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【まとめ】第5回批評鍋 『ゆとり京大生の大学論』

百木です。第5回目の批評鍋では『ゆとり京大生の大学論』を取り上げました。

この本は、昨年から京大で起こった「大学改革」の流れをうけて、現役京大生(ゆとり京大生)6人が自主的に企画して出来上がった本です。
拙速に進もうとしている「大学改革」(教養制度改革)に対して、一度立ち止まってそもそも大学とは何か、教養とは何か、を学生の立場から考えなおしてみよう、というのがこの本の趣旨になっています。(昨年起こった大学改革騒動の経緯についてはこちらの記事をご覧ください)
本の構成としては、ノーベル賞受賞者の益川敏英さんへのインタビューや、その他京大を中心に著名な先生方からの寄稿文などから構成される第一部と、この本を企画した「ゆとり京大生」たち自身による座談会をまとめた第二部の、大きく二つのパートに分かれています。


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当日は、この本の編集・企画者のひとりである安達千李くんがゲストで参加してくれました。このような本を作ろうと思った経緯から、作る過程での苦労話、作り終えたあとでいろいろ考えたこと、本に盛り込めなかった裏話など、いろいろと興味深い話を聞かせてくれました。
拙速な大学改革の流れにも、それに対する大学教員の反対運動にも、どちらにも違和感を感じていた安達くんたちは、仲間と連日深夜までこの問題について議論し合い、その議論の内容を本というかたちで残そう、と考えたそうです。構想から出版まで約半年間かかったそうですが、学生たちの手で企画・編集をして半年間で出版にまでこぎつけたのは、なかなか大したものだと思います。
周囲からもいろいろと反響があり、出版記念のイベントもいくかの書店や読書会などで行なわれたそうです。

読売新聞の紹介記事:「ゆとり世代 京大生の大学論…6人で編集・出版」
毎日新聞の紹介記事:「京都・読書之森:ゆとり京大生の大学論 /京都」

批評鍋参加者からの感想としては、

揶揄/自虐にむかいがちな「ゆとり世代」をポジティヴにとらえてるのが新鮮
・ゆとり世代の大学論ということで、ある種の若者論としても読めるのでは
・先生方のパート(第一部)より、ゆとり学生の座談会(第二部)のほうがおもしろかった
・「自由の校風」という京大のノスタルジーに代わる視点はあるのか?
・社会問題への接続、という観点があっても良かった
・研究者になるか・企業につとめるかというふたつの道しか提示されてないのが不満
・いろいろな先生が昔を語っているが、経済的問題についての観点(授業料・生活費など)が抜け落ちている
・高橋先生のいう大講義のよさをつきつめれば、インターネット配信になるのでは

などといった意見・批判・疑問などが出されました。

それに対する安達くんからのレスポンスやその後の議論などが気になる方はYouTubeに残されている動画などを見ていただければと思います。
後半は、京大の理念と現実の乖離、大学改革の現状、大学外での学びの可能性と課題、などにも論点が及びました。
個人的に興味深かったのは、大学外での学び(ラーニング・コミュニティ)について、安達くんから、1)場所、2)人、3)質、の3点をどう確保するのか、という課題が投げかけられたことです。この問題は、まさに「大学の外での学びの可能性」を追求してきた京都アカデメイアが抱える課題でもあります。それに対しても、参加者からいくつかのレスポンスがあったので、こちらも関心ある方は動画をご覧ください(動画後半のほうです)。

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今回の大学改革は京大だけの問題ではなく、日本の大学全体の問題へと発展しつつあります。それが悪い面だけを持っているわけでもないと思うのですが、やはりいろいろと疑問に感じてしまうところがあるのも事実です。もはやこの改革の流れは止めようがないもののようにも思えますが、この『ゆと京』本のように、それぞれの立場からこの問題について考え・議論し、声をあげるべきところで声をあげていくことはとても大切なことだと思います。
これも個人的な感想として、この本で一番印象に残ったのは、「いまこそ大学に〈ゆとり〉が必要なんじゃないか」という座談会でのゆとり大学生の発言でした。本当にその通りだなぁ、と感じました。「ゆとり乙」と揶揄されがちなゆとり世代ですが、むしろその強みを活かして、ゆるい立場から・しかし本質的な問題に切り込んでいる彼・彼女らの姿にこそ、いまの大学の希望があるのかなぁと思ったり、自分もそれに負けずに頑張らねばなぁと思った次第です。

