映画『誰も知らない』から「幸いとは何か」を考える

大窪善人
 




(1970年01月01日)

 

是枝裕和監督の映画『誰も知らない』(2004年公開)は27年前の1988年に起きた「巣鴨子供置き去り事件」に取材した作品です。今回はこの作品から「幸いとは何か」について考えてみたいと思います。

物語は、ある親子(母けい子と息子の明)がアパートに引っ越してくるところからはじまります。大家には「夫が単身赴任で息子と二人で住む」と伝えるが、じつは4人兄妹で、持ってきたスーツケースには幼い次男と次女が隠れていました。

子供たちはそれぞれ父親が異なり、出生届もなく、学校にも通わせてもらっていません。昼間は母が仕事に出かけ、兄妹の面倒をみるのは長男の明の役目です。他の兄妹は家の中で見つからないように遊びます。そんなある日、けい子は新しい恋人ができたと言ったまま家に帰らなくなってしまう。そこから、子供たちだけの生活がはじまります。

絶対的な悪意の不在

物語の終盤では、母親からの仕送りも滞り電気も水道も途絶えた中、妹の死という結末が訪れます。この映画を観た人は、道徳的な感情を惹起されるのではないでしょうか。

母親や父親がもっとまともであれば、周りの大人たちが見てみぬふりをしなければ、福祉制度がもっと十全に機能していれば…、と。私はこの作品を授業の教材に使っているのですが、映画を観た多くの人がそのような感想を寄せてくれました。

ところで、この映画でポイントだと思ったことがあります。それはこの映画の中には”絶対的な悪”のような存在が出てこないということです。たしかに、幼い子供たちを置き去りにした母親はひどい。周囲の人間や制度に問題があったという指摘はその通りでしょう。そこに反論の余地はありません。

しかし、その一方で、この母親だけに責任を帰責することができないのも確かでしょう。背後には、アパートの賃貸契約さえままならない母子家庭の置かれた社会環境の厳しい現実、そして、母子家庭の貧困・格差をむしろ増幅する「再分配の失敗」、女性の不利な労働環境に象徴される「市場の失敗」という構造的な問題が控えています。

張り巡らされた記号と躓き

ところで、この映画が内容に反して、あまり説教臭さを感じさせないのはなぜでしょうか。もちろん、極力ことばによる説明を省いた演出方法の貢献もあるでしょう。しかし、それ以上の理由があるようにも思われます。

社会学者・映画批評家の宮台真司氏は、作品のメッセージをこのように解釈しています。

88年の西巣鴨子供4人置き去り事件が素材だと聞いた観客は、可愛相な子供たちへの同情と無責任な親への憤激を期待しよう。だが現実に描かれているのは束の間に現出した「子供たちのパラダイス」。年長者ほどかつてあり得た子供時代を想起して感慨に耽るだろう。

〈世界〉はそもそもデタラメである』メディアファクトリー、2008年

作中、観客である私たちは、何度も”認知的不協和”に出会うことになります。たとえば、母親が出奔して、子供たちだけで遊びに行く場面。困窮のどん底にあるはずなのに、そのときにバックで流れる音楽(作中での数少ない音楽)がとても軽快であること。

そして、子供たちの表情が徐々に生き生きとした「輝き」を帯びてくること。それはまさに「パラダイス」と呼ぶにふさわしいものです。
あるいは、道端の花の実を摘むときに発せられる妹のつぶやき(自分たちの不幸の無自覚さ)にみられるような、さまざまな記号がさり気なく散りばめられます。

「幸いとは何か」についての両義的な感覚

この映画は、幸いについての両義的な感覚を呼び起こします。一方では、私たちが家族や社会、制度によって守られているがゆえに、生きることができるという事実(”妹の死”は、システムの外部では生きられないことを暗示します)。そして、システムが本質的に不完全なものである以上、そうした諸々の網の目からこぼれ落ちてしまう存在が必ず生み出されてしまうということ。

他方で、行政や市場によって象徴される「システムの命法」からこぼれ落ちてしまったがゆえに回復される「実存や世界の輝き」があるということ。その両方の認識のあいだで、私たちはいわば「宙吊り」にされるのです。

 

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