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いま、京大で起こっていること。 -「国際高等教育院」問題について

百木です。いま、京都大学でちょっとした騒動になっている「国際高等教育院」問題についてまとめてみました。できるだけ客観的に・事実に基いて書いたつもりですが、いろいろと僕個人の意見が反映されている部分もあると思います。この記事はあくまで百木個人の意見であり、京都アカデメイア全体の見解ではないことをお断りしておきます(この問題についてはいろいろな意見・立場の人がいるので)。もし何かお気づきの点、反対意見、補足情報などあればコメント欄にお願いします。

1.現状のまとめ

最近の京大は、「国際高等教育院」問題で揺れています。
初耳だという方も多いでしょうが、朝日毎日などの大手新聞でも記事になっていたのでそちらをご覧になった方もいるかもしれません。いくつかリンクを貼っておきます。

朝日新聞: 京都大、教養教育を一元化へ 13年4月に新部門検討(2012年11月15日9時58分)

毎日新聞: 京都大:教養教育一元化へ 学力低下ストップ狙い、来年度にも新組織(2012年11月17日)

また京都大学新聞の特集記事にも詳しい経緯がまとめられています。なかなか良い記事です。
京都大学新聞:緊急特集 「教養共通教育再編」を考える(2012.10.16)

大まかにどういう事態になっているかを説明しますと、

1)来年度から一般教養科目(いわゆるパンキョー)の制度を大きく変えるという計画が浮上。
2)それに合わせて、一般教養科目担う「国際高等教育院」なる組織を設立する計画が浮上。
3)ところがこの「国際高等教育院」計画に対して教員・学生から異論が続出。
4)教員・学生有志による反対の署名活動集めや抗議書の提出監査請求の要請が行われる。
5)総長サイドは当初の計画案で強行突破を図る。 ←今ここ

という感じです。

特にこの計画に反発しているのは、これまで一般教養科目を主に担ってきた総合人間学部および人間・環境学研究科(総合人間学部の大学院に当たる組織)の教員や学生たちです。ちなみに人間・環境学研究科棟の入り口は現在こんな風になっています。(笑)

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夜間ライトアップまで。(笑)
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こちらは先生方による反対決起集会の様子。
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動画もあります。お二人の先生方が話されていますが、どちらもなかなか心に染みます。

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こちらは人環・総人の教員による説明会の様子。詳しい経緯を知りたい方はどうぞ。

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また人環教員有志による反対表明サイト学生有志による反対活動wikiなども立ち上がっています。とくに人環教員有志による反対サイトにはこれまでの経緯も詳しく書いてありますし、随時情報が更新されていますので、関心ある方はチェックなさってみてください。コメント書き込みも可能になっていて、それぞれのコメントにきちんと返答してくださる印象を持っています。web反対署名もできます。ちなみに11月末時点で集まった反対署名は1255件だったそうです。人環で学ぶ留学生からも抗議書が提出されています。

その他ネット上のまとめなど。
京都大の「国際高等教育院」構想に対する反応 – Togetter
京大【総人・人環】「国際高等教育院」構想反対決起会(11/12)
京大総長の「国際高等教育院」構想が、骨抜き過ぎて笑える件
「国際高等教育院(仮称)の設置について」というメールについて

2.これまでの経緯とか

ではどうしてこうした反対運動が(一部で)盛り上がっているのでしょうか。
まず、そもそもどのような教養教育改革がなされようとしているのか、を大学の公式資料を参照しながら確認してみます。

こちらの資料を見ると、「グローバルな知識基盤型社会において、我が国の学士課程教育が、未来の社会を支える優れた人材を育成するという公共的使命を果たし、社会からの信頼に応えていくために…改革を推し進めなければならない」という文言から始って、近年の京都大学では「研究活動や専門教育を重視する一方、教養・共通教育を軽んじる傾向も否めない」ために、抜本的な教養教育制度改革が必要だ、という結論になっています。具体的な改革内容としては、a.開講科目の精選と体系化、b.各学部による履修モデルの提示、c.初年次への専門基礎科目配当の見直し、d.ポケゼミの正規授業化、e.英語授業の強化、などが挙げられています。

さらにこちらの資料では、「各学部のニーズに合った共通・教養教育にかかる科目提供の在り方やその実施を、10 学部と全学共通教育実施責任部局および協力部局が対等に議論することが、本学の共通・教養教育の改善に向けた全うな道筋であろう」としたうえで、「全学共通教育の負担問題を、本学基本理念に部局自治の尊重と並んで謳われる「全学的な調和」的運営によって解決することが求められるが、そのような調和的な合意が不可能な場合には、旧教養部から総合人間学部への移行の際の議論に立ち返って、教員定員の配置の在り方から再度の抜本的な議論を行なうことも必要となるであろう」として、教養科目の学部ごとの負担割合をどうするか、という点に話が進みます。

ここから「本学の全学共通教育の一層の適正化を図るため」現行の組織体制を抜本的に見直し、「各研究科等の協力を得て、全学共通教育の企画、調整及び実施等を一元的に所掌する全学責任組織「国際高等教育院(仮称)」を設置する。」という組織案が浮上してきます。この組織では「全学共通教育をはじめとした国際高等教育院(仮称)の業務を主務とする専任教員を配置する」とされ、その「教員原資」に関しては人間・環境学研究科から90~135ポスト、理学研究科から27ポストなどを当てる、という人事異動の話が出てきます。

これに対して、人環の先生方から反対表明が出されています。この計画があまりに性急に進められていること、松本紘総長から教員・学生にたいしてほとんど何の説明もなく、一方的に総長のトップダウンで計画が構想されていること、どのような理念のもとに教養教育改革がなされるのかが不明瞭であること、計画されている人事異動案が到底了承できるものではないこと、などがその主な理由です。

大きくまとめると反対の理由は以下の三つに分けられそうです。
1)京都大学の教養教育が損なわれてしまうのではないかという危惧。
2)松本総長によるあまりに性急な計画の進め方への反発。
3)人環・総人が実質的に解体されてしまうのではないかという危惧。

こんな感じで、現在、京都大学では「国際高等教育院」計画をめぐって、これを来年度から実施しようとする総長サイドと、これに反発する教員・学生有志サイドで対立が起こっており、ちょっとした「例外状態」が出現しております。

