書評・レビュー」カテゴリーアーカイブ

鬼と踊れ!蕎麦を食え!ぷにょ玉をすくえ!せつぶん! の巻

ヘヘイ(む)です。
ここのとこ(あ)氏の力作が続き、他スタッフがブログ書くのに気後れしている、との説を聞いたので、ハードルを下げるべくログインしました。

さてさて厳寒の日々が続く京都。
チャリに跨って市内を走行すると、冬の粒子のよーなものがぴしぴしと顔面に突き刺さり曲がり角を過ぎた皮膚を更に皹割るのでありますが、その京都の冬もモウ終わりだ! 節分が過ぎれば春なのや。
そして節分といえば、吉田神社節分祭。
吉田神社節分祭期間は、一年で最も京大(の周辺)が荒ぶる季節なのである。
東一条通りから吉田参道へずらーっと夜店が並んで、人がいっぱい出て、火が焚かれて、鬼がでるのだよ!
子どものころは鬼がこわくて泣いたもんだよ。

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節分祭に並ぶ屋台は毎年トレンドがあるようで、今年はご当地B級グルメブームを反映してか、「シロコロ」が大人気やった。シロコロばっかり10軒くらい見た気がする。去年現れた衝撃の「ラーメンバーガー」は消えていた…。代わりに「神戸生まれ チャイナバーガー」が登場しておりました。

あと今年突然流行り始めていたのが「ぷにょだますくい」。なんやそれ。

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文字通り、ぷにょぷにょした玉をすくうもののようでした。時代はつねに新たなものを生み出してよる。
ぷにょぷにょした玉をすくいたかったけど、3時間後くらいにはもうぷにょぷにょしたものを持て余し後悔するのであろうことが目に見えたのでやめた。
代わりに不健康そーなチョコバナナを買うた。

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さてさて参道を登ってゆくと、本殿のあたりはえらい数の人が、福豆を売る福娘の前に列を成し、豆を求めています。この豆、抽選券つきなんやけど、毎年当たったためしがない。

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境内のまんなかにはお焚き上げられ予定のお札の山。

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拝所には拝みたい人々がぎうぎう詰めで、賽銭を投げても賽銭箱に入ったのかあらぬ方向へ飛んでいったのか確認できぬほど。一応わたくしも賽銭(1円)を投げ、もちろん京アカの発展を祈……るのは忘れてた。

さて本殿まで登ってきたがここからが本番で、更に登ると菓祖神社がありまして、お菓子の神様を祀る素敵なこの神社では、素敵なことに豆茶とお菓子が振舞われております。更にその上が、斎場所大元宮。なんと八百万の神々が此処に集っているという、「ここに祈っといたら他の神社いらんやん!」的な反則神社。なのだが、なんと今年は大元宮の前に長蛇の列ができていて境内に入れないという有様! 毎年節分祭に通ってますがこんなのは初めてだ。やはり暗い世相の昨今、皆神頼みしかないのかなあ…と思うがいや単に金曜の夜だからであろう。不埒なわれわれはといえば、列に並ばず「遥拝」で済ませたのであった。

で、ここで折り返して下山するわけですが、われわれの本当の本番はこの下山であって、下山がてら、参道で売られている吉田日本酒を飲むのが定番なのであります。わたしは下戸なのだが、ここで売られている日本酒は下戸でもスイスイ飲めるほどおいしい。なんや澄んだお味がするのです。おかげで悲劇が起ったこともあります。(悲劇とは具体的には嘔吐のこと。) 山の寒さにぷるぷる震えながらも、日本酒を飲み米沢牛(と書かれて売られているがほんまは何牛か知らない)を食べ、河道屋の年越しそばを食べる。そう、旧暦の年越しやからね。だから今日から新春ぢゃよ!!
皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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これがその蕎麦。

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……というようなことをしていたため、この後に予定されていた京アカスタッフ会議に大幅遅刻した。というか、今日は会議のことを書く予定だったのですが、ここまでで力尽きたので、誰かよろしくです。
ほな!皆さんお達者で!!

