読書会とパラダイス

 

こんにちは!村田です。(批評鍋でいつも鍋を食べているだけの者です。)

京アカでブログを書くのは実に実に久しぶりでして、ブログもリニューアルしたことであるし、自己紹介もかねて「私にとって京アカとは」的なテーマで書いてみては、と勧めていただいたのでありますが、昨今京アカの活動にもめっきり参加できておらず(鍋を食べる以外)、勉強からも遠ざかり気味でありなんとも情けない思いであります。

とはいえちょくちょく読書会に参加したりもしておりまして、ずっと 「私にとって京アカとは」 と問われると「アカデミック出会い系みたいな感じ」と答えておったのですが、まさに以前に『構造と力』読書会を通じて知り合ったメンバーと、最近はフロイト読書会をしました。ひとりで考えるとすぐに行き詰まってぐるぐるしがちな性質なのでありますが、フロイトという著者はひとりで読むとぐるぐるしがちの極致のようなものであるから、いろんな専門の人が集まって、時代背景、他の思想家、現代の精神医学、はたまた個人的体験にも話を飛ばしながら読めたのは有難いことであり、大学を離れて久しいが、やっぱ勉強会ええなあ、と思ったのでありました。

さてそうしてわいわい勉強できることに感謝する一方で、わたしはじめじめひとりで何かすることも好きであり、じめじめひとりで何かして自足している人に憧れます。

たとえばわたしは「パラダイス」めぐりを趣味としているのであるが(「パラダイス」とはテレビ番組『探偵ナイトスクープ』で名付けられた、いかにも土地の余った田舎や郊外でたいていは中高年の男性が一人で、なんともいえない珍妙なオブジェ群やアトラクション群でもって或るワールドを作り上げてしまったものを指す)、「パラダイス」はアウトサイダーアートの一種であると思っておりその著名なものがシュヴァルの理想宮であると思うのですが「どこから/どこまでがアートか」という論にここでは深入りしたくないので「パラダイス」という絶妙な名称で統一しますが、パラダイスが好きなのは、それがひとり作者(パラダイサー)の世界観に基づいてその自足のために飽かずコツコツと作られているところです。勿論来場者の愉しみが考慮されていたりもするのだけど(でも独りよがりだったりする)、基本的に、儲けが度外視され作者が愉しんで作っている、というところに惹かれるのであります。

一方でこの自分の嗜好に私は疑念をもってきてもおりまして、それは、この嗜好は、オーソライズされていない者の作品(と呼んでよいか分からんが)に、しふぉん主義の中で失われたピュアネスやなんやを投影する、ある種失礼な「オリエンタリズム」、あるいは嘲笑的キッチュ趣味のようなものがベースにあるのでないか?という疑念であったのでありますが、先日先輩に「ものすごく絵が下手な絵付け職人」を教えてもらい、その人の作品を見、たしかに絵がすごく下手なのだが不思議な迫力のある世界が展開されているのを目の当たりにし、さらにその制作者の目が作品に凝らした工夫や趣向を語りながらきらきらと輝いているのを見たとき、「いや!違う!」と強く思うたのでした。「自分は、未熟だったり売れなかったりしても愉しんで描き続けている人が好きなのだな、そしてそうして描き続けることは『失われた』ことでなく、端的に自分にとって『まだ手に入れられていない』ことなのだな、だからこのパラダイス愛は敬意なんや……!」と強く感じたのでありました。

なんか勉強するとか論文書くとかいうのも絶対そういうパラダイス的側面をもっていると思うておりまして、そのように自身も、ひとりでじめじめとパラダイス的世界を作り上げつつ出会い系的世界にてその我がパラダイスを伝えられたらばまったく理想的なのでありますが、なかなか実際はひとりでは集中力が続かずに中途半端に出会い系に頼る、という凡人回路をぐるぐるしている日々です。
またなんか書きますね。

(画像はハニベ巌窟院の未完成大仏)

 

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