ちなみに僕も人環に属する大学院生のひとりなので、ささやかながら反対署名をしたり、いろいろ情報を収集・整理などしているのですが、根があまり真面目な性格ではないもので、個人的には今回の騒動をある種の「非日常的体験」として楽しんでしまっているところがあります。僕は京都大学に在籍して通算でもう10年以上になりますが、こんな状況は初めてですから。こんなことを書くと、真面目に反対活動をしている先生や学生の皆さん、あるいは真剣にこの計画でもって「教養改革」をしようとしているお偉い先生方に怒られてしまいそうですが。もう少し真面目に書くと、僕は今回の騒動が、京都大学のこれからのあり方や、教養教育の意義、総人・人環という組織の立ち位置、大学自治の行く末、などについて先生と学生が一緒になって考え直す良い機会なのではないかと考えています。

今回の計画に賛成するか反対するかはともかくとして(僕個人は反対の立場ですが)、この計画について双方の議論を詰めていくならば、最終的には「大学の役割とは何か」「教養の意義とは何か」といった大きな話に行き着くはずで す。実際に、先日開かれた教員と学生の対話集会でもそのような議論が、教員と学生・OBの間で闘わされていました(先生方の認識は甘いのではないか、教養 とは何か?という本質的な議論・定義を避けて、今回の計画に本当の意味で反対など出来るのか、など)。この問いを突き詰めていくと、これまでの人環や総人 は本当に理想的な教養教育を行なってきたのか、そもそも人環の先生方はあるべき教養教育のあり方をどのように考えているのか、というツッコミがブーメランのように人環・総人の側に返ってくるはずです。この点については、教養部廃止から人環・総人の設立に至る経緯、人環・総人の理念と現実の差なども含めていろいろ言いたいことがあるのですが、長くなりそうなのでここでは割愛します。

3.背景にあるもの

そもそも今回の問題は、近年、「学生の基礎教養の低下が課題となっている」「教養・共通教育を軽んじる傾向がある」「学生を採用する企業側から学生の基礎教養の底上げを求める声が高まっている」「グローバルに活躍できる人材を育てることが求められている」という松本総長(大学当局)の認識から起こったものです。

またその背景には、日本の高等教育全体を取り巻く「改革圧力」があります(京都大学新聞)。今年6月に文科省が発表した「大学改革実行プラン」 によれば、「生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成、我が国や地球規模の課題を解決する大学・研究拠点の形成、 地域課題の解決の中核となる大学の形成など、社会を変革するエンジンとしての大学の役割が国民に実感できること」を目指した大学改革を行うとされていま す。その具体的内容としては、「大学入試の改革」「産業構造の変化や新たな学修ニーズに対応した社会人の学び直しの推進」「グローバル化に対応した人材育成」などが挙げられています。

つまり、グローバル社会や経済界か らの要請にあわせて大学制度・教養教育の中身を「改革」していこうという大きな流れがあり、その流れのもとに松本総長が今回の「教養教育制度の改編」およ び「国際高等教育院計画」を構想したということのようです。今回の計画の進め方が性急にすぎる、教員・学生への説明がない、人員異動のやり方に問題があ る、といった点にももちろん問題はあるのですが、問題の本質は文科省・経済界・大学当局がスクラムを組んで進めようとしている上記のような「大学改革」の流れが本当に正しいものなのか、われわれは「大学の教養教育」に何を望むのか、という点にあるのではないかと思います。

「自由な校風」 によって知られ、「1人の天才と99人の馬鹿を生み出す」と言われてきた京都大学の教育のあり方を今後どのようなものにしていくべきなのか。そもそも「大 学」や「教養」の意義をどのようにとらえていくのか。今回の騒動が、大学人にとって根本的なこういった問題について、改めて考えなおす機会になればと思い ます。

「マジカル・プランツ」から考える――「備え」としての学びへ

みなさんは「マジカル・プランツ」という言葉をご存知でしょうか。この聞きなれない言葉は、「食虫植物」、「多肉植物」、「ティランジア」といったユニークな観葉植物の総称です。食虫植物愛好家兼ライターである星野映里さんの『大好き、食虫植物。―育て方・楽しみ方』が火付け役となって、とくに若い女性の間でトレンドになってきているそうです。今年、新たに『マジカルプランツ―食虫植物・多肉植物・ティランジアをおしゃれに楽しむ』(こちらは木谷美咲名義) が出版され、さらに話題を呼んでいます。

食虫植物といえば、「ハエトリソウ」や「ウツボカズラ」、「モウセンゴケ」などがポピュラーな植物ですが、これまでは高価で入手が難しかったり、栽培方法が十分に確立されていなかったりして、一般には手を出しにくい状況がありました。しかし、最近では、ホームセンターでも取り扱っているケースも増えてきているみたいです。今回は、この「マジカル・プランツ」から、学びへのヒントを引き出してみようと思います。

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Kunstformen der Natur“, Nepenthes

まず、食虫植物とは文字通り「虫を食べる植物」のことです。このように言うとグロテスクなイメージがありますが、よく観察してみると、その独特で精妙な生態に驚かされます。エコロジー思想のルーツであるエルンスト・ヘッケル(生態学,Ökologieyという言葉を造語)の『自然の芸術学的形態』,Kunstformen der Natur の中には、ウツボカズラの図が収録されていますが、外形だけではなく、その生態的メカニズムも驚異的なものがあります。また、もしかしたらそれが、虫たちだけではなく、人をも惹き寄せる魅力なのかもしれません。

『食虫植物の世界』(田辺直樹,以下の食虫植物についての記述の多くは本書に依っています)によれば、食虫植物=マジカル・プランツが他の一般の植物と異なっている点は、第一に、虫を捕まえる器官を備えていることです。そして、もう一つは、捕らえた虫から養分を吸収する仕組みを持っていることです。分布地域は世界中で、主に温帯地域に自生する。たとえば、ウツボカズラはマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピン、ラオスなどの東南アジアからマダガスカルまで100種類以上が確認されています。大きさは様々で、大型のものではネズミを捕食した例もあります。

さらに、その捕虫器(ピッチャー)は巧妙な仕組みを備えています。ウツボカズラの場合、葉の先が袋状になっていて、中に液体が溜まっています。そして、入り口や蓋の部分からは蜜を分泌して虫を誘引します。そこに誘き出されて穴に落ちて溺れ死んだ虫から、養分を吸収して栄養を得ます。袋の内壁は、虫が這い上がれないように滑りやすい構造になってて、さらにロウ質が分泌されています。袋の中の液体は、根や茎を通じて常に一定量になるように調節されています。