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ちなみに一夜明けて本日の吉田神社。嗚呼祭りの後。

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橋下徹×山口二郎討論(報道ステーションSUNDAY)を学問的に検討してみる

浅野です。

報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。

「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。

この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。

さて本題に入りましょう。

心理学的な検討

中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。

この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。

この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。

政治学的な検討

橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。

テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。

ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。

教育学的な検討

教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。

哲学・倫理学的な検討

先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。

「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。

この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。

この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。

自分の頭で考えた検討

率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。

教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。

あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。

そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。

さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。

勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。

『魔法少女まどか☆マギカ』批評

浅野です。

遅ればせながら『魔法少女まどか☆マギカ』(略して『まどマギ』)を見ました。何人もの人からすすめられていたので見ておかないとという義務感から始めたのですが、途中から引き込まれて一気に最後までいきました。

京都アカデメイアのブログなので『魔法少女まどか☆マギカ』を学問的に批評します。学問的といってもむやみに難しくはしないので安心して読み進めてください。

まず簡単に『まどマギ』のストーリーをご紹介します。ネタバレがあるのでご注意ください。

舞台は現代の日本で、主人公の鹿目まどか(かなめまどか)たちは平凡な中学生活を送っていました。そのような中、まどかは友人の美樹さやか(みきさやか)とともに魔法少女の魔女に対する戦いに巻き込まれてしまいます。同じ中学校で一年先輩の巴マミ(ともえマミ)らが、キュゥべえと呼ばれる生物と契約して願いを叶えたことと引き替えに命の危険を冒して魔女と戦っていたのです。

まどかとさやかは魔法少女になるか悩みながらマミの戦いを見学しますが、ある時マミは魔女との戦いに敗れて殺されてしまいます。それにもかかわらず、さやかは幼なじみでひそかに好意を寄せていた天才バイオリニスト上条恭介(かみじょうきょうすけ)の指が再び動くようにという願いを叶えて魔法少女になります。

魔法少女には戦いで殺される他にも、呪いを吸収しすぎて自らが魔女になってしまうという危険があります。さやかは自分ひとりであらゆる犠牲を引き受けようとして呪いを溜め込みすぎ、魔女になってしまいました。ライバルの魔法少女であった佐倉杏子(さくらきょうこ)の必死の試みもむなしく、最終的には杏子がかつてはさやかだった魔女もろとも自爆することになりました。

もう一人魔法少女が登場します。暁美ほむら(あけみほむら)です。転校生としてまどかたちの中学にやって来るのですが、謎の行動を取り続けます。特にまどかに対しては魔法少女にならないようにと何度も言い、魔法少女になる契約を取り結ぶキュゥべえを敵視します。というのも実はほむらは別の時間軸で、まどかが魔法少女となり殺されようとするのを目の当たりにして、「まどかを助ける」という願いで契約して魔法少女となったのです。

こうして時間を操る能力を手に入れたほむらはまどかを救おうと過去に遡るのですが、何度遡ってもまどかは救われません。たとえ魔女との戦いに勝利しても、結局は溜め込んだ呪いで自らも魔女になる運命だからです。そしてその時に得られるエネルギーが、宇宙の他の場所からやって来たキュゥべえの目的だったのです。それでもほむらはあきらめずに行動し続けます。

これらを知ったまどかは魔法少女になる決意をします。「過去、現在、未来、全宇宙に存在する全ての魔女を生まれる前に自分の手で消し去ること」という願いを叶えるためです。普通であればそのような因果律を変えるような願いを叶えることはできないのですが、ほむらの時間の繰り返しによって力が集まっていたまどかにはそれが可能でした。

こうして魔女という存在そのものがなくなったわけですが、まどかの存在そのものもなくなってしまいました。ただほむらの記憶の中でのみ残り、家族の人たちの中にかすかな痕跡が残っただけです。そして魔女がいなくなっても魔法少女たちは魔獣と戦っていました。

というところでストーリーが終わります。ここからは批評に入ります。

『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメが原作の作品なので、アニメという分野でどのように位置づけられるかを探ります。

伝統的に魔法少女はアニメの定番でした。もともとは小さい子どもがそれを見て憧れるといったものだったのでしょうが、1990年代以降くらいからは成人男性が「萌え」るものだという意味づけも目立ち始めました。「萌え」と関連の深いいわゆるギャルゲーで多用される、時間のループという要素もこの作品には含まれています。