大学のあり方、大学で学ぶ意味、大学の外で学ぶ可能性、教養とはなにか、なぜ学問するのか、などのテーマは、これまでも京都アカデメイアのイベントの中でたびたび議論されてきたことですが、今回の批評鍋でまた少しその議論を前に進めることができたかなと思っています。今後もこれらのテーマについてはいろんな機会に考え続けていくつもりです。

参考:大窪くんによる書評:吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)

【告知】第5回批評鍋『ゆとり京大生の大学論』

百木です。
次回イベントのお知らせです。
今月は批評鍋ustを行ないます。

批評鍋は毎回一冊の本を決めて、その本についての感想を京アカメンバーが話し合い、それをust放送するというものです。
今回の課題本は『ゆとり京大生の大学論』です。

この本は昨年からの京都大学での「大学教養改革」の流れを受けて、
現役京大生(ゆとり京大生)たちが自ら企画・編集して出来た本です。
ノーベル賞を受賞した益川敏英先生など、著名な先生方へのインタビューや
「教養とは何か?」についての寄稿文を集めているほか、
現役京大生の座談会なども収録されており、なかなか興味深い内容になっています。
新聞記事でも取り上げられるなど、京大周辺では好評を博しているようです。

今回はこの本の編集者のひとりでもある安達千李くんをゲストに招いて、
京アカメンバーで本の感想や、いまの大学や「教養とは何か」について
皆で語ってみたいなと考えています。
時間帯は以下のとおりですので、関心ある方はぜひご覧ください。
よろしくお願いします。

<第5回批評鍋>
日時:8月16日(金)15時~17時半
課題本:『ゆとり京大生の大学論』
ustアドレス:http://www.ustream.tv/channel/kyoaca

イベント報告・4月 京アカ「批評鍋」

発達障害 ヘンな子と言われつづけて

発達障害 ヘンな子と言われつづけて

4月の京アカ「批評鍋」の課題本は、高橋今日子『発達障害 ヘンな子と言われつづけて』(明石書店)。著者の高橋今日子さんは25歳のときに発達障害であると診断を受け、現在は発達障害者を支援する団体を立ち上げ活動を行なっている。本書は発達障害と診断されるまでの幼稚園、小・中・高時代、社会人時代に感じた受難、苦痛が一人称で語られている伝記的な本だ。

今回は京都アカデメイアのメンバーで、引きこもりや問題行動・非行などの相談室を開設している船越克真さんに参加していただき、発達障害の種類・特徴や診断方法についての解説をしていただいた。

後半の議論パートでは、発達障害から、障害と社会の関係について話し合った。発達障害がいつの時代にもある病気なら、昔はどのように処遇されてきたのか。また、近年の日本で発達障害への注目が高まってきているのはなぜなのか…。その背景として、職場や社会におけるコミュニケーション能力の要求の上昇や産業構造の転換があるということにまで話が及んだ。

本書を読んだ人には、著者の経験との不思議な近さを感じた方も少なくないのではないだろうか。たとえば自分を「ドジ」とか「ノロマ」だと感じる人は普通にいる。もちろん、発達障害者と普通の人とでは一定以上の格差があるわけだが、見方を変えれば、程度問題だと言えないこともない。病と聞くと、まずは治療すべき対象だというふうに思いがちだ。しかし、社会や時代によって何が病であるのかはじつは自明ではない。かつては正常だとみなされた振舞いが時代や社会が変われば診断の対象になることは珍しいことではない。病とはひとつの社会現象であると言うことができるかもしれない。その意味では、病は、社会の自画像を映し出す反響板になっているのである。

大窪善人

参考文献:

やさしい発達障害論 (サイコ・クリティーク)

やさしい発達障害論 (サイコ・クリティーク)

<批評鍋>宇野常寛「PLANETS」Vol.8

今月も出町柳で京アカ「批評鍋」を開催した。今回ではや3回目を迎えたこの企画。今回は宇野常寛編集のミニコミ誌「PLANETS」Vol.8を取り上げた。最初にことわっておくと、京アカではこれまで、いわゆるサブカル系の書籍はあまり扱ってこなかった。その意味では今回の企画は、ひとつの挑戦でもあった。詳しい内容はUstreamのアーカイブで見ることができるが、京アカのメンバーの論評は辛口で、批判的なコメントも多かった。しかし、それは単なる批判にとどまるものではなくて、結果的には、「PLANETS」と京都アカデメイアとが、ちょうど鏡のようにしてお互いを映し出しているように見えた。