ハエトリソウについても見ておきましょう。こちらは、口のように開いた葉が捕虫器で、この内側から虫を誘き寄せる蜜が分泌されています。葉の内側にはそれぞれ感覚毛が上下3本ずつあり、それに虫が2回触れると、素早く閉じて虫を捕らえるようになっています。なぜ2回かというと、虫が十分に捕虫器に進入してから捉えるためです。0.5秒ほどで葉は閉じられます。ちなみに、ハエトリソウは初夏に白い花を咲かせます。

以上、食虫植物の生態について詳しく見てきましたが、これらは、われわれに対してどのような学びのヒントを与えてくれるのでしょうか。ところで、ここで興味深いことは、じつは食虫植物にとって「捕食はオマケのようなものである」という事実です。どういうことか、説明しましょう。食虫植物の生息地は、熱帯のジャングルの中のように日当たりの悪い場所だったり、土壌から十分な栄養を吸収しにくい環境だったりします。そこで足りない分の栄養を食虫によって補うのですが、じつはほんの僅かでよく、虫を食べ過ぎると逆に栄養過剰で弱ってしまい、ひどい場合には枯れてしまいます。また、とくにハエトリソウの場合には、仕掛けを動かすのに大きなエネルギーを消費するため、何度も開閉させるとそれだけでも枯れてしまう原因になるのです。

つまり、食虫植物は、あれだけの周到で大掛かりな仕掛けを準備していながら、しかし、実際には、ほんの少しの栄養を補う程度の役目しか与えられていないのです。むしろ、そうでなければ自分自身の生存さえ危うくしてしまいかねません。ここには、目的のための過剰とも思えるような備えと、その結果として得られる成果との間の、奇妙とも思えるようなアンバランスさがあります。

さて、このマジカル・プランツのもつアンバランスさに、「学び」というものの性格との類似点を見出すことはできないでしょうか。といっても、ここで「学び」とはどのようなものかを明らかにしなければ抽象的な話に終始してしまいます。ここでは、物ごとをより深く考えるということと結びつけて見たいと思います。周知のように、西洋の知的伝統には「リベラル・アーツ」という考え方があります。リベラル・アーツとは、文学・論理学、修辞学の三科、それに算術、幾何学、天文学、音楽の四科からなる学問分野の体系のことです。そして、これらを修得することが教養、すなわち、普遍的な学知を探究することによって、人間として自由になるということだと考えられていました。

それは、すでにある問題をいかに早く解決できるかといったようなタイプの学びとは、あるいは、いわゆる学問における効率性や有用性とは別の方向性を示していると思われます。むしろ、必ずしも最終的な答えは出せないかもしれないけれども、考えるべき重要な問いがある、ということを含意しているのではないでしょうか。もちろん、実際に直面する問いというのは、おそらく局所的で小さなものに過ぎません。が、しかし、そうした小さな問いを解くためにこそ、非常に広範でかつ深い教養を要請するのが、リベラル・アーツの基礎にある考え方ではないでしょうか。

それでは議論をまとめましょう。ポイントは、ある種の学びや教養は、食虫植物のアンバランスな生態との類推として捉えられるのではないかということでした。いずれも、ほんの僅かな結果のために、莫大な備えを必要としています。一方は、虫を、そして他方は学びという獲物を待つために。もしも両者に「マジカルな」魅力があるとするなら、それは、じつはそうした「備え」の方にあるのかもしれません。

大窪善人

 

[批評]映画『トータル・リコール』から考える――あなたが感じる現実は本当に「現実」か

大窪善人です。

百木氏から、大窪も何か投稿してはどうかとリクエストをいただいたので、文章を寄せます。

今回は、8月10日より放映されている映画『トータル・リコール』についてお話ししようと思います。すでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、まだ見ていない方はネタバレにご注意を。

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原作は、SF作家、フィリップ・K・ディック、「追憶売ります」(1966年)で、1990年に映画化され大ヒットした。今作は、そのリメイクバージョンで、監督は『ダイ・ハード4.0』を撮ったレン・ワイズマンである。もちろん、全編に渡って展開するキレのあるアクションも大きな見どころの一つだが、ここでは作品のコンセプトに注目して、思考を走らせてみたい。

リメイクによる大きな違いはまず舞台設定にある。前作は火星を中心にした物語だったが、今作では地球が舞台だ。だが、その舞台装置がちょっとおもしろい。近未来の地球は化学戦争によって、ほとんどの地域は人類が住めない場所になってしまっていた。やがて世界は再編され、ブリテン連邦/UFBと地球の反対側のオーストラリア大陸のコロニーと呼ばれる場所に二分される。コロニーの市民はUFBのための労働力として、「フォール」とよばれる巨大地底エレベータを使って二つの場所を行き来する。そして、コロニーでは自由と独立を求めてレジスタンス活動が行われている。これに対して、UFBはロボット警官(シンセティック)の配備を進めていく。

主人公のダグことダグラス・クエイド(コリン・ファレル)はコロニーの住人であり、退屈な毎日を過ごす労働者である(彼の職場はシンセティック製造工場である!)。だが、一方で、愛する妻(ローリー/ケイト・ベッキンセール)とともに、それなりの生活を送ってもいる。しかし、彼は繰り返し見る悪夢に悩まされている。そんなある日、クエイドはリコール社を訪れる。そこに行けば、自分のなりたい自分になれる夢を見ることができると聞いたからだ。そこで彼はUBFに立ち向かうレジスタンスという記憶を購入する。だが、記憶を注入しようとしたまさにそのとき、完全武装したUFBの警官隊が彼を包囲してしまう。

今作の基本設定は前作、あるいは原作とも異なるオリジナルのアイデアである。UFBとコロニーという隔絶した二つの地域が現代の格差社会の暗喩であることはほとんど明らかだろう。ここには現在のアメリカ社会の状況の反映が刻印されているとみることができるかもしれない。UFBとコロニーとを隔てる圧倒的な空間的距離は、二つの地域に住む市民同士の、ほとんど流動化不可能な階層的落差の象徴であるように思われた。さらに、そうした各自のポジションは能力ではなく、むしろ変更不可能な属性(UFB/コロニー市民)において定められているのである。