アニメといえば主人公たちが仲間と共に戦って成長し、悪を倒すという勧善懲悪ものが一昔前までは定番でしたが、これも1990年代あたりを境にして傾向が変わり、最近では「けいおん!」に代表されるようなまったりとした日常を楽しむ作品が人気を得るようになってきました。あるいは世界の破滅を扱うにしても、極めて個人的な感情が中間的な社会を抜きにして一足飛びに世界全体と結びつくセカイ系と呼ばれる作品が主流になります。『まどマギ』もこの流れを汲んでいると言えるでしょう。

上で述べたようなアニメ作品の変質は社会の変質を反映しているのだと考えるのが自然です。1990年代と言えば冷戦構造が解体し、日本ではバブル経済が崩壊した時期です。それ以来、男性なら終身雇用で就職して西側陣営の一員として日本経済の発展に寄与する、女性ならそのような男性と結婚して子どもにさらに上を目指すような教育を施すといった物語の有効性が失われてきました。そうした状況下では将来の見通しを立てづらいので、ささやかな日常に楽しみを見出すという生き方が有力な選択肢になります。

しかし、そうしたささやかな日常が永遠に続くはずはありません。人間は誰しも年老いますし、いつかは死にます。さらに、日本の都市での生活などは、いくら見えにくくされていても地方や他の国での犠牲の上に成り立っているという側面を否定することはできません。食料やエネルギーを地方に頼っているわけであり、安い工業製品の背景には途上国と呼ばれるところでの低賃金労働があるのですから。もっと言うなら、動植物を含めた自然環境を犠牲にもしています。作中でキュゥべえが魔法少女は家畜と同じだと説明していました。そのシーンに典型的に示されているように、『まどマギ』は予定調和的な日常に疑問を呈している作品だと考えられます。

しかもその犠牲は契約によって自ら選んだものだとして正当化されます。確かにキュゥべえが主張するように、魔法少女は契約をすることによって犠牲を背負うのだから、家畜よりましだと言えはします。しかし魔法少女になるとはどういうことかという詳細な説明は契約の前になされませんし、自分や親しい人が死にかけていたりするような状況で契約をするというのはとても自由な選択とは思えません。

このロジックは現実社会でも同じように当てはまります。低賃金で働く人も契約によって働いているのだから問題はないではないかと正当化されます。しかし生産手段から切り離されて自らの労働力を売るよりほかに生きる道がない労働者にとっては事実上強いられた契約であるとマルクスは百年以上も前に喝破しています。

マルクスが考察の対象にしていた自由主義から、より現代的な新自由主義に移行してもこの構造は変わりません。むしろより巧妙になったとさえ言えます。現代の少なくとも日本では、生活保護に代表される生存権が一応は保障されているので、労働力を売らなくても文字通りに生きていけないということはあまりありません。それでも何らかのメカニズムによって各個人が企業のように主体的に契約を結んで生産活動を行うように駆り立てられています。それがどのようなメカニズムによってなされているかはフーコーを読めばわかるのかもしれません。

話が抽象的になってきたのでこの辺で具体例を出しましょう。さやかは魔女になってしまう直前に、電車の中で自分に好意を寄せるキャバ嬢をひどく扱う男性の会話を耳にします。魔法少女である自らをそのキャバ嬢に重ね合わせていると解釈できます。魔法少女もキャバ嬢も他人の負の部分を引き受ける仕事ですからね。昔はキャバクラで働くといったら生活のために仕方なくするといったイメージが強かったですが、最近では華やかで憧れの仕事といったイメージも増えてきました。先ほどの議論からすると、どちらにしてもまったくもって自由に契約をしてその仕事をしているのではないのですから、彼女たちに押し付けられる犠牲を当然のものとして正当化すべきではないというのが私の主張です。

魔法少女=キャバ嬢という図式からも窺えるように、ジェンダーでいうと女性に犠牲が押し付けられがちです。その点興味深いのがまどかの母、鹿目詢子(かなめじゅんこ)です。詢子はいわゆるキャリアウーマンであり、夫の鹿目知久(かなめともひさ)が主夫として家事全般を引き受けている様子です。詢子はまどかに対して過度に厳しくするでもなく甘やかすでもなく接します。まどかはまどかで「自分には何のとりえもない」と思っているところでは母と違っている一方で、芯の強いところなどはよく似ています。さっぱりとした家族関係が現代的であり、こうした設定も暗黙のうちに押し付けられる犠牲に敏感であろうとする『まどマギ』ならではだと思います。

