提出監査請求の要請が行われる。
5)総長サイドは当初の計画案で強行突破を図る。 ←今ここ

という感じです。

特にこの計画に反発しているのは、これまで一般教養科目を主に担ってきた総合人間学部および人間・環境学研究科(総合人間学部の大学院に当たる組織)の教員や学生たちです。ちなみに人間・環境学研究科棟の入り口は現在こんな風になっています。(笑)

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夜間ライトアップまで。(笑)
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こちらは先生方による反対決起集会の様子。
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動画もあります。お二人の先生方が話されていますが、どちらもなかなか心に染みます。

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こちらは人環・総人の教員による説明会の様子。詳しい経緯を知りたい方はどうぞ。

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また人環教員有志による反対表明サイト学生有志による反対活動wikiなども立ち上がっています。とくに人環教員有志による反対サイトにはこれまでの経緯も詳しく書いてありますし、随時情報が更新されていますので、関心ある方はチェックなさってみてください。コメント書き込みも可能になっていて、それぞれのコメントにきちんと返答してくださる印象を持っています。web反対署名もできます。ちなみに11月末時点で集まった反対署名は1255件だったそうです。人環で学ぶ留学生からも抗議書が提出されています。

その他ネット上のまとめなど。
京都大の「国際高等教育院」構想に対する反応 – Togetter
京大【総人・人環】「国際高等教育院」構想反対決起会(11/12)
京大総長の「国際高等教育院」構想が、骨抜き過ぎて笑える件
「国際高等教育院(仮称)の設置について」というメールについて

2.これまでの経緯とか

ではどうしてこうした反対運動が(一部で)盛り上がっているのでしょうか。
まず、そもそもどのような教養教育改革がなされようとしているのか、を大学の公式資料を参照しながら確認してみます。

こちらの資料を見ると、「グローバルな知識基盤型社会において、我が国の学士課程教育が、未来の社会を支える優れた人材を育成するという公共的使命を果たし、社会からの信頼に応えていくために…改革を推し進めなければならない」という文言から始って、近年の京都大学では「研究活動や専門教育を重視する一方、教養・共通教育を軽んじる傾向も否めない」ために、抜本的な教養教育制度改革が必要だ、という結論になっています。具体的な改革内容としては、a.開講科目の精選と体系化、b.各学部による履修モデルの提示、c.初年次への専門基礎科目配当の見直し、d.ポケゼミの正規授業化、e.英語授業の強化、などが挙げられています。

さらにこちらの資料では、「各学部のニーズに合った共通・教養教育にかかる科目提供の在り方やその実施を、10 学部と全学共通教育実施責任部局および協力部局が対等に議論することが、本学の共通・教養教育の改善に向けた全うな道筋であろう」としたうえで、「全学共通教育の負担問題を、本学基本理念に部局自治の尊重と並んで謳われる「全学的な調和」的運営によって解決することが求められるが、そのような調和的な合意が不可能な場合には、旧教養部から総合人間学部への移行の際の議論に立ち返って、教員定員の配置の在り方から再度の抜本的な議論を行なうことも必要となるであろう」として、教養科目の学部ごとの負担割合をどうするか、という点に話が進みます。

ここから「本学の全学共通教育の一層の適正化を図るため」現行の組織体制を抜本的に見直し、「各研究科等の協力を得て、全学共通教育の企画、調整及び実施等を一元的に所掌する全学責任組織「国際高等教育院(仮称)」を設置する。」という組織案が浮上してきます。この組織では「全学共通教育をはじめとした国際高等教育院(仮称)の業務を主務とする専任教員を配置する」とされ、その「教員原資」に関しては人間・環境学研究科から90~135ポスト、理学研究科から27ポストなどを当てる、という人事異動の話が出てきます。

これに対して、人環の先生方から反対表明が出されています。この計画があまりに性急に進められていること、松本紘総長から教員・学生にたいしてほとんど何の説明もなく、一方的に総長のトップダウンで計画が構想されていること、どのような理念のもとに教養教育改革がなされるのかが不明瞭であること、計画されている人事異動案が到底了承できるものではないこと、などがその主な理由です。