ところで、ハリウッド映画の成功にはある法則があるという。それはアメリカ人の夢、アメリカン・ドリームを描いた作品であることだ。ここでいうアメリカ人の夢とは、1.社会のはしごを上ること、2.平等な機会が与えられていること、3.新天地で成功すること、4.そうした結果として自分の家をもち幸せな家庭を築くことである(『ハリウッドはなぜ強いか』、赤木昭夫、筑摩書房、2003年より)。ハリウッド映画はアメリカン・ドリームを描き、売ることに力を入れてきた(同掲)。一方、この映画は、さしあたっては、そうしたアメリカ人の理想が現実化されることに対する圧倒的な困難を基礎においている、ということができる。

しかしながら、この映画において、ここで問題にしたい点は次のようなことだ。それは、「なぜ人は、現実を、現実それ自体のみによって肯定することができないのか」といういささか観念めいた問いについてである。以下ではこの問題に立ち入ってみたい。

クエイドは退屈な毎日を過ごす労働者である。彼はある日、自分がレジスタンスであるという夢を買う。しかし、彼が現実だと思っていた記憶は埋め込まれた偽の記憶であり、レジスタンスである記憶の方が本当の記憶だということが、しだいに明かされる。彼は、もとはUFBの幹部であったが、反逆し、レジスタンスに寝返っていたのである。しかし、その後、捕らえられ、偽の記憶を植えつけ生活させられていた。時折見る悪夢は、抑圧された過去の記憶がフラッシュバックしたものだったのだ。

ここで重要な役割を果たしているのは「夢」である。映画の中では、クエイドが見るレジスタンスであるという夢が、真実を媒介する糸口になっているのだ。しかし、どうして「夢」がそのような作用を果たすことができるのだろうか。この問いに答えるためには、いささか遠回りに見えるかもしれないが、ニーチェの夢についての考察が糸口になろう。通常、われわれは現実と夢とを比較した場合、前者の方により重要性があると考えている。たしかに「夢想」や「夢見がち」といった言葉はむしろ否定的なニュアンスを含んでいる。あるいは、より根本的にいえば、生きるということは、目覚めている状態の、この現実を生きることにほかならないといわれる。しかし、ニーチェはこの見方に対してまったく逆の考えを示しているのである。ニーチェは、仮像に対する(われわれの)熱烈なあこがれ、憧憬から、次のような命題を提示している。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快楽にみちた仮像を必要とするという仮説である。仮像のうちに完全にとらえられており、また仮像から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮像を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感じざるを得ない仕組みになっている。」(『悲劇の誕生』、岩波書店、1966年、50頁より)

ニーチェが言うように、仮に人間を根源的一者(=神)の被造物として捉えるとするならば、人間は神にとっての仮像ということになるだろう。あくまでも実在は神の方にあるからだ。しかし、人間の方から見れば、今度は逆に、神の方こそが幻影、あるいは仮像に感ぜられてくる。ここでは先の考えとは真逆の転倒がある。この考察を再度、夢と現実との関係として構成しなおすならば、「現実」につ
いての認識は同時に、「夢」に依存してもいるということである。そして、「夢」は仮像としての「現実」の仮像という限りで、いわば、「仮像の仮像」(同掲)なのだ。このような前提をおいて考えると、このようにいうことができる。つまり、「夢」が、「真実」、あるいは「現実」を媒介する糸口になっているのは、「夢」が「現実」のもう一つの側面をあらわしているからだと。

最後にクエイドと彼の同士であるメリーナ(ジェシカ・ビール)の二人がキスを交わす(正確には交わそうとする直前の)シーンで映画は終わる。しかし、その直前に、カメラは一瞬、リコール社の広告看板を映し出す。観客としての私は、ここで再びあの疑念へと引き戻されることになる。つまり、本当はレジスタンスであるというこの現実もまた夢なのではないのか、という。

「たとえどんなに説得力があったとしても、所詮、幻想は幻想でしかない。すくなくとも、客観的には。しかし、主観的には――まったく正反対だ。」(『トータル・リコール』、大森望編、ハヤカワ文庫、13頁)

大窪善人

タマキサユリ問題

百木です。先日、久しぶりに大学の後輩の玉置沙由里さんとスカイプで話をしました。ご存知の方も多いかと思いますが、玉置沙由里さんはいわゆるノマドブロガーとして有名な方で、ブログ「女。MGの日記」MG(X)プロジェクトなどを主宰し、ノマドとして新しい生き方を実践しておられます。僕は彼女が京都大学の総合人間学部にいた頃からの知り合いで今でも仲良くさせてもらっており、彼女には一昨年の11月祭で京都アカデメイアが主催した公開討論<大学と学問のこれから>にもパネリストの一人として参加してもらいました。

スカイプで議論した内容は「ノマドという生き方は誰にでも実践できるものなのか?」ということでした。これは以前から僕が気になっていたテーマだったので、最近のノマドブームに一役買い、自らがノマド的な生き方を実践してきた玉置さんがその点についてどう考えているのかを聞いてみたかったのです。すると彼女自身、この点についていろいろ思うところがあったらしく、なかなか話は盛り上がりました。そこで議論した内容と、その議論から僕なりに考えたことを簡単にまとめておきます。

そもそも「ノマド」という用語に馴染みのない人もいるかもしれません。ノマドとはもともと遊牧民を意味する英単語ですが、最近では「いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに働くスタイル」が「ノマドワーキング」として知られるようになりました。その背景にはソーシャルメディアやクラウドなどのネットサービスの発達があります。最近では、ノマドワーカーの一人として人気のある安藤美冬さんが情熱大陸に取り上げられたり、日経新聞で連載特集記事が組まれるなど、ネット界隈やビジネス界を中心にしてその認知度が高まっています。

玉置沙由里さんは自身のブログで「露出社会」「創職時代」「パトロン制度」「合脳主義」「第八大陸」「没落エリート」など、様々にキャッチーな造語を作りながら、プロブロガーとしての生き方を実践してこられました。ノマドについては2年前の2010年時点で「都市ノマド」という概念を提唱し、こんなブログ記事を書いています。もともとはITジャーナリストの佐々木俊尚さんが2009年に『仕事するのにオフィスはいらない』という本の中で「ノマドワーキング」を提唱したのがきっかけだったと思います。

