岡本亮輔『聖地巡礼』:なぜかれらは聖地をめざすのか?

大窪善人


聖地巡礼 : 世界遺産からアニメの舞台まで

中央公論新社(2015年04月21日)

 

最近「御朱印ガール」というのがひそかなブームだといいます。御朱印とは、神社や寺で参拝の証としてもらえるスタンプのことです。いわゆる「パワー・スポット」巡りと相まって、いま若い女性を中心にこの御朱印を集めるのが流行しているそうです。彼女彼らを惹きつける魅力は何なのでしょうか?

「聖地」とは何か

そうした謎を解くために、この本は格好の道案内役でしょう。この本は、宗教社会学の立場から宗教と観光とを結びつけて、現代の「聖地巡礼」とは何かを明らかにします。

聖地とは、宗教の創始者や聖人の誕生地・埋葬地のような生前関わりのあった場所、あるいは神や精霊といった存在と関わる場所への旅を指します。キリスト教ではイエス生誕の地 ベツレヘムや処刑地 エルサレム、日本では伊勢神宮や弘法大師が開いた四国八十八ヶ所などが有名です。

しかし、「聖地巡礼」がどうしてそんなにおもしろい現象なのか。まずはそのことを理解することが重要です。

宗教の衰退ー世俗化と私事化

「聖地巡礼」を読み解くキーワードは「世俗化」と「私事化」であるといいます。

まずは世俗化の方からみてきましょう。西洋でも日本でも、近代以前の社会は、あらゆる領域で宗教と深く結びついていました。たとえば、地動説を主張した科学者 ガリレオが宗教裁判にかけられた事件などはその典型でしょう。世俗化とは、宗教的な営みと社会とが無関連化するということ。つまり、みんなが神や仏を信じなくても、社会生活上なんの支障もなくなった、ということです。

世俗化は、西洋において教会離れという目に見える形であらわれている。たとえば2006年にフランスで行われた[…]調査では、カトリック信者で毎週ミサに出席している人が8%、月1〜2回程度出席している人が9%[…] しかも、これらの数少ない実践者のほとんどは高齢者である。

その他のヨーロッパ各国でも似たような状況ではないでしょうか。また、信仰離れという現象は、日本社会とも決して関係のない話ではありません。

次に「私事化」です。近代以前は、宗教は政治とも結びついていました。今では想像しにくいことですが、かつてのヨーロッパでは世俗の権力と教会とが闘争を繰り広げていましたし、宗教が原因による抑圧や国家間の戦争に発展した歴史があります。

こうした歴史の反省から、近代社会では政教分離の原則や信教の自由といった権利が編み出されました。しかし、それは同時に、宗教の公的空間からの排除と、聖地のような「共通の物語の切断」をも意味しました。つまり、私たちが生きている近代社会は、特定の宗教に共通の物語を求めることができなくなった社会なのです。

すると、近年、聖地巡礼が注目されているということの面白さが少しずつわかってきます。世俗化と私事化を経た後で盛り上がりを見せる、聖地巡礼とは何なのでしょうか。

サンティアゴの巡礼者たち

スペインのサンティアゴ大聖堂には、イエスの十二使徒の一人である聖ヤコブの遺骸が収められています。キリスト教では、聖人の遺体は「聖遺物」として人々の信仰を集め、そして、古くから、この地を目指した巡礼が行われてきました。しかし、ここで興味深いのは、1990年代以降に巡礼者が急激に増加しているという点です。ちなみに、2010年の巡礼者の数は約27万人を超え、規模は1980年代の100倍にも膨れ上がっています。

この時期に何があったのでしょうか。ブームのきっかけは、巡礼体験を綴った小説や映画の発表だったといいます。そして、さらにおもしろいのは、それらの作品が信仰を持たない人の立場で描かれたものだったということです。

だから、小説に出てくる人物たちの巡礼の動機はみんな、非宗教的なものです。そして、興味深いことに、サンティアゴ巡礼者の多くは、普段は教会へ行かない人々や非キリスト教圏の人々なのです。「信仰なき巡礼者」、かれらを旅に駆り立てるものとは、一体何なのでしょうか。