大きくまとめると反対の理由は以下の三つに分けられそうです。
1)京都大学の教養教育が損なわれてしまうのではないかという危惧。
2)松本総長によるあまりに性急な計画の進め方への反発。
3)人環・総人が実質的に解体されてしまうのではないかという危惧。

こんな感じで、現在、京都大学では「国際高等教育院」計画をめぐって、これを来年度から実施しようとする総長サイドと、これに反発する教員・学生有志サイドで対立が起こっており、ちょっとした「例外状態」が出現しております。

ちなみに僕も人環に属する大学院生のひとりなので、ささやかながら反対署名をしたり、いろいろ情報を収集・整理などしているのですが、根があまり真面目な性格ではないもので、個人的には今回の騒動をある種の「非日常的体験」として楽しんでしまっているところがあります。僕は京都大学に在籍して通算でもう10年以上になりますが、こんな状況は初めてですから。こんなことを書くと、真面目に反対活動をしている先生や学生の皆さん、あるいは真剣にこの計画でもって「教養改革」をしようとしているお偉い先生方に怒られてしまいそうですが。もう少し真面目に書くと、僕は今回の騒動が、京都大学のこれからのあり方や、教養教育の意義、総人・人環という組織の立ち位置、大学自治の行く末、などについて先生と学生が一緒になって考え直す良い機会なのではないかと考えています。

今回の計画に賛成するか反対するかはともかくとして(僕個人は反対の立場ですが)、この計画について双方の議論を詰めていくならば、最終的には「大学の役割とは何か」「教養の意義とは何か」といった大きな話に行き着くはずで す。実際に、先日開かれた教員と学生の対話集会でもそのような議論が、教員と学生・OBの間で闘わされていました(先生方の認識は甘いのではないか、教養 とは何か?という本質的な議論・定義を避けて、今回の計画に本当の意味で反対など出来るのか、など)。この問いを突き詰めていくと、これまでの人環や総人 は本当に理想的な教養教育を行なってきたのか、そもそも人環の先生方はあるべき教養教育のあり方をどのように考えているのか、というツッコミがブーメランのように人環・総人の側に返ってくるはずです。この点については、教養部廃止から人環・総人の設立に至る経緯、人環・総人の理念と現実の差なども含めていろいろ言いたいことがあるのですが、長くなりそうなのでここでは割愛します。

3.背景にあるもの

そもそも今回の問題は、近年、「学生の基礎教養の低下が課題となっている」「教養・共通教育を軽んじる傾向がある」「学生を採用する企業側から学生の基礎教養の底上げを求める声が高まっている」「グローバルに活躍できる人材を育てることが求められている」という松本総長(大学当局)の認識から起こったものです。

またその背景には、日本の高等教育全体を取り巻く「改革圧力」があります(京都大学新聞)。今年6月に文科省が発表した「大学改革実行プラン」 によれば、「生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成、我が国や地球規模の課題を解決する大学・研究拠点の形成、 地域課題の解決の中核となる大学の形成など、社会を変革するエンジンとしての大学の役割が国民に実感できること」を目指した大学改革を行うとされていま す。その具体的内容としては、「大学入試の改革」「産業構造の変化や新たな学修ニーズに対応した社会人の学び直しの推進」「グローバル化に対応した人材育成」などが挙げられています。

つまり、グローバル社会や経済界か らの要請にあわせて大学制度・教養教育の中身を「改革」していこうという大きな流れがあり、その流れのもとに松本総長が今回の「教養教育制度の改編」およ び「国際高等教育院計画」を構想したということのようです。今回の計画の進め方が性急にすぎる、教員・学生への説明がない、人員異動のやり方に問題があ る、といった点にももちろん問題はあるのですが、問題の本質は文科省・経済界・大学当局がスクラムを組んで進めようとしている上記のような「大学改革」の流れが本当に正しいものなのか、われわれは「大学の教養教育」に何を望むのか、という点にあるのではないかと思います。

「自由な校風」 によって知られ、「1人の天才と99人の馬鹿を生み出す」と言われてきた京都大学の教育のあり方を今後どのようなものにしていくべきなのか。そもそも「大 学」や「教養」の意義をどのようにとらえていくのか。今回の騒動が、大学人にとって根本的なこういった問題について、改めて考えなおす機会になればと思い ます。