しかし、佐々木俊尚さんと80年代生まれの若者4人が対談したこの記事でも、佐々木さんが冒頭で述べておられますが、ノマドとは本当に誰でも実践できる生き方なのか?ノマドはノマドで結構厳しい生き方なのではないか?という疑問や批判も最近ではなされるようになってきているようです。数ヶ月前に、浅野さんが岡田斗司夫さんの講演会内容をまとめたブログ記事で彼の提唱する「3万円ビジネス」や「評価経済社会」について書いておられましたが、その記事を読んだ僕の正直な感想は「うーん、それって会社勤めよりも大変な生き方なのでは??」でした。(同じ疑問は「就活」をテーマに議論した第2回アカデメイアカフェでも出ていました)

例えば岡田さんは「就職のオワコン化」にたいして「3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をする」という3万円ビジネス的生き方を提案しておられるわけですが、はっきり言って3万円ぶんのビジネスを50個やるって相当なブラック企業並みの働きっぷりになるのではないでしょうか。浅野さんも自分自身それに近い生計の立て方をしていると言いつつ「50個というのは体力的にも時間的にも無理」と書いておられます。僕も同じ意見です。もちろん岡田さんが言いたいのは、すべての人に50個分の仕事をしろということではなく、それぞれの能力や希望所得に応じてできる範囲のことをやればいよい、ということなのでしょう。ただしそのことを考慮したとしても、やはり3万円ビジネスや評価経済社会的なワークスタイルで生計をずっと維持していける人はさほど多くないのが現状であると思います。(岡田さんが提案する50個の半分=25個の仕事→月収20万円を毎月継続的にこなしていくだけでも結構大変なのでは)

では、「ノマド的生き方がすべての人間に実践できるわけではない」とすると、それを実践できる人と実践できない人を分ける境界線は何でしょうか。ひとまず思いつくままに列挙すると、「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」といった能力・性格ではないでしょうか。

例えば玉置さんのユニークな造語のひとつに「露出社会」がありますが、ソーシャルメディアやスマートフォンを活用してノマド的生き方を実践していくためには、かなりの程度まで自分がどういった人間であり、普段何を考えている人間であるのかという個人情報をネット上に晒していくことが必要になります(ほとんど素性が知れないような人間にたいしては、ネット上でも仕事や寝る場所を提供しようという人は現れないでしょうから)。このような「露出耐久力」がある人にとっては、それはむしろ楽しいことなのかもしれませんが、そういった「露出」に抵抗を感じる人も多いはずです。「ダダ漏れ女子」で有名になったそらのさんがある日の放送をきっかけに叩かれまくった例などを見れば、露出への恐怖を感じる人も多いのではないでしょうか。

また「これからの時代は企業や組織に属さなくても、ソーシャルメディアなどの繋がりから仕事や居場所をGetできる!」という場合にも、見知らぬ人と積極的にネット上でやり取りをしたり、積極的に人脈を広げたり、人に会いに行ったりする社交性やフットワークの軽さが必要になります。企業や組織に属していれば、自由度は制限されるけれども、安定した人間関係のなかで仕事ができる(さほど社交能力がなくても仕事ができる)というメリットがあります。このあたりは人によってどちらを働きよいと感じるかが分かれるところでしょう。流動的な環境が好きか、固定化された環境が好きか、という違いかもしれません。

こういった「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」などの能力・性格を持っている人にとっては「ノマドワーキング」や「ノマド的生き方」は新しい可能性を切り開く希望に満ちた働き方・生き方かもしれませんが、そのような能力・性格を持たない人にとってはそれは今以上にしんどい・辛い働き方・生き方になるかもしれません。つまりは、「ノマドはごく一部の能力や性格をもつ特殊な人たちにしか実践できない生き方である」にもかかわらず、「これからの時代はノマド的な生き方が新しい!そうしないと生き残っていけないよ!」という規範意識(言説)が形成されてしまう現状があるのではないでしょうか。仮にこれを「タマキサユリ問題」と名づけておきます(笑)

僕はべつにノマド的-評価経済的な生き方を批判したいわけではありません。閉塞感ばかりが高まる昨今の日本社会において、そういった新しい自由な生き方が可能になったこと自体は良いことだと思いますし、そうした新しい生き方を実践する人たちがたくさん出てくることで、日本社会を良い・面白い方向に変えていってくれるのであればそれは歓迎すべきことだと考えています。ただし、僕が警戒的なのは「いまや会社や組織に依存した生き方はもう古い。そんなやり方ではもう生き残っていけない。これからはノマドの時代で、みんなノマド的な生き方・働き方を実践していくべきだ」という言説に対してです。あえて戦略的にやっておられるのかもしれませんが、例えばネットジャーナリストの佐々木俊尚さんや梅田望夫さんなどの発言からは、端々にそういった「べき論」を感じ取ってしまいます。最近はややスタンスを変えているようですが、少し前までの玉置さんの発言からも僕はそのような主張を読み取っていました。

そこで先日のスカイプではそのあたりの疑問をいろいろ玉置さんにぶつけて訊いていたのですが、予想以上に話が盛り上がったので、これは京都アカデメイア×玉置沙由里でust中継でラジオをしようよ!という話になりました。先日の記事でも書いたとおりですが、6月2日(土)の20時~ust中継をすることになりましたので、関心ある方はぜひご視聴ください。当日のコメント参加や事前の質問受付なども募集しております。よろしくお願いします。

<京都アカデメイア×玉置沙由里 ustream中継>
テーマ:ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く
日時:6月2日(土)20時~

URL:http://www.ustream.tv/channel/kyoaca
参考:玉置さんのブログtwitterfaceboook現代ビジネスでの連載プロフィール

大学は出たけれど

はじめまして。(ふ)です。
震災読書会で『「フクシマ」論』(開沼博)を読もうと企画したものです。
今回から僕もここに文章を書かせてもらう予定です。

僕は近畿大学文芸学部で日本文学を学んでいました。もともと近大付属高校の出身で高校時代によく高野文子などの漫画を読んでいて、大学に入ったら「文学を読むぞ!」と意気込んで文芸学部を選択したのでした。

それはまさに幸運な出会いでした。近畿大学文芸学部という場所はとても恵まれた教授陣、授業が盛りだくさんでまさか偶然入った学部でこのような体験ができるとは!と喜んでいました。

