最近読んだ本(民藝運動とその周辺)

おひさしぶりです。村田です。最近読んだ本シリーズです。

去年は「民藝運動100年」だったそうです。
(だいぶ前の話ですが)秋に京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)で「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展を観ました。

「民藝」は「民衆的工藝」の略。
1925年、木喰上人が制作した木喰仏に惹かれ各地を調査していた柳宗悦が、河井寛次郎や濱田庄司らとともに調査の旅に出る中で思いついた語であるとのこと。彼らは弘法さんや天神さんなどの市で、無名の人の作る雑器「下手物(げてもの)」を蒐集し、その日常性に美を見出すも、「下手物」という語が世間で誤用され始めたので別な言葉を作る必要が生じ、「民藝」の語が生まれました。

民藝運動のことはずっと気になっていたのでしたが、ぼんや~りしか知らなかったので、これを機会にいろいろ読んでみました。

以下、民藝運動+その周辺について読んだものです。

 

【民藝運動】

●柳宗悦『工藝文化』岩波文庫、1985
長年積読していた本でしたがこの機会に読みました。昭和17年の著作。民藝の思想のアウトラインがよく分かりました。

・近代以降、美術は個人主義・自由主義のもとに、天才とされる個人の独創的表現が尊ばれるようになった。しかしそれは逆に自己に縛られることであり、真の自由ではない。

・美術は純粋性ゆえに尊ばれ、工藝は実用性ゆえに低くみられてきた。だが、美と生活を分離させることは健全ではない。

・民衆的工藝とは、貴族的工藝や個人的工藝と異なり、一般民衆のために作られ・実用を第一とし・多くの需要に応ずるため多量に作られ・低廉であり・職人の手によるものである。

・資本主義下での機械的生産は、質と美を無くし、人道的問題を起こし、地方性も奪ってしまった。

● 高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT、2020

5年前に人から薦めてもらった本ですが、これもやっと読みました!
基本的な歴史、民藝運動にかかわった人たちの人となりやエピソードも面白く、タイトルの通りわかりやすい入門書でした。著者は自らも工芸店を営んでいる人です。

特に、「民藝は反近代主義なのか?」という話が面白かったです。
民藝は、共同体や伝統への回帰を謳う反近代主義のように誤解されがちですが、そうではない、というのが本書の主張。新しいメディアである雑誌を使って思想を発信し産業界からの支援も受けるなど、近代的手法の上での運動だったことが示されています。「当時の若者に自分のこの運動に参加することでなにかを得られる、と思わせた」(p.123)という表現に、当時の雰囲気を想像しました。

また本書に通底する問いは、どこまでが「民藝」か? というものです。
手仕事全般を指す? 特定の作り手のものを指す?無名の作者による安くてシンプルなものを指す? ……本書いわく、「○○だから民藝」といえるものは、ない。
「民藝」がある程度の規模になったとき、それに権威が付与され、柳の言った「実用性」や「無銘性」が民藝の条件であるように思われてしまった。しかし、たとえば「実用性」を「実用的でなければならない」ととらえるのでなく「非鑑賞性=鑑賞を目的として作られたのではない」と読み替え、「無銘性」を「無銘の職人によるものでなければならない」ととらえるのでなく「非有銘性=自らの名をあげるために作ったものではない」と読み替えればよいのでは、というのが本書の提言です。曰く、「民藝」は連帯のための言葉であり、排除のための言葉ではなかった。

しかし、「○○だから民藝」と言える絶対的な条件はないが、「一個だけ例外がありまして。『柳が選んだから、民藝』、これだけは仕方がない(笑)」(p.154)というのは、アール・ブリュットにおけるデュビュッフェの存在と似ているな、と思いました。
私はアール・ブリュット/アウトサイダー・アートと呼ばれる領域に関心があり、これらの概念にまつわる難しさと「民藝」のそれってちょっと似てそう、ということも「民藝」が気になった理由の一つだったのでした。(後で触れます)

●柳宗悦『琉球の富』ちくま学芸文庫、2022

民藝展で知ったことのひとつは、民藝運動が朝鮮・アイヌ・琉球の工芸品から多くのインスピレーションを得ていたということでした。非西洋の表現を接取しながら発展してきた西洋の前衛芸術と同様、「周縁」(しかも自国が支配する地域)の風物に関心を示すとき、それが純粋な関心であってもどうしてもそこには搾取の意味合いが生じてきます。民藝運動の人々はどのような態度でそれらに接していたのかを知りたく思っていたところ、ちょうど、柳が琉球・沖縄について書いた文章を集めた本が出ていたので読んでみました。

沖縄の建築や工藝を紹介しながら繰り返されるのは、「沖縄にはわれわれが失った美があり、沖縄の人もそれを誇るべきである」という主張です。たとえば、日本の瓦屋根は「美しさの乏しい」「汚い」色で「面白味の全くないもの」になり果ててしまった、と嘆いた後、

ですが何たる幸いなことか、日本本土の凡ての瓦屋根が冷いものに化した今日、実に琉球ばかりは、残らず本葺の瓦屋根を現に用いているのです。(略)私達はもう見ることが出来ないと考えた本葺の家のみが並ぶ町を、思いがけなくも眼のあたりに眺めるのです。夢のようにさえ想えるのです。(p.19)