アカデメイアカフェ活動報告

先月の11月17日(土)に第5回アカデメイアカフェを開催しました。

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サクラカフェ

今回のカフェは下鴨にあるサクラカフェに場所をお借りしました。近所には府立植物園や洛北高校があって、店内も落ち着いた雰囲気の素敵なお店です。当日はあいにくの天気でしたが、それにもかかわらずたくさんの方に参加していただきました。ほぼ初対面同士によるディスカッションということで、いわばインスタント的に議論を広げていくという形式でしたが、結果的に楽しんでいただけたなら幸いです。

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今回のテーマは「食」にまつわるあれこれについて広く考えてみようという趣旨で、食生活と健康についての身近な疑問から、食育、便利で快適な食品生活の功罪など、話題も多岐に渡って展開しました。(ところで、毎日規則正しく三食摂っているという人が多かったのはちょっとした驚きでした。)

しかし、なぜ「食」なのでしょうか? 人は誰しも食べ物を摂ることなしでは生きていけません。その意味では食は人間生活の基本的条件のひとつです。また、それだけでなく人は食材を煮炊きすることで料理を発明したり、独自のアレンジを加えることで多様な食文化や生活様式を発展させてきました。これらは人間の特徴といってもよいでしょう。

考えてみれば、食は話題には事欠かないくらい身近な存在です。たとえば、日本では毎日数えきれないくらい多くの食品が生産・流通しています。また、街を歩けば料理店が目に入らない場所を探す方が難しいくらいです。しかし、その一方で、食中毒や農薬、遺伝子組み換え食品、BSE、食品偽装、放射能汚染の問題などの食の安全や、肥満やメタボリック・シンドローム、ダイエットなどの健康の問題、そして食料自給や世界中の飢餓、食料危機の問題などとも結びついています。

今回の企画では触れることができなかった論点もたくさんありましたが、当日のディスカッションで気づいたのは、食についての話を周囲の人たちとする機会がこれまであまりなかったということです。もちろん、それには一般的な理由が考えられます。一つには、あまりにも身近な問題であるために、話していても気に留めないということもあるでしょう。しかし、もう一つ重要な理由は、「食」についてのさまざまな問題が、本当は根本的な部分で倫理や道徳的な問題にかかわっているからではないでしょうか。

たとえば、毎日何気なく飲んでいるコーヒーの豆は、じつは過酷な労働を強いられている途上国の労働者によって作られたものかもしれない。私たちがそのコーヒー豆を購入し消費することで、知らず知らずのあいだに悲惨な状況に加担しているかもしれない。あるいは、もっと根本的なことは、そもそも食べるということによって他の生き物の命を奪っているということです。しかし、食品がより安全で快適で早く提供される一方で、その背後でどのような仕組みが作動しているのかが見えにくくなってもいます。

現代の食の問題を包括的に取り上げた『食の終焉』によれば、食は本来、ほかの商品とは根本的に異なっているものであるといいます。にもかかわらず、スニーカーやDVDなどと同じように、食も経済システムに組み込まれていることが、さまざまな問題の原因になっていると指摘しています。けれども、そうした問題がわかったところで、いますぐに根本的な解決が図られるわけでもありません。ある参加者の方が言った印象的な言葉があります。「こうして色々な問題がわかっても明日から自分自身の食生活は変わらない気がする。またこれまでの(不健康な?)生活を続けていくのだろう」、と。しかし、その通りかもしれません。個人でできることには限界があります。あるいは、より良い選択ができるのは限られた余裕のある人だけかもしれません。

今回の企画では、正しい答えを見つけたり、ある特定の考え方を推奨することは意識的に避けました。むしろ、日常の食事や生活が、さまざまな要素や問題とつながっているという複雑さ、あるいは繊細さにお互いに気づき合うというところにポイントをおきました。一見遠回りにもみえますが、このような営みは、ものごとについて深く考えるということにとって、あるいは実践的な観点からみて決して無意味なことではないはずです。なぜなら、それぞれの意識が変わることは、同時に、その行為の意味が変化することでもあるのだから。

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ディスカッション風景

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大窪善人