西尾維新『偽物語(上)』の書評です。
やはり偽物と本物が本書のテーマでしょう。しかしそれが何を意味しているのかは意外とわかりづらいので、ここではそれを探ります。
登場人物の中では、貝木泥舟が偽物の中の偽物であり、羽川翼が本物です。阿良々木火憐は偽物なのか本物なのか微妙なところですね。
「力が強くっても意味なんかねーよ。本物に必要なのは――意志の強さだ」(p.292)
とあり、それゆえに羽川翼は本物だと言われているので、本物というのは自分の意志を強く持っている人のことでしょう。とりわけバランサーとして中立的な動きをするためには、関係者の利害に流されないように、強い意志が必要となるでしょう。
反対に考えると、自分の意志を強く持たずにまわりに流されるのが偽物だということになります。確かに貝木泥舟はお金を払う依頼人の言う通りに動きますし、そもそもお金というものは本質的な価値を有さず他者から欲しがられることによって価値を持つものなので、偽物の中の偽物である彼にふさわしいです。彼が欲しがるのは、米(ライス)でも金(ゴールド)でもなく日本銀行券だからなおさらそうですね。怪異に対するスタンスも、「怪異など、俺は知らない。しかし怪異を知る者を知っている。それだけのことだ」(p.304)と言うなど、一貫しています。
阿良々木火憐は自分の意志で正義を追求しているように見える反面、周りの人に影響されてよく考えずに正義だと思い込んでいる節があるので、偽物なのか本物なのか微妙なわけです。もっとも、誰しもが周りの人にいくらか影響されるわけで、純粋に自分の意志など存在しない(自分の意志だと感じているものも周囲からの影響で作られたものかもしれない)とも考えられるのですから、阿良々木火憐のほうが両極の貝木泥舟や羽川翼よりも人間的だとも言えそうです。