柄谷さんをよく知る先生から、昔は浅田さんが京大の学生を連れてきて近大生と京大生でよく議論をしたものだったと聞いたことがあります。それを聞いて僕はそんなことをぜひしてみたいなぁと思ったのですが“京大”と言う名前に怯えるばかりで(笑)実際に自分からそれを試してみようと動くことはありませんでした。

そして僕は大学をでた。普通に社会人となって一年目はミスばかりで怒られてばかりで辛い日々をおくっていた。しかしそれよりなにより、生きていてはりあいがない。
大学時代は読んだ本の感想を議論したり、小説家の講演会に行ったり、劇をみたりで毎日が刺激に溢れていた。いまは本の感想をだれかと話すにもそういった機会をなかなかもてない。どこかの読書会に参加させてもらいたいなぁとため息がでる毎日をおくっていたら、ネットで京都アカデメイアの存在を知りました。

どきどきする中、メールを送ると早速(も)さんと(む)さんからお返事がありとても嬉しくおもったのを記憶しています。

大西巨人は『神聖喜劇』のなかで(みつけられなかった)……
「学士様ならお嫁にやろうか」と呼ばれた時代から、「大学を出たけれど」(小津安二郎)という社会になりつつある(大意)
と書いていたとおもう。『神聖喜劇』の世界は、まだまだそれでも「大学出」は珍しくて軍隊独特の空気感に従わない主人公東堂などを指して「大学出はこれだから困る」ばりによく馬鹿にする言葉として使われていた。

「大学は出たけれど」この言葉は僕のなかでとても響きました。
いまだに大学時代に学んだ学問に興味があるが、1人ではモチベーションを維持して行くのが難しい。誰かとの議論の中に何かを発見することもある。どこかで「大学」と繋がっていたいという気持ちが依然として残っていました。

京アカの門を叩いてみて、本当によかったとおもっています。
まだまだしゃべったことない方もいるので、そのうちにぜひお話ができれば幸いです。
僕みたいな奴はきっとまだ沢山いるとおもうので、ぜひ京アカに連絡を。。。

唐突ですが、仙台の学生たちが中心になって行っている復興支援UST番組「IF I AM」がおもしろいです。京アカのUST放送の参考にもなるかもしれませんので、ぜひチェックを!個人的にはやっぱりしゃべっているひとにカメラが向けられた方が臨場感が出るのではないかとおもっています。

http://flat.kahoku.co.jp/u/volunteer16/Up2gJjldCKxbWnAu3vHP

最後に京都アカデメイアのイベントに興味はあるが遠方の方もいるとおもいます。
いつかSKYPEなどを使って座談会や読書会ができれば制約を突破できるのではないでしょか。雑談にも使えるとおもいます。もちろん新たな制約が出てきてしまうかもしれませんが。そんなわけで筆をおきます。これからもよろしくお願いします。

(ふ)

鬼と踊れ!蕎麦を食え!ぷにょ玉をすくえ!せつぶん! の巻

ヘヘイ(む)です。
ここのとこ(あ)氏の力作が続き、他スタッフがブログ書くのに気後れしている、との説を聞いたので、ハードルを下げるべくログインしました。

さてさて厳寒の日々が続く京都。
チャリに跨って市内を走行すると、冬の粒子のよーなものがぴしぴしと顔面に突き刺さり曲がり角を過ぎた皮膚を更に皹割るのでありますが、その京都の冬もモウ終わりだ! 節分が過ぎれば春なのや。
そして節分といえば、吉田神社節分祭。
吉田神社節分祭期間は、一年で最も京大(の周辺)が荒ぶる季節なのである。
東一条通りから吉田参道へずらーっと夜店が並んで、人がいっぱい出て、火が焚かれて、鬼がでるのだよ!
子どものころは鬼がこわくて泣いたもんだよ。

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節分祭に並ぶ屋台は毎年トレンドがあるようで、今年はご当地B級グルメブームを反映してか、「シロコロ」が大人気やった。シロコロばっかり10軒くらい見た気がする。去年現れた衝撃の「ラーメンバーガー」は消えていた…。代わりに「神戸生まれ チャイナバーガー」が登場しておりました。

あと今年突然流行り始めていたのが「ぷにょだますくい」。なんやそれ。

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文字通り、ぷにょぷにょした玉をすくうもののようでした。時代はつねに新たなものを生み出してよる。
ぷにょぷにょした玉をすくいたかったけど、3時間後くらいにはもうぷにょぷにょしたものを持て余し後悔するのであろうことが目に見えたのでやめた。
代わりに不健康そーなチョコバナナを買うた。

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さてさて参道を登ってゆくと、本殿のあたりはえらい数の人が、福豆を売る福娘の前に列を成し、豆を求めています。この豆、抽選券つきなんやけど、毎年当たったためしがない。

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境内のまんなかにはお焚き上げられ予定のお札の山。

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拝所には拝みたい人々がぎうぎう詰めで、賽銭を投げても賽銭箱に入ったのかあらぬ方向へ飛んでいったのか確認できぬほど。一応わたくしも賽銭(1円)を投げ、もちろん京アカの発展を祈……るのは忘れてた。

さて本殿まで登ってきたがここからが本番で、更に登ると菓祖神社がありまして、お菓子の神様を祀る素敵なこの神社では、素敵なことに豆茶とお菓子が振舞われております。更にその上が、斎場所大元宮。なんと八百万の神々が此処に集っているという、「ここに祈っといたら他の神社いらんやん!」的な反則神社。なのだが、なんと今年は大元宮の前に長蛇の列ができていて境内に入れないという有様! 毎年節分祭に通ってますがこんなのは初めてだ。やはり暗い世相の昨今、皆神頼みしかないのかなあ…と思うがいや単に金曜の夜だからであろう。不埒なわれわれはといえば、列に並ばず「遥拝」で済ませたのであった。

で、ここで折り返して下山するわけですが、われわれの本当の本番はこの下山であって、下山がてら、参道で売られている吉田日本酒を飲むのが定番なのであります。わたしは下戸なのだが、ここで売られている日本酒は下戸でもスイスイ飲めるほどおいしい。なんや澄んだお味がするのです。おかげで悲劇が起ったこともあります。(悲劇とは具体的には嘔吐のこと。) 山の寒さにぷるぷる震えながらも、日本酒を飲み米沢牛(と書かれて売られているがほんまは何牛か知らない)を食べ、河道屋の年越しそばを食べる。そう、旧暦の年越しやからね。だから今日から新春ぢゃよ!!
皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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これがその蕎麦。

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……というようなことをしていたため、この後に予定されていた京アカスタッフ会議に大幅遅刻した。というか、今日は会議のことを書く予定だったのですが、ここまでで力尽きたので、誰かよろしくです。
ほな!皆さんお達者で!!