本土で失われた純粋なものが沖縄には残っている、という主張は、当時の国語学の主張とも併行していたのでしょうか。柳は言葉についても述べています。

或る人々は沖縄の言葉の如きは既に過去のものであって、新しい日本にとって無用であるかの如く述べているのです。併し和語を純粋なものに整理する為には、如何に沖縄の言葉が吾々に多くの暗示を与えるかを知らないのです。和語への自覚が澎湃として興って来た今日、其の存在は幾多の感謝を以て顧みられねばならないのです。なぜ沖縄の人達は自分達の言葉が最も古格ある大和言葉を保有していると云うことを誇りにしないのでしょうか。(p.22)

こうした見方(周縁には純粋な何かが残っているという憧憬)も、現代であれば「オリエンタリズム」として批判されるかもしれません。しかし、柳が、この時代に、国による方言政策(土地の言葉を禁じようとする)を公然と批判していたことはすごいことだと思います。
また、単に「本土で失われたものが残っている」という点のみでなく、「小さな島の小さな王国に、嘗てどんな力があったのか、実に不思議なほど、凡てのものを琉球の血と肉とにして了った」「琉球は決して模倣の国ではない」(p.113)と、独創性の点でも沖縄を評価しています。

【民藝の周辺】

以下は「民藝」をちょっと離れて、それと関連する(してそうな)本です。

● 軸原ヨウスケ・中村裕太『アウト・オブ・民藝』誠光社、2019

民藝は「周縁」との接触から始まったはずですが、本書は、その民藝のさらに周縁を検討していく本、といえましょうか。たとえばこけしとか「木っ端人形」とか。

現代のわれわれは「民芸品」といえば、観光地の土産物屋で売られているようなああいうもの(なんか和風の小物とか)をイメージしますが、そうしたものは『わかりやすい民藝』では、民藝運動とは関係のない「いかみん」(いかにも民藝)と呼ばれていました。しかし本書はいかみん中のいかみんであろう「味の民芸」(岡山のチェーンレストラン)の話から始まるのが面白い! 柳宗悦の「民藝」と一般化した「民芸」の乖離を示すと同時に、「これはこれですごいことです」とも言われています。

著者二人の対話の中でいろんな話が出てきて勉強になりましたが、特に、今和次郎の「平民工芸」の話が興味深かったです。
今和次郎といえば考現学の人ですが、柳宗悦や柳田国男が農村で廃れゆく工藝品を見ていたときに、今和次郎は前衛的な工藝運動を見ていた。そして、柳・柳田とも都市の工藝運動とも異なるもの(その中間のもの?)を発見した。
私も街角のへんな一角だとかいろんな貼り紙だとかを見つけながら歩くのが好きで、こういうものをどう位置づけたらええんやろか、と思っていたので、「ブリキのガス灯」発見の喜びを綴った文章など面白く、このへんの系譜(考現学から路上観察とかトマソンとか)を整理する一助になりそう、と思いました。

●鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999

そんな流れで、昔に読んだこの本も再読してみました。 「限界芸術」は鶴見が1950年代に唱えた概念ですが、純粋芸術(ファイン・アート)、大衆芸術(ポピュラー・アート)よりもさらに広大な領域で、芸術と生活との境界線にあたるものものを指します。この概念を知ったときは「なるほど! これは便利な概念(私の好きな諸々がこれで表せる!)」と思ったのでした。

鶴見は、柳田国男を「限界芸術の研究者」、宮沢賢治を「限界芸術の作家」、柳宗悦を「限界芸術の批評家」としています。限界芸術の諸様式はすべてが共通の地下道をもっていてそれは各地各時代の具体的な集団生活の様式である、とか、明治以後の工場式の生産様式が労働と愉しみを分離させた、という論も、柳の民藝論と通じています。が、一方で、限界芸術は更に民藝の枠をも超えるとされます。民藝は機械生産を軽視し手仕事のみを評価したが、「限界芸術は、柳の考えた民芸というわくをこえて、カメラとか、映画とか、あるいはまたアマチュア放送などを含むものとしてとらえられることがのぞましい」(p.45)。

街角のへんな一角や貼り紙を見るのが好き、と上に書きましたが、「限界芸術」というパースペクティブならそうしたものものも広くとらえられそうです。あるいは、われわれは自身が日々生産する、メモの切れ端の落書きとか、台所収納の工夫とか、即興の鼻歌とかも?

●播磨靖夫『人と人のあいだを生きる 最終講義 エイブル・アート・ムーブメント』(どく社、2025)

エイブル・アートの提唱者である著者がエイブル・アートについて語る本です。
エイブル・アートというのは和製英語で、障害者による芸術を扱うムーブメントを指します。90年代に企業の後援も受けながら盛り上がりました。
欧米発祥のアール・ブリュット/アウトサイダー・アートの類似概念のようでありつつ、そちらへの言及はほとんどなく、むしろ民藝運動・限界芸術・宮沢賢治などの話が多く出てきます。たとえば柳宗悦の「不完全の美」という概念。また、自己表現に呪縛されると逆に類型的な表現を再生産することになり個性が失われる、というのも『工藝文化』において柳が主張していることです。
欧米のアール・ブリュット/日本のアール・ブリュットの相違はしばしば論じられていますが、殊に日本のアール・ブリュットをめぐる言説は、一方で病跡学的な天才論に接続しつつ、もう一方で民衆の手仕事を広く評価しようとする民藝や限界芸術の理念に接続しているのかな、と考えました。

なんか話が広がってきたので今日はこのへんで。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です