G・バタイユ『魔法使いの弟子』

大窪善人


魔法使いの弟子
ジョルジュ バタイユ
景文館書店(2015-11-15)

 
「魔法使いの弟子」は、フランスの作曲家 ポール・デュカスの管弦楽曲。
ある日、雑用を言いつけられた魔法使いの弟子が、師匠のいぬまに水汲みの仕事をさせようと、ほうきに魔法をかける。しかし、見習いは魔法を解く呪文を知らなかったので、部屋はみるみる水であふれて大惨事。そこへ魔法使いが戻ってきて、辛くも救い出された。

バタイユは、恋愛について書いたこの本に〈魔法使いの弟子〉と名づけます。でも、どうしてなのでしょうか?

 
欲望がないことは、満足がないことよりも不幸だ

この論文が書かれたのは1938年。世界大戦の火が迫る激動の時代です。
一方、科学・学問は細分化し、世界の全体を見通しえないことへの不安と羨望が渦巻いていました。

人々が生きる意味を見失っている時代。彼は、真の人間性の回復の場を、恋人たちの関係に見出します。

解体した世界のなかでは、《愛する存在》こそが、生命の熱へ人を返す美徳を保ち続ける唯一の力になっているのだ。

でも、なぜか。それは、恋人たちの親密な関係が、お互いの全人格的な承認だからです。

複雑化し、機能分化した近代社会では、大半の人間関係は条件付きです。「あなたはこの会社にいていいよ。ただし、働いて利益を持ってくるあいだはね」。損得や打算、私利私欲…。ただ、そのような目的の檻から免れて、十全な人間性を取り戻せるのが、恋愛関係であるというのです。

そこで決定的に重要な働きが、”偶然性”です。

愛する存在の選択―この選択の前では、論理的に表現される別の選択の可能性は嫌悪を催させる―を決定しているのもは、もとをただせば、ひとまとまりの偶然なのである。

恋人たちの関係を形づくる要素は、整然とした目的・手段の一致とは逆に、思いがけない”幸運(ラッキー)”や”運命”、もっといえば、割に合わないギャンブルに大金を賭ける過剰さなのです。   

 
偶然を必然化する

しかし、この”偶然性”には、逆に、二人の関係を解いてしまう危うさもあります。なぜこの関係が大切なのか。一緒にいる理由などないではないか、と。

ところで、海外の映画やドラマに見られる、深い愛情で結ばれた者同士がなす包容やキスは、どこか呪術的な儀式を思わせるところがあります。

そこには、偶然を必然化する仕組みが働いています。つまり、恋人の関係に根拠を与えるのは、二人のあいだに共有された「秘密(アルカナ)」の実践なのです。

 
手品師と魔法使いのちがい

かくして、冒頭の問いに答えることになります。なぜ恋愛論のタイトルが〈魔法使いの弟子〉なのか。

秘密の儀式を行う魔法使いの弟子は、結局、自ら生み出した魔法を持て余し、暴走させてしまいます。
他方、〈魔法使い〉に対置されるのは〈手品師〉です。手品師は、手品の種を知っているので、どれだけ不思議に見えるわざも、所詮かれの制御下にあるにすぎません。

魔法という神秘的な現象、そして、魔法が使い手の意図をこえて発動し、翻弄していくさまは、まさに、恋愛がなす偶然と必然との微妙な境界をあらわす、この上なく優れた表象だからではないでしょうか。

 

 

G・バタイユ『魔法使いの弟子』」への1件のフィードバック

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