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ちなみに一夜明けて本日の吉田神社。嗚呼祭りの後。

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橋下徹×山口二郎討論(報道ステーションSUNDAY)を学問的に検討してみる

浅野です。

報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。

「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。

この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。

さて本題に入りましょう。

心理学的な検討

中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。

この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。

この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。

政治学的な検討

橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。

テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。

ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。

教育学的な検討

教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。

哲学・倫理学的な検討

先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。

「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。

この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。

この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。

自分の頭で考えた検討

率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。

教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。

あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。

そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。

さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。

勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。

『魔法少女まどか☆マギカ』批評

浅野です。

遅ればせながら『魔法少女まどか☆マギカ』(略して『まどマギ』)を見ました。何人もの人からすすめられていたので見ておかないとという義務感から始めたのですが、途中から引き込まれて一気に最後までいきました。

京都アカデメイアのブログなので『魔法少女まどか☆マギカ』を学問的に批評します。学問的といってもむやみに難しくはしないので安心して読み進めてください。

まず簡単に『まどマギ』のストーリーをご紹介します。ネタバレがあるのでご注意ください。

舞台は現代の日本で、主人公の鹿目まどか(かなめまどか)たちは平凡な中学生活を送っていました。そのような中、まどかは友人の美樹さやか(みきさやか)とともに魔法少女の魔女に対する戦いに巻き込まれてしまいます。同じ中学校で一年先輩の巴マミ(ともえマミ)らが、キュゥべえと呼ばれる生物と契約して願いを叶えたことと引き替えに命の危険を冒して魔女と戦っていたのです。

まどかとさやかは魔法少女になるか悩みながらマミの戦いを見学しますが、ある時マミは魔女との戦いに敗れて殺されてしまいます。それにもかかわらず、さやかは幼なじみでひそかに好意を寄せていた天才バイオリニスト上条恭介(かみじょうきょうすけ)の指が再び動くようにという願いを叶えて魔法少女になります。

魔法少女には戦いで殺される他にも、呪いを吸収しすぎて自らが魔女になってしまうという危険があります。さやかは自分ひとりであらゆる犠牲を引き受けようとして呪いを溜め込みすぎ、魔女になってしまいました。ライバルの魔法少女であった佐倉杏子(さくらきょうこ)の必死の試みもむなしく、最終的には杏子がかつてはさやかだった魔女もろとも自爆することになりました。

もう一人魔法少女が登場します。暁美ほむら(あけみほむら)です。転校生としてまどかたちの中学にやって来るのですが、謎の行動を取り続けます。特にまどかに対しては魔法少女にならないようにと何度も言い、魔法少女になる契約を取り結ぶキュゥべえを敵視します。というのも実はほむらは別の時間軸で、まどかが魔法少女となり殺されようとするのを目の当たりにして、「まどかを助ける」という願いで契約して魔法少女となったのです。

こうして時間を操る能力を手に入れたほむらはまどかを救おうと過去に遡るのですが、何度遡ってもまどかは救われません。たとえ魔女との戦いに勝利しても、結局は溜め込んだ呪いで自らも魔女になる運命だからです。そしてその時に得られるエネルギーが、宇宙の他の場所からやって来たキュゥべえの目的だったのです。それでもほむらはあきらめずに行動し続けます。

これらを知ったまどかは魔法少女になる決意をします。「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を生まれる前に自分の手で消し去ること」という願いを叶えるためです。普通であればそのような因果律を変えるような願いを叶えることはできないのですが、ほむらの時間の繰り返しによって力が集まっていたまどかにはそれが可能でした。

こうして魔女という存在そのものがなくなったわけですが、まどかの存在そのものもなくなってしまいました。ただほむらの記憶の中でのみ残り、家族の人たちの中にかすかな痕跡が残っただけです。そして魔女がいなくなっても魔法少女たちは魔獣と戦っていました。

というところでストーリーが終わります。ここからは批評に入ります。

『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメが原作の作品なので、アニメという分野でどのように位置づけられるかを探ります。

伝統的に魔法少女はアニメの定番でした。もともとは小さい子どもがそれを見て憧れるといったものだったのでしょうが、1990年代以降くらいからは成人男性が「萌え」るものだという意味づけも目立ち始めました。「萌え」と関連の深いいわゆるギャルゲーで多用される、時間のループという要素もこの作品には含まれています。

アニメといえば主人公たちが仲間と共に戦って成長し、悪を倒すという勧善懲悪ものが一昔前までは定番でしたが、これも1990年代あたりを境にして傾向が変わり、最近では「けいおん!」に代表されるようなまったりとした日常を楽しむ作品が人気を得るようになってきました。あるいは世界の破滅を扱うにしても、極めて個人的な感情が中間的な社会を抜きにして一足飛びに世界全体と結びつくセカイ系と呼ばれる作品が主流になります。『まどマギ』もこの流れを汲んでいると言えるでしょう。

上で述べたようなアニメ作品の変質は社会の変質を反映しているのだと考えるのが自然です。1990年代と言えば冷戦構造が解体し、日本ではバブル経済が崩壊した時期です。それ以来、男性なら終身雇用で就職して西側陣営の一員として日本経済の発展に寄与する、女性ならそのような男性と結婚して子どもにさらに上を目指すような教育を施すといった物語の有効性が失われてきました。そうした状況下では将来の見通しを立てづらいので、ささやかな日常に楽しみを見出すという生き方が有力な選択肢になります。