これだけサービス産業化が進むとキャバ嬢に限らず非常に多くの人が他人の負の部分を引き受けつつ仕事をしているのですから、この話は他人事ではありません。それにもかかわらず、お互いに競争することによって結果として総体的にますます苦しい状況に追い込まれているのではないでしょうか。ちょうど魔法少女たちがお互いに争っていたのと同じように。本当は協力したほうが全体としてはよいはずなのに協力できないのです。このあたりの苦しみは〈企画〉アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ(2011.04.16)で詳細に描写されています。

個人個人が自己完結した存在であってはこの状況を変えることはできません。ゲーム理論で言うところの囚人のジレンマに陥っています。自己の利益を最大化するためには非協力を選択するほうが合理的なのですから。この状況を打ち破るためには個人の枠を超えた神のような存在が必要です。神のためなら自己利益の最大化という合理性を超えて協力を選択することができます。そして他の人たちも同じように神を信じて協力を選べば全体の利益が増え、社会が成立します。言うまでもなく最後のまどかがこの神の役割を果たしています。その神自身は救われるのかという問題は依然として残りますが、ともかくこれでその他の人たちは協力して社会を築くことができるのです。

その証拠に、最後の場面では魔法少女たちが協力して戦っていました。協力するといっても世界中から悪が消え去るわけではありませんが、魔法少女同士で殺しあっていたときよりはましです。

このやり方がうまくいくかどうかは信仰をいかに共有できるかにかかっています。一人だけが信じていても妄想だとして退けられるだけです。作中ではほむらがまどか教を布教するのに成功しているようです。現実世界でそれが成功するかはわかりません。それでも少なくとも『魔法少女まどか☆マギカ』を見た人たちの間ではまどか教を共有できるはずです。一番最後で魔法少女たちの後姿が映されたのはそのことを暗示しているように思えてなりません。

googleマップをリンクさせる方法

 

京都アカデメイアWeb担当の浅野です。

このブログでも繰り返しお伝えしている京大11月祭で真山仁さんをおよびするイベントの告知用Webサイトを作っています。

イベントの告知などで場所(地図)を示すためにはgoogleマップが便利です。ただし使いこなすのはやや難しいのでここにまとめておきます。

googleマップはシームレスに動かせるのが特徴です。それを実現しているのがAjaxというJavascriptの技術です。URLと地図の画像とが対応しているわけではありません。よくやってしまう間違いは、自分が今見ている地図を他の人に送ろうとしてURLをコピーして伝えることです。URLは最初にgoogleマップに来たときの条件に対応しています。

自分が今見ている地図を他の人に伝えたければ画面右上(検索ボックスの右方)のリンクボタンをクリックします。そうすれば現在の緯度と経度をもとにしたその場所特有のURLを生成することができます。

もう少し欲張るとイベント会場などに印をつけたくなります。本格的にするならAPIを使わなければなりませんが、APIを使わずに簡単に場所の目印(矢印)とコメントをつける方法を知りました。

1000101 Google Mapで好きな位置にポイントとコメントをつける方法!

これなら比較的簡単ですね。

このやり方で今回のNFイベントの場所を表示してみました。

京都大学 吉田南総合館 共南21教室(googleマップ)

みなさまもぜひご活用ください。誰かにメールで場所を伝えたいときにも便利です。

岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学のまとめと感想

浅野です。

10月16日(日)に同志社大学で開催された岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」に行ってきました。いい会だったのでここにまとめておきます。私の疑問や感想は赤字で書きます。Ustreamの動画も残っているので、お時間がある方はそちらもご参照ください。

岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 – 岡田斗司夫公式ブログ
話(わ)BOTぶろぐ – 岡田斗司夫講演 「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 (12分割)

全体が三部構成になっています。第一部は仕事の話(約1時間)、第二部はお金の話(約30分)、第三部は勇者の話(約30分)です。

第一部の仕事の話を一言で表現するなら「就職はオワコン(終わったコンテンツ)である」です。その理由は、大学を卒業しても就職できない人が4割いて、運よく就職できたとしても日本の会社の平均寿命は7年しかないということです。これはかつてない状況で、今の若者の親世代は頑張れば就職できると思っている人が多いけれども、4割の人が就職できないというのはシステムの問題だと言えます。就職をめぐる状況がこのように変化したのはインターネットなどのおかげで私たちの生活が便利になったことにあります。例えばAmazonは私たちの生活を少し便利にして多数の書店を潰しました。

