西尾維新『傷物語』書評

浅野直樹

西尾維新『傷物語』の書評です。


傷物語

講談社(2008年06月06日)

相対主義的な価値観が色濃く打ち出されています。

 観測者にとってのみ意味を持つ。
 観測者によって意味が違う。
 観測者同士にとっての意味が一致しない。
 それがーー吸血鬼である。(p.11)

冒頭のこの説明からして、「万物の尺度は人間である」とまとめられることの多いプロタゴラス的な相対主義の立場がはっきりと示されています。つまり、誰か一人が絶対的に正しいというわけではなく、同じ物事でも見方を変えれば価値判断も変わるということです。

本書の主題がこれであり、「みんなが不幸になる」(p.343)ような方法で決着が図られます。

その際に大きな役割を果たすのがバランサーである忍野メメです。彼は初登場シーンでの自己紹介で自分の仕事を説明します。

「しかし、さっきも言ったけどさあ――僕は別にきみ達を助けているつもりはないよ。助ける理由も必要もないだろ。敵も味方もない。助かるのだとしたら、きみ達が勝手に助かっているだけだよ」
「……わからねえよ。言ってること」
「僕はね、バランスを取っているんだよ」
 ようやく、忍野はそれらしいことを言った。
「言うなら、それが僕の仕事なのさ」(p.94)

本書中では「学園異能バトル」と呼ばれるバトルシステムも相対主義的です。『ドラゴンボール』のように戦闘力という一元的な数値の高低で勝負が決まるのではなく、『ジョジョの奇妙な冒険』のようにそれぞれの能力の使い方によって相対的に勝負が決まるからです。実際、西尾維新さんは『ジョジョ』から受けた影響を荒木飛呂彦さん相手に熱く語っています。

西尾 雑魚キャラが出てこない。特に物語にスタンドが現れてからが顕著なんですが、どんな弱そうなスタンドでも使い方次第ではトップを取れるみたいなところが大好きですね。重ちー(スタンド:ハーヴェスト。体長10cm程度だが、その数500体!)とか、ひょっとして最強ですか?
荒木 そうてすね(笑)。何というか、80年代のマンガって、敵がどんどん強くなっていくタイプの描き方なんですよ。これ限界あるし、疲れるんですよね、ものすごく。
西尾 「今おまえが倒したのは、我々の中で一番弱いやつだ」的展開。
荒木 それを打破するには、視点を変えると強いやつ、すごい力はないけれども、一点だけ攻められたら最強とか怖いとか、そういうのにしようと思って、本当に考えていきましたね。
西尾 「強い弱いの概念はない」といった感じですね。
荒木 敵をどんどん強くしていくマンガの描き方はすごい疲れるんです。だって、ここまで強くやっているのに、この上がいるのか! みたいな感じですから、どうしよう、どうしようって、毎週そんな感じですよね。でね、ついに、やっぱり、バブルの頂点が来るんですよ。「じゃあどうしたらいいんだよ」という、とても怖い作り方なんですよね。1回ぐらいはいいんですよ。その最強が出たときはものすごい人気だから、出版社はやめるなって言うんです。でも、作り手の側からは、その上はないだろうという、そういう感じになりますよ。
西尾 力のインフレーション、誰が始めたんでしょうね。最初はおそらく非凡極まりない発想だったのでしょうが……いかんせん流行ってしまうとテクニックとしては袋小路というか、焼き畑農業に行き着きますよね。『ジョジョ』はそこに革命をもたらしたと言ってもいいのではないですか。
荒木 革命というか、逃げたというんですかね(笑)。でも、人間ってそういうものじゃないかなと思った。
 パンチが強い人が、必ずしも強い人間じゃないんだみたいな。(『西尾維新クロニクル』(宝島社、2006)p.86)

本書『傷物語』には、この対談で語られたようなことが反映されているように思われます。

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