兵庫県太子町にあるゲームセンターに去年10月頃から設置されていたクレーンゲーム、「もふもふはむすたぁ」。ゲーム機の中には景品の見本として生きたハムスターが入れられていました。
ゲームは1回500円。クレーンですくったピンポン玉を当たりの穴に入れると空の籠をゲットすることができ、店員からハムスターをもらえるという仕組みでした。
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店側は今月、自社の公式ツイッターに謝罪文を掲載しゲーム機を撤去。これまでに約104匹が客の手にわたったということですが、残っていた3匹は今も従業員が飼育しているということです。
これに対し、ネットのコメントやtwitterでは「ハムスターがかわいそう」という意見がある一方で、「金魚すくいや屋台のヒヨコはいいのか」といった声や「実験動物はかわいそうではないのか」といった意見もありました。
恣意的な線引をしているだけ?
実際にはほとんどいちゃもんの域を出ていませんが、もし仮にこうした批判を誠実なものとして受け取るなら、「すべての生き物の命は平等に尊重されるべき」という普遍的な原理の要求を導きます。
もちろん、それは実際には過大な要求ですが、少なくとも、私たちがハムスターの命の心配をしているとき、金魚やヒヨコの心配をするのをとんと忘れているという事実に気づかせてくれます。
ところで、アメリカの哲学者であるコーネル・ウェストはある本のなかで「human(人間)」という言葉がラテン語の「humand(埋葬)」に由来すると言います。
一方では限定的な存在に過ぎず、ついつい恣意的な区別に陥りがちな人間ですが、他方でその限界を反省的に引き受けることもできるというわけです。
このことから得られる学びは、「ハムスターがかわいそう」と思う感情は、ある種の「区別」を所与の前提に成り立っているということでしょう。
良心的で偽善的
このようなことはありがちです。
たとえば、経済格差の問題で、国内の同一賃金同一労働を主張するときには、途上国との賃金格差は不問に付されます。
また、ウェストは、オバマが「奴隷制がアメリカの原罪である」と演説するとき、先住民に対する虐殺の歴史が消されていると批判します。
もちろん、共感や怒りの感情は、私たちがものを考えたり行動するための重要な要素です。しかし同時に、それらが常にすでに偏っていたり不完全だったりするのを自覚することもまた、人間が人間として生きるということではないでしょうか。