しかし、そうしたささやかな日常が永遠に続くはずはありません。人間は誰しも年老いますし、いつかは死にます。さらに、日本の都市での生活などは、いくら見えにくくされていても地方や他の国での犠牲の上に成り立っているという側面を否定することはできません。食料やエネルギーを地方に頼っているわけであり、安い工業製品の背景には途上国と呼ばれるところでの低賃金労働があるのですから。もっと言うなら、動植物を含めた自然環境を犠牲にもしています。作中でキュゥべえが魔法少女は家畜と同じだと説明していました。そのシーンに典型的に示されているように、『まどマギ』は予定調和的な日常に疑問を呈している作品だと考えられます。

しかもその犠牲は契約によって自ら選んだものだとして正当化されます。確かにキュゥべえが主張するように、魔法少女は契約をすることによって犠牲を背負うのだから、家畜よりましだと言えはします。しかし魔法少女になるとはどういうことかという詳細な説明は契約の前になされませんし、自分や親しい人が死にかけていたりするような状況で契約をするというのはとても自由な選択とは思えません。

このロジックは現実社会でも同じように当てはまります。低賃金で働く人も契約によって働いているのだから問題はないではないかと正当化されます。しかし生産手段から切り離されて自らの労働力を売るよりほかに生きる道がない労働者にとっては事実上強いられた契約であるとマルクスは百年以上も前に喝破しています。

マルクスが考察の対象にしていた自由主義から、より現代的な新自由主義に移行してもこの構造は変わりません。むしろより巧妙になったとさえ言えます。現代の少なくとも日本では、生活保護に代表される生存権が一応は保障されているので、労働力を売らなくても文字通りに生きていけないということはあまりありません。それでも何らかのメカニズムによって各個人が企業のように主体的に契約を結んで生産活動を行うように駆り立てられています。それがどのようなメカニズムによってなされているかはフーコーを読めばわかるのかもしれません。

話が抽象的になってきたのでこの辺で具体例を出しましょう。さやかは魔女になってしまう直前に、電車の中で自分に好意を寄せるキャバ嬢をひどく扱う男性の会話を耳にします。魔法少女である自らをそのキャバ嬢に重ね合わせていると解釈できます。魔法少女もキャバ嬢も他人の負の部分を引き受ける仕事ですからね。昔はキャバクラで働くといったら生活のために仕方なくするといったイメージが強かったですが、最近では華やかで憧れの仕事といったイメージも増えてきました。先ほどの議論からすると、どちらにしてもまったくもって自由に契約をしてその仕事をしているのではないのですから、彼女たちに押し付けられる犠牲を当然のものとして正当化すべきではないというのが私の主張です。

魔法少女=キャバ嬢という図式からも窺えるように、ジェンダーでいうと女性に犠牲が押し付けられがちです。その点興味深いのがまどかの母、鹿目詢子(かなめじゅんこ)です。詢子はいわゆるキャリアウーマンであり、夫の鹿目知久(かなめともひさ)が主夫として家事全般を引き受けている様子です。詢子はまどかに対して過度に厳しくするでもなく甘やかすでもなく接します。まどかはまどかで「自分には何のとりえもない」と思っているところでは母と違っている一方で、芯の強いところなどはよく似ています。さっぱりとした家族関係が現代的であり、こうした設定も暗黙のうちに押し付けられる犠牲に敏感であろうとする『まどマギ』ならではだと思います。

これだけサービス産業化が進むとキャバ嬢に限らず非常に多くの人が他人の負の部分を引き受けつつ仕事をしているのですから、この話は他人事ではありません。それにもかかわらず、お互いに競争することによって結果として総体的にますます苦しい状況に追い込まれているのではないでしょうか。ちょうど魔法少女たちがお互いに争っていたのと同じように。本当は協力したほうが全体としてはよいはずなのに協力できないのです。このあたりの苦しみは〈企画〉アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ(2011.04.16)で詳細に描写されています。

個人個人が自己完結した存在であってはこの状況を変えることはできません。ゲーム理論で言うところの囚人のジレンマに陥っています。自己の利益を最大化するためには非協力を選択するほうが合理的なのですから。この状況を打ち破るためには個人の枠を超えた神のような存在が必要です。神のためなら自己利益の最大化という合理性を超えて協力を選択することができます。そして他の人たちも同じように神を信じて協力を選べば全体の利益が増え、社会が成立します。言うまでもなく最後のまどかがこの神の役割を果たしています。その神自身は救われるのかという問題は依然として残りますが、ともかくこれでその他の人たちは協力して社会を築くことができるのです。

その証拠に、最後の場面では魔法少女たちが協力して戦っていました。協力するといっても世界中から悪が消え去るわけではありませんが、魔法少女同士で殺しあっていたときよりはましです。

このやり方がうまくいくかどうかは信仰をいかに共有できるかにかかっています。一人だけが信じていても妄想だとして退けられるだけです。作中ではほむらがまどか教を布教するのに成功しているようです。現実世界でそれが成功するかはわかりません。それでも少なくとも『魔法少女まどか☆マギカ』を見た人たちの間ではまどか教を共有できるはずです。一番最後で魔法少女たちの後姿が映されたのはそのことを暗示しているように思えてなりません。

googleマップをリンクさせる方法

 

京都アカデメイアWeb担当の浅野です。

このブログでも繰り返しお伝えしている京大11月祭で真山仁さんをおよびするイベントの告知用Webサイトを作っています。

イベントの告知などで場所(地図)を示すためにはgoogleマップが便利です。ただし使いこなすのはやや難しいのでここにまとめておきます。

googleマップはシームレスに動かせるのが特徴です。それを実現しているのがAjaxというJavascriptの技術です。URLと地図の画像とが対応しているわけではありません。よくやってしまう間違いは、自分が今見ている地図を他の人に送ろうとしてURLをコピーして伝えることです。URLは最初にgoogleマップに来たときの条件に対応しています。

自分が今見ている地図を他の人に伝えたければ画面右上(検索ボックスの右方)のリンクボタンをクリックします。そうすれば現在の緯度と経度をもとにしたその場所特有のURLを生成することができます。

もう少し欲張るとイベント会場などに印をつけたくなります。本格的にするならAPIを使わなければなりませんが、APIを使わずに簡単に場所の目印(矢印)とコメントをつける方法を知りました。

1000101 Google Mapで好きな位置にポイントとコメントをつける方法!

これなら比較的簡単ですね。

このやり方で今回のNFイベントの場所を表示してみました。

京都大学 吉田南総合館 共南21教室(googleマップ)

みなさまもぜひご活用ください。誰かにメールで場所を伝えたいときにも便利です。