熊本地震の偽善叩きに見るより深い問題:善の困難

大窪善人
 

4月14日夜に熊本、大分県を中心に発生した地震は各地で大きな被害をもたらしました。また、その後も断続的な余震が続きいまだ大勢の方が避難されています。
被災された方々には心からお見舞い申しあげます。

今回は、震災に際して気になったことについて考えてみたいと思います。
それは、今回の件から、私たちの社会が抱える深い問題が見えてくるのではないかということです。

なぜ私たちは「偽善叩き」にとらわれるのか

震災直後から活発な募金や支援活動が行われる一方、著名人や芸能人の寄付活動が「偽善」や「売名」、「不謹慎」などの批判がネット上で見られました。それに対してある芸能人はブログで、「たとえ偽善でもやらない善よりマシだ」という趣旨の発言をしています。

しかし、言うまでもないことですが、募金や支援活動は被災者や支援活動をする手助けになるわけだから、それは一義的によいことのはずです。また、動機においても、人間の心の内は本人以外誰にもわからないわけだから、とくに不自然なことがない限りは、素直に善意として受け取るのが道理ではないでしょうか。

また、こういうことを話題にしていると次のような批判を受けるかもしれません。実際に「偽善叩き」をしている人は全体の中のごくわずかなのだから気にすることはないと。むしろ、被災者への支援活動の方にもっと目を向けるべきだと。

もっともな意見です。しかし、私が気になるのはむしろ逆のことなのです。つまり、「偽善叩き」をしている人がごく一部だから問題がないのではなくて、むしろ、ごく一部であるにもかかわらず、それに多くの人がとらわれてしまうのはなぜなのか。

この疑問の根拠は、マスメディアでの報道、あるいは、寄付をするときにまとわりつく、ある種の”後ろめたさ”によっても示すことができます。たとえば、私のある友人は、もちろん善意から募金をする際に、しかし、いささかの躊躇を感じているようでした。

つまり、「偽善叩き」がこれほど話題になる理由は、「偽善叩き」を実際にしている人だけではなく、多くの人が否応なく巻き込まれてしまっている社会の構造的な問題があるからではないかと。

では、かかる問題とは何でしょうか。それは、現代社会の中で、善をなすことが困難になっている、ということです。

合理的な愚か者

なぜ善い行いが困難だと感じられるのでしょうか?

導きの糸として思想史を少しひも解いてみましょう。

ヘーゲルは近代の市民社会のことを「欲望の体系」と呼びました。市民社会には共同体の倫理が欠如していると。

他方、「(神の)見えざる手」という言葉とともに知られる、18世紀イギリスの経済学者アダム・スミスは、私的利害の追求こそが社会全体の富の適切な配分を可能にすると主張しました。各々が自分のことだけ考えて行為すると、結果としてみんなのためになる。
ちなみにこれは、オランダの医者マンデヴィルの思想「私悪は公益なり」(『蜂の寓話』)に影響を受けていると言われています。

要するに、近代の市民社会の営みは、たとえ善がなくても利己的な打算のみで成り立つと。もしこの主張が現代にも当てはまるなら、善の困難は問題にすらならないでしょう。「しない善よりする偽善」でよいわけですから。

しかし、じつはスミスの主張はもう少し複雑です。『道徳感情論』という書がありますが、この本を通じて彼が言うのは、市場が上手く働くのは、人々が道徳的な感情を備えている場合に限られる、ということなのです。


 
もし道徳的な要素をほんとうに抜き去ってしまえば、社会は混沌に陥ってしまうでしょう。だから、ヘーゲルであれば、市場の無秩序は、国家の法という規範によって統合されなければならないと考えたわけです。

「普遍的な正義はない」という感覚

近代社会は一見すると善や道徳は不要に見えるが、じつは深いところで社会を支えている、というのがスミスの議論でした。
すると、もし今、社会的に善い行いが困難だと感じられるようになっているとすれば、それは、あらためて、社会全体にとって非常に重大な問題だと言わなければならないでしょう。

しかし、ではその原因は何なのか?
「ポストモダン」という言葉で説明します。1970年代以降、西洋でポストモダンという思想的潮流が登場します。一言でいえば、「理性」とか「進歩」や「人間」といった、それまで近代(モダン)が前提としていた価値観が根本的に疑われるようになった、ということです。

社会を統合するはずの理性的な国家も悪(二度の世界大戦)をなすではないか。もはや、みんなにとって善いこと、つまり、正義などどこにも存在しないのではないか。一方でそうした気分が広がっていきました。

普遍的な理念が退潮し、そのあとに残るのは個々の私的利害や打算しかないという感覚です。むしろ、もっともらしい理念や善意を語る方が胡散臭い。
ここまで見てくると、偽善叩きや善の困難が単なる表面的な社会事象ではないということが見えてきます。

“We Are The World”の意味

では、偽善叩きや善の困難がなぜ社会的に重大な問題なのでしょうか。
その理由は、それがすなわち、公共性の困難を表しているからです。

マイケル・ジャクソンの”We Are The World”という歌があります。アメリカの著名なアーティストが参加し、アフリカの飢餓と貧困をなくすキャンペーン・ソングとして作られました。
これが今回の疑問を解くヒントになります。

ところで、なぜ曲のタイトルが “We Are The World”(「私たちは世界だ」)なのでしょうか。大谷大学の門脇健さんはエッセイで、これを「世界」と訳してしまうと意味が通じない。”World”には空間的広がりとは別に「神の被造物」という意味があると書いています。

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この歌のメッセージは、世界中の人々の連帯を呼びかけるものです。門脇さんの解釈によれば、興味深いことに、人々のヨコのつながりの訴えは、ある種のタテの関係によって媒介されている、ということです。
つまり、「私たちは一つだ」というメッセージには、「◯◯において」という但し書きが付されているのです。この◯◯に入るのが神様です。

We are all a part of God’s great big family(僕らはすべて神のもと、大きな家族の一員なんだ)

さて、ここから導くことができる結論はもはや明らかではないでしょうか。

“We Are The World”にみる構造的な論理を応用すれば、「◯◯において」の◯◯には神のような超越的な存在や、あるいは、自由や平和、人類の調和といった普遍的な善(=正義)となる理念が組み入れられます。しかし、であるがゆえに、この「◯◯において」という共通の尺度が占める座そのものが失われることは、全体のための活動の基盤である、公共的な空間の喪失と同義なのです。

 

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