西尾維新『偽物語(下)』書評

浅野直樹

西尾維新『偽物語(下)』の書評です。


偽物語

講談社(2009年07月22日)

西尾維新『偽物語(上)』書評 | 京都アカデメイア blogでは、自分の意志を強く持たずにまわりに流されるのが偽物であり、阿良々木火憐は偽物的であると書きました。その理屈でいくと、阿良々木月火も偽物的です。もっとも、この二人にはちょっとした違いがあります。火憐の場合は目的が正義であり、月火の場合は趣味が正義なのです(p.167)。「他人のために正義を実行するのが火憐ちゃんなら、他人の影響で正義を実行するのが私なんだよ」(p.169)と月火が語っているのも同じことでしょう。

本物―偽物は正義と関係しているようなので、以下では正義について考えます。

「究極的に言って、正義と悪は対立軸では語れないのである」(p.12)や、「大雑把に言って――正義の敵は、別の正義だ」(p.272)と語られていることからしても、一元的な正義ではなく多元的な正義が想定されています。影縫余弦の正義もあれば、阿良々木暦の正義もあるわけです。そしてその別々の正義がぶつかるとバトルになります。

この点において、「(西尾維新には)九〇年代後半的な「引きこもり」からゼロ年代前半的な「決断主義」への転向が見られる」(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008)p.127)と論じられていたのは正しかったと言えそうです。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です