遠隔化される聖地

聖地 サンティアゴまでの巡礼のルートは複数あって、移動手段も徒歩や自転車、ロバや馬など様々で、また、自分の家の前から巡礼をスタートする人もいるそうです。

もっとも多いのが、徒歩巡礼で、10キログラム程度の荷物を背負って、毎日15キロ〜20キロメートルほど歩く。自然に恵まれた巡礼路を歩き、気が向けば沿道のロマネスク様式の古い教会を見学し、夜は小さな村のペンションに泊まることができる。[…]〔フランス国境近くの〕サン・ジャンから歩き出した場合、サンティアゴまでおよそ40日を要する。

年代割合では30〜60歳が約56%ともっとも多い。30歳未満は約28%、60歳以上は15%であり、青年期から壮年期の人々が多い。

ここで興味深いのは、巡礼者のほとんどが徒歩であるという点です。

サンティアゴまで飛行機も高速道路も鉄道も整備された現代において、なぜ彼らは徒歩巡礼を選ぶのか。しかも、ほとんどの巡礼者は信仰を持っていない。それにもかかわらず、どうして容易に行ける聖地をあえて遠くするのだろうか。

一見すればこれは、道中までの苦労が、一種の宗教的な行為であるように見えるかもしれない。しかし、他方、信仰を持った人々はバスや自動車で聖地に向かっているのです。なぜなら、信仰者にとっての目的はただ、聖地に行くことだからです。

聖遺物を目指す巡礼において重要なのは、聖なる物を前にして祈ることである。しかし、信仰のない現代の巡礼者にとって、聖遺物は旅の絶対的な目標にはならない。そこで彼らは徒歩巡礼という不便な方法をあえて選ぶ。

聖地の遠隔化、この疑問に対する筆者の答えは、「巡礼を通じた他者とのコミュニケーション」にあるといいます。つまり、信仰をもたない人にとって、巡礼の目的は聖地に到着することではなく、そこまでのプロセスにあるのです。巡礼の中での人との出会いを通じて、他では味わえいような体験ができる、そこに意味を見出している、というわけです。

しかし、なおも謎は残ります。それは、巡礼が巡礼たるゆえん、つまり、なぜ旅が「聖地」を目指したものでなければならないのかという疑問が。

ここで筆者はおもしろい論を紹介しています。それによると、信仰なき巡礼者にとって、聖ヤコブは「ゲームのルール」のようなものだといいます。つまり、かれらにとって、聖地=聖ヤコブは、それ自体、旅の目標にはなりえないが、他方、巡礼路を個々人が勝手に歩き回ると、それは単なる旅行者と同じになってしまう。だから、かれらは聖地を目指して歩くのだ、と。

私は信じていない(が、しかしー)

しかし、これは奇妙なことではないでしょうか。なぜなら、信仰なき巡礼者にとって聖地の宗教的な意味には、それ自体、価値がないにもかかわらず、他方で、かれらは、少くとも、聖地を目指すことが特別な意味を持つことを前提にしているからです。この矛盾をどう考えればよいのでしょうか。

さらに議論を延長して、こんなふうに考えてみます。たしかに巡礼者は宗教を信じていません。だから、かれらにとって聖地に特別な意味はありません。それでは、誰にとって聖地は特別な場所なのでしょうか。

もちろんそれは、宗教的信仰を持った人々にとってです。信仰なき巡礼者にとって聖地巡礼が輝きを帯びるのは、聖地を輝かしいものとして信仰している人の視点を取った場合においてのみです。つまり、信仰なき巡礼者にとっては、聖地が遠隔化されているだけではなく、信仰のあり方もまた間接化され、そのかぎりで維持されているのではないでしょうか。「私は信じていない。しかし、私は信じる人がいると確信している」と。このように考えてみました。

 
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アメリカの法哲学者の論評。

 

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