それなら就職できる勝ち組を目指せというのは狭い発想です。仮に正社員として就職できたとしても長時間労働や過重な仕事が待っています。そうした二者択一から抜け出すために恋愛という補助線が引かれます。

今回の話としてこういう展開なのは理解できます。しかし地域型ユニオンなどに入って労働条件を身の回りから少しずつよくするという選択肢も考慮に入れておきたいです。正社員は簡単に解雇できませんし、労働時間や有給休暇を活用することができます。

ネットワークの発展が変化をもたらしたという点では恋愛をめぐる状況も同じです。岡田斗司夫さんが引き合いに出したデータによると携帯電話の普及率と既婚女性の浮気率とは正比例しているそうです。生涯未婚率が4割を超えつつあるというのも就職の状況と似ています。

就職がオワコンであるならどうすればよいのでしょうか。そう、今流行りの3万円ビジネスです。3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をするというのが岡田斗司夫さんの処方箋です。

実は私自身かなりこれに近い生活をしています。英語、数学、小論文、心理学などをあちこちで教えることでいくらかの収入を得て、無償で労働相談を受けたりWebプログラミングの勉強をしており、京都アカデメイアの活動では交通費など持ち出しです。しかし50個というのは体力的にも時間的にも無理です。

第二部はお金の話です。こちらも結論は「お金はオワコンである」になるのですが、お金とはそもそもどのようなものかという説明がきわめてオーソドックスな形でなされました。お金は特定の目的を達成するためには回り道だけれどもわずらわしさから逃れることができるという説明です。例えばiPodが欲しければ新品を定価で買うほかに、中古で買う、友人から貸してもらう、友人から譲ってもらうなどの方法があります。友人から借りたりもらったりしたほうが安くつくし、使い方を教えてもらえるし、そのiPodをめぐる物語にも参与できるという利点があります。

就職をしなければならないという主な理由には食うためには金を稼がなければならないというものがあります。しかしこのように他の方法を探ればそれほどお金は必要ありません。「食うため」と言っても文字通り食うために使うお金や生活必需品に使うはそれほど多くはないというのが岡田斗司夫さんの主張です。

確かに文字通り食うために使うお金はそれほど多くないかもしれません。しかし私の場合だと自炊をする時間があまりないので月3万円はかかりますし、家賃や携帯電話代(仕事や日常生活を営む上での必需品)などを合わせるとそれなりの金額になります。税金や健康保険、国民年金を入れても年間300万円くらいあればとりあえず十分だとは言えます。この金額を多いと見るか少ないと見るかは人それぞれでしょう。

私たちはいかに無駄なものを買っているか、モノに執着しているかということを示すためにゴミ屋敷や大量販売のスーパーが引き合いに出されます。ゴミ屋敷はモノに執着するあまり周囲の立地条件まで下げてしまっていると言えます。大量販売のスーパーで玉子を50個安く買っても使い切れずに駄目にしてしまうことも多いでしょう。

ここはシンプルにそのモノをうまく活用できているかという「もったいない」の精神で考えてもよいかなと思います。

大正時代くらいには一人が働きに出れば15人くらいを養えたのに、最近では一人が一人を養うのがやっとの状態になってしまっているのが問題だということになります。お金は他人のために使えというのが岡田斗司夫さんの持論です。

そのことを示す具体例を岡田斗司夫さんがやっているクラウドシティというソーシャルネットワークから二つ出されました。一つはメンヘラーの女の子に対して自分ができるのはお金を出すことだけなのかと書き込んだ男性の例です。岡田斗司夫さんの答えは「そうだ、そういうときにお金を使え」というものです。もう一つはニートの弟といっしょに住んでいるけれども生活費は2万円くらいしか増えていないし家事をしてくれるからまったく問題ないという「愛されニート」という言葉を生み出した女性の例です。

どちらの例もリアリティがあります。ところがもし設定を少し変えてみるとどうでしょうか。メンヘラーのおじさんにその男性はお金を出そうとするでしょうか。街にいるその辺のニートが家事をするといってその女性は弟と同じように住まわすでしょうか。若い女性だ、血縁者だという要素が決定的な気がします。また、仮にそうしたお金の出し方が可能だとしても、お金を出してもらっている人が虐待されたり奴隷のように扱われたりする危険性があります。大正時代の家の例だと働きに出ている家長が横暴な振る舞いをするということもよくあったと想像します。