失われた20年

「失われた20年」、これは現代の日本社会の経済状況を表現する言葉である。1990年代初頭のバブル崩壊後の平成不況、そして、2000年代前半の自民党 小泉改革によって一度は回復しかかったかに見えた経済も、2007年頃から顕在化した米国のサブプライムローン問題に端を発した世界的な経済危機によって頓挫してしまった。つまり、この20年間もの間、日本経済の成長や発展は、ずっと失われ続けてきたというわけだ。

だが、この本ではそれとはまったく別のパースペクティブを開こうとする。まずはじめに、なぜこの20年間が失われてきたのか、この問いから議論はスタートする。その解答は、戦後日本を支えてきた経済や政治のシステムが新しい時代に対応できなくなってきているのに、依然として従来のシステムを前提に社会が動いているからである、と。そして、そこでいま必要なのは、そうした古いシステムを21世紀に対応した新しいシステムに置き換えること、つまり、「社会のOSのアップデート」であるということが主張される。
<夜の世界>から<昼の世界>へ

それでは、その「新しいOS」とは何なのか。果たして希望はどこに見出されるのだろうか。キーワードは「情報社会」と「日本的想像力」である。「ソーシャルメディア・ゲーミフィケーション・拡張現実」と題された巻頭の2つの基調座談会からはじまる特集記事、あるいは、この本全体がこの2つのキーワードを軸に貫かれている。そこでの議論でまず驚かされるのは、AKB、ニコニコ動画、初音ミク、Twitter、LINE、評価経済、アノニマスなどの、圧倒的な量と速度で提示される固有名群であろう。また、そのほとんどはこれまで公共的な場面ではほとんど取り上げられてこなかったような固有名である。つまり、これらはすべて<夜の世界>で生まれ、語られてきた言葉なのだ。

「失われた20年」と呼ばれた日本社会の裏側では、情報技術の発達を背景にして、じつは様々な新しいサービスやカルチャーが(ひそかに)生成していたのである。そこでおもしろいのは、そうした技術やサービスがかならずしも日本生まれのものではないということだ。たとえば、Twitterやニコニコ動画にせよ、もともとは米国由来のブログや動画共有サイトを下敷きにして広まったサービスである。しかしそれは、輸入した技術を単に受容したというわけではなく、たとえば、2ちゃんねる由来のネタ的コミュニケーションとか、ある種のキャラクター文化などと結びつきながら日本独自の進化を見せていった。

これまで一般にはほとんど注目されることがなく、あるいは「ガラパゴス的」なものとして単に軽蔑されてきた技術や発想の可能性の側面に光を当てようというのが議論の焦点である。いや、本書の主張はもっとラディカルでかつストレートである。つまり、「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理」へと置き換えることである、と。

<夜よりも暗い夜の世界>から

最後に、当日の議論では充分に触れることができなかった部分について少し補足しておくことにしよう。さて、本書は「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理とする」ことを目指しているわけだが、ここで改めてその意味について考えてみたい。

本書の特徴として指摘しておくべきことは、編集の宇野さんを含めて、参加者の多くが20代後半から30代が中心と非常に若い書き手、論者だということだ。だからといって、その議論の水準が低いということはまったくなく、示唆的な論考にあふれている。

ところで、世代的な区切りでいえば、かれらはいわゆる「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる世代に当たる。つまり、本当は能力があったにもかかわらず、力を発揮する機会に恵まれなかった、いわば、明るい<昼の世界>に対して、<夜の世界>の住人たちである(もちろん世代論ですべてがうまく説明できるわけではまったくないにしても、ある種の側面を捉えることはできるだろう)。考えてみれば、正規の出版ルートを介さずに同人誌的に展開してきた「PLANETS」という雑誌自体、<夜の世界>のメディアとして、文芸・サブカルチャー評論を通じて<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理へと「ハッキング」することを成功させてきた象徴的な存在だったのではないか。

ただ、そこであえて疑問を挟むとすれば、「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理とする」というスローガンは強い批評的(あるいは政治的な)メッセージであるということだ。『リトル・ピープルの時代』(2011年)で示された「小さな父」として成熟するというアイデアとか、あるいは批評家 東浩紀に対するかつての執拗な批判は、「絶対に正しい正義が存在しない」というポストモダン状況をある意味で、より徹底させるという結果であるように思われる。であるならば、少なくとも、<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理へと置き換えるといった場合には、むしろ、その正当性が問われざるを得ず、さらに、その正当性を支える別の原理(根拠)を考えることが必要とならざるを得ないのでないか。あるいは、それは小さな個々人がそれぞれ競合しながら「決断主義的」に乗り越えていくべき問題に過ぎないのだろうか。

ところで、筆者は宇野さんのちょうど10歳下で、世代的にはいわゆる「ゆとり世代」に当たる。ポスト・「ロスト・ジェネレーション」とは、まさに「失われたことが失われた世代」である。しかし、それは案外悲惨なことではなく、「絶望の国の幸福な若者たち」(古市憲寿)として、それなりに楽しくやっていけているということなのかもしれない。あるいは、そのような状況自体が本当は悲劇的なことなのかもしれないが―。いずれにしても、、そのストーリーがおおむね正しいとするなら、「PLANETS」とは別の原理や戦略を立てる必要があるのかもしれない。<夜の世界>ならぬ、<夜よりも暗い夜の世

湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』感想補足

ヒーローを待っていても世界は変わらない

ヒーローを待っていても世界は変わらない

百木です。先日の批評鍋(ust放送してる読書会のようなもの)で読みました。当日は、参加型民主主義の可能性やリーダーシップ型民主主義の是非などで議論が盛り上がりましたが(個人的にはIくんの言っていた「フォロワーシップ」という言葉が面白いなと思いました)、批評鍋の時間中にコメントできなかったことをここで書いておきます。僕がこの本を読んでいて個人的に面白いと思ったのは、第3章「私たちができること、やるべきこと」の中で紹介されていた具体事例でした。例えば以下のようなものです。

被災地の仮設住宅などでは、たいていの場合、中年女性はすぐに近隣の人と人間関係を築き、情報交換や必要な物の交換などをするようになるけど、中年男性はそういう人間関係を築くのが苦手で、仮設住宅に引きこもってしまうよう人が多いそうです。中年男性は会社などの職場ではうまく人間関係を築けていても、一歩その外に出ると社交ベタな人が多いと。その結果、いま被災地周辺ではパチンコ屋がたくさんできていて、行き場のない中年男性がそこに集まってしまうそうです。悲しい話ですが、いざ自分もそういう立場に置かれたら同じ状況に陥らないとは言い切れません。

そこでさらに紹介されている事例が興味深くて、そういうおじさんたちに「見守り部長」とか「出納担当課長」とかの名刺を配って仕事をお願いすると、彼らは急に張り切り出すそうです。肩書きのついた名刺をもらった途端に、「しかたないな、俺がやらねば」とか言い出して、急に周辺の仮設住宅に挨拶まわりを始めたり、リーダーシップをとって仕切りだしたりする。「複雑な気持ちになりますが…」と湯浅さんは書いていたが、なるほど上手いやり方があるものだな、と思いました。

おじさんたちのプライドを傷つけないように、できるだけうまくおだててあげながら、良い仕事をして良い人間関係を築いてもらうことが大切なのですね。なぜなら中年男性にとっては「周囲から認められる仕事を与えられている・している」という認識が社会関係を形成するうえで、非常に重要なファクターなっているから(少なくともいまの日本では)。その点、女性のほうがそういう非常事態には臨機応変で人間関係を築くのが上手だということなのかもしれません。(もちろんケース・バイ・ケースでいろんな人がいるとは思いますが。)

あと、「足湯」ボランティアの試みも興味深かったです。今回の震災でも行われた「足湯」ボランティアは、単に足を温めることだけが目的ではないそうです。ボランティアの人がいきなり被災地を訪ねていって「大丈夫ですか」と聞いてまわっても、被災地の人たちからは「大丈夫です」という答えしか返ってこない。その結果、なかなかうまく被災者のニーズを汲み取ることができない。そこで編み出され普及したのが足湯だそうです。

椅子を並べて希望者に座ってもらう。椅子の前にたらいを置き、お湯をはