アカデメイアカフェ開催しました

先月末、四条・生きている珈琲でアカデメイアカフェを開催しました。今回は6月に「経済成長」をテーマにしたカフェのシリーズ企画・「経済成長と幸せ」を行いました。前回のリピーターの方、今回はじめての方もたくさん来ていただき、充実した内容となりました。前回は、参加者のみなさんと経済成長推進派/脱成長派にわかれて議論しました。対して今回は、あえてあらかじめ主催者側で対立軸は設定せずに、みなさんと論点や対立軸を探していくというスタイルで進めました。

「幸せ」を定義することは難しい。幸せとは、たとえば、好きな音楽を聞いたり、好きな本を読んでいるとき、好きな人と一緒にいるとき、あるいは、美味しいコーヒーが飲めて嬉しいというような、主観的な感情です。しかし同時に、幸せとは、社会調査の分析や社会政策の目標、あるいは哲学的な思索の対象となるような、客観的なできごとでもあります。最近話題になった古市憲寿さんの本では、いくつかの統計データをもとに、現代の若者の多くが(主観的には)いまの生活に満足していると感じているということを描きだしました。その結果は、2000年代以降の格差の拡大や日本経済の停滞が深刻な問題となっているという現実がある中で、多くの人に驚きをもって受け取られました。また、「世界一幸せな国」として紹介されているブータンでは、GDPとは別にGNH(Gross National Happiness/国民総幸福)という指標を設定し、それをもとに国家の政策を進めてもいます。

ディスカッションでは、幸せをめぐる時代・世代論的な論点で盛り上がりました。戦後の日本社会ではずっと、目の前の抑圧や障害を取り除いていくことで幸せを達成してきたという意識がある、しかし、他方で、現代では昔とくらべて充分に豊かになり、目にみえる障害が少なくなったにもかかわらず、かえって幸せや自由を実感しにくくなっているように感じられる、と。あるいは、逆に、本当に社会や個人は自由になってきたのかという鋭い意見も出ました。たとえば、就職活動での一見個人の選択肢の拡大にみえることが、同時に、就職をしなければならないという選択を自明の前提としている、というように。たしかに、それは、「抑圧的寛容」(H.マルクーゼ)とでもいうような、制限付きの自由であるに過ぎないと言うべきかもしれません。
よりよい幸せはどしたら実現できるのか。また、そのときに経済はどのようなあり方がふさわしいのか。簡単には答えの出ない難しい問いですが、今回、議論を通して、事後的にさまざまな論点や対立軸が見出されたことには公共的な意味があったのではないか、と思います。

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大窪善人

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