岡田斗司夫さんは政府の役割を過小

岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学のまとめと感想

浅野です。

10月16日(日)に同志社大学で開催された岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」に行ってきました。いい会だったのでここにまとめておきます。私の疑問や感想は赤字で書きます。Ustreamの動画も残っているので、お時間がある方はそちらもご参照ください。


岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 – 岡田斗司夫公式ブログ

話(わ)BOTぶろぐ – 岡田斗司夫講演 「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学 (12分割)

全体が三部構成になっています。第一部は仕事の話(約1時間)、第二部はお金の話(約30分)、第三部は勇者の話(約30分)です。

第一部の仕事の話を一言で表現するなら「就職はオワコン(終わったコンテンツ)である」です。その理由は、大学を卒業しても就職できない人が4割いて、運よく就職できたとしても日本の会社の平均寿命は7年しかないということです。これはかつてない状況で、今の若者の親世代は頑張れば就職できると思っている人が多いけれども、4割の人が就職できないというのはシステムの問題だと言えます。就職をめぐる状況がこのように変化したのはインターネットなどのおかげで私たちの生活が便利になったことにあります。例えばAmazonは私たちの生活を少し便利にして多数の書店を潰しました。

それなら就職できる勝ち組を目指せというのは狭い発想です。仮に正社員として就職できたとしても長時間労働や過重な仕事が待っています。そうした二者択一から抜け出すために恋愛という補助線が引かれます。

今回の話としてこういう展開なのは理解できます。しかし地域型ユニオンなどに入って労働条件を身の回りから少しずつよくするという選択肢も考慮に入れておきたいです。正社員は簡単に解雇できませんし、労働時間や有給休暇を活用することができます。

ネットワークの発展が変化をもたらしたという点では恋愛をめぐる状況も同じです。岡田斗司夫さんが引き合いに出したデータによると携帯電話の普及率と既婚女性の浮気率とは正比例しているそうです。生涯未婚率が4割を超えつつあるというのも就職の状況と似ています。

就職がオワコンであるならどうすればよいのでしょうか。そう、今流行りの3万円ビジネスです。3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をするというのが岡田斗司夫さんの処方箋です。

実は私自身かなりこれに近い生活をしています。英語、数学、小論文、心理学などをあちこちで教えることでいくらかの収入を得て、無償で労働相談を受けたりWebプログラミングの勉強をしており、京都アカデメイアの活動では交通費など持ち出しです。しかし50個というのは体力的にも時間的にも無理です。

第二部はお金の話です。こちらも結論は「お金はオワコンである」になるのですが、お金とはそもそもどのようなものかという説明がきわめてオーソドックスな形でなされました。お金は特定の目的を達成するためには回り道だけれどもわずらわしさから逃れることができるという説明です。例えばiPodが欲しければ新品を定価で買うほかに、中古で買う、友人から貸してもらう、友人から譲ってもらうなどの方法があります。友人から借りたりもらったりしたほうが安くつくし、使い方を教えてもらえるし、そのiPodをめぐる物語にも参与できるという利点があります。

就職をしなければならないという主な理由には食うためには金を稼がなければならないというものがあります。しかしこのように他の方法を探ればそれほどお金は必要ありません。「食うため」と言っても文字通り食うために使うお金や生活必需品に使うはそれほど多くはないというのが岡田斗司夫さんの主張です。

確かに文字通り食うために使うお金はそれほど多くないかもしれません。しかし私の場合だと自炊をする時間があまりないので月3万円はかかりますし、家賃や携帯電話代(仕事や日常生活を営む上での必需品)などを合わせるとそれなりの金額になります。税金や健康保険、国民年金を入れても年間300万円くらいあればとりあえず十分だとは言えます。この金額を多いと見るか少ないと見るかは人それぞれでしょう。

私たちはいかに無駄なものを買っているか、モノに執着しているかということを示すためにゴミ屋敷や大量販売のスーパーが引き合いに出されます。ゴミ屋敷はモノに執着するあまり周囲の立地条件まで下げてしまっていると言えます。大量販売のスーパーで玉子を50個安く買っても使い切れずに駄目にしてしまうことも多いでしょう。

ここはシンプルにそのモノをうまく活用できているかという「もったいない」の精神で考えてもよいかなと思います。

大正時代くらいには一人が働きに出れば15人くらいを養えたのに、最近では一人が一人を養うのがやっとの状態になってしまっているのが問題だということになります。お金は他人のために使えというのが岡田斗司夫さんの持論です。

そのことを示す具体例を岡田斗司夫さんがやっているクラウドシティというソーシャルネットワークから二つ出されました。一つはメンヘラーの女の子に対して自分ができるのはお金を出すことだけなのかと書き込んだ男性の例です。岡田斗司夫さんの答えは「そうだ、そういうときにお金を使え」というものです。もう一つはニートの弟といっしょに住んでいるけれども生活費は2万円くらいしか増えていないし家事をしてくれるからまったく問題ないという「愛されニート」という言葉を生み出した女性の例です。

どちらの例もリアリティがあります。ところがもし設定を少し変えてみるとどうでしょうか。メンヘラーのおじさんにその男性はお金を出そうとするでしょうか。街にいるその辺のニートが家事をするといってその女性は弟と同じように住まわすでしょうか。若い女性だ、血縁者だという要素が決定的な気がします。また、仮にそうしたお金の出し方が可能だとしても、お金を出してもらっている人が虐待されたり奴隷のように扱われたりする危険性があります。大正時代の家の例だと働きに出ている家長が横暴な振る舞いをするということもよくあったと想像します。

岡田斗司夫さんは政府の役割を過小評価していると私は思います。先のメンヘラーの女の子の例だと医療をとりあえず無料で受けられるところを紹介したり、生活保護の申請に同行することも周囲の人たちにできることではないでしょうか。

このあたりは第三部の勇者の話と重なります。勇者とは方々で困っている人たちを助ける人のことです。これからの職業で重要なのは技術や能力(Contents)と共同体(Community)と人柄(Character)の3Cです。その中でも人柄が大切だというのが最後の結論です。具体的には毎日5分を他の人のブログをほめたりtwitterでRTをしたりすることに費やすことから始められます。

話としてはだいたいわかるのですが、これだと養われるためにも職を得るためにもコミュニケーション力が大いに求められるなぁと少し憂鬱になります。

概要は以上です。ところどころ疑問はありつつも、大筋ではその通りだなと思いながら話を聞いていました。合理的にリスクヘッジを考えている反面で人に優しくしようという愛も感じたのがおもしろかったです。

最後に興味深い話をしてくださった岡田斗司夫さんと、『私たちは生涯、働かないかもしれない』という講演会を主催した器の大きい同志社大学学生支援課に感謝の意を表します。

呑みながら講義

総合人間学部3回の安達千李です。
今回はあるお店を紹介させていただきます。

Loki ACADEMICA(ロキ アカデミカ)
〒604-8111
京都市中京区三条通高倉東入桝屋町55
三条高倉白鳥ビル3F
営業時間 : 19:00~
定休日 : 日曜日
お店のHP http://loki-academica.com/

京都の烏丸三条から徒歩2分程度にあるオシャレなバーです。「ACADEMICA」というだけあり、お店の中には新書や文庫本がたくさんおいてあります。さらに、月に一度くらいのペースで「呑みながら講義」というイベントも開催されます。京都大学の先生方、また、あの有名人「ビラがパズルの人」ことチェバさんも講義されたようです。

詳細はお店HPをご覧下さい。
いつか京アカのメンバーで飲みに行くのも良いですね。

個人的お薦めフードは「日替わりペースト&バゲット」です!

院生交流会

浅野です。

一昨日の院生交流会に参加してきました。30人以上が参加するという盛況ぶりで、思わず隅のほうに座ってしまいました。それでも主催者のご配慮で京都アカデメイアのことを宣伝することができました。概して反応はよかったです。やはり総人や人環には学際的な感性を備えた人が集まっているのでしょう。もし興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、kyotoacademeia□gmail.com(□に@を入れてください)までご一報いただけますと、メーリングリストに追加させていただきます。

そのときに話をしていて一つ感じたことがあります。模擬授業をいつも火曜日の夜に行っていたので、興味はあるけれども予定が合わずに参加できないという方がいらっしゃいました。ですので、火曜日以外に月一くらいで交流会のようなものを設定するのはいかがでしょうか。ご意見をお待ちしております。