ニーチェ『喜ばしき知恵』:ポスト・トゥルー時代の「真理」とは?

大窪善人


喜ばしき知恵 (河出文庫)
フリードリヒ・ニーチェ
河出書房新社(2012-10-04)

 

知性が厖大な時間を費やして生み出したのは、誤謬以外の何ものでもない。[…]そうしたものに思い至った者、あるいはそれを遺産として継承した者は、生存競争において有利となり、首尾よく後継者を育てることができた。

ニーチェ『喜ばしき知恵』

去年は、アメリカ大統領選やブレグジットでの虚偽ニュース問題に見られるように、人々の感情的な訴えが世界を席巻し、「ポスト・トゥルー」が時代の言葉となりました。

(「ポスト・トゥルー」の社会(学)的条件についてはこちら 今年のまとめ:真理以後の時代?

阪大の三島憲一氏によれば、「ポスト・トゥルー」の新しさは、嘘をつく側が嘘を嘘だと思わないで叫ぶと、人々の感情が沸き立ち、議論がことの真偽とは別のところに持っていかれるところにあります。そこでは事実や真実はどうでもよく、かわりに陰謀論とか自分にとって都合のよいデマ、「アベノミクスは道半ば」といった反証困難な主張が幅を効かせます。

では、そのようなポスト・トゥルー時代で、真実を求めることは無意味なのでしょうか? あるいは、これまでどおり真実に訴え続ければよいのでしょうか。

生存の条件としての真理

ニーチェの議論がヒントになります。

真理とは、それなくしては特定種の生物が生きていることができないかもしれないような種類の誤謬である。

ニーチェ『力への意志』下

ニーチェの主張はかなりユニークで、彼は人間が生きるのは「真理」が必要だが、同時にそれは「誤謬」であると言います。どういうことでしょうか?

人間にとって「真理」が不可欠な理由は、それが人間にとって「生存の条件」になっているからです。つまり、自分にとって世界を都合良く解釈したものが真理であり、だからこそそれは誤謬でもあると。

一方、それとは別に人間が「本当の真理」を求めるようになったのは、歴史的にはむしろ新しいことだと言います。

紀元前500年頃、パルメニデスをはじめとする南欧のエレア派は、生存や感情といった人間の身体性を離れて(=賢者)、それ自体として成り立つ普遍的な真理(=論理)の探求を開始します。

さらにこの時代はギリシャの哲学者やイスラエルの預言者、インドの釈迦、中国の諸子百家など、世界各地で普遍思想が続々と登場します(「軸の時代」by ヤスパース)。たとえば、ギリシャの哲人ヘラクレイトス(紀元前540年〜前480年頃)は究極の真理を「万物流転」であると捉えます。釈迦もまた「諸行無常 諸法無我」が根本教理であると語りました。

ニーチェ的に言えば、”本当の真理”とは、じつは「実体的な真理が存在しない」という一種のカオスですが、そうした剥き出しの真理は、大半の人が生きていく上で無力で役に立たないどころか、むしろ有害ですらあります。

そこで、人々はもっともらしい理屈で生存と救済を約束する、さまざまな「仮象の世界」、つまりフィクションを作り上げてきたわけです。

「不時着」か「墜落」か

このように、絶対的な真理や正義を徹底的に否定するニーチェの思想は、20世紀後半のポストモダン思想を先取りしていたと言えるかもしれません。ですが、そうなると、ものごとの妥当性を判断するいかなる基準も、究極的には存在しないことになってしまいます。じつはそうなのです。

たとえば、12月に沖縄でオスプレイの事故がありましたが、NHKなど国内主要メディアが「不時着」と報道する中(私も違和感を感じました)、アメリカの「星条旗新聞」は「墜落」と報じていると話題になっています。しかし”crash”は「不時着/墜落」どちらにも訳せるのです。

つまり、今回の事故を小さく見積もりたい側は「不時着」と、大きく捉えたい側は「墜落」と主張しているのであって、純粋にどちらが真実であるか客観的に決めるのは困難です。なぜなら視点、視座が違えば何が「真理」かも変わってくるからです。

仮象の中に”真理”が宿る

それでは、はやり真理を求めることは無意味で、残る道は相対主義しかないのでしょうか。

いえ、そうではありません。

たしかに、ニーチェは、生存の条件としての「真理」がすべて誤謬でありフィクションであるとみなします。見る人の立場や状況によって真理は如何ようにも変化しうるからです。そして、私たちはそのいずれかのフィクションを常に選び取っているのです。

ではどうなるのか。どうすればよいのでしょうか。ニーチェの議論を延長すれば、とりあえずフィクションをフィクションと了解しつつ、その中に飛び込んで行って楽しむ、この構えではないでしょうか。つまり、すべては仮象に過ぎない、しかし、そのうたかたの夢のなかに一瞬”真理”が宿りうるのだ、と。

私にとっては仮象こそが、作用をもたらすもの、生きているものそのものである。そして仮象は、自らを嘲笑しながら、私にこう思い込ま せる。──ここには仮象と鬼火と亡霊の乱舞があるばかりだと。そして、「認識者」たる私もまた、これらの夢見る人びと に混じって自らの踊りを舞うのだと。

ニーチェ『喜ばしき知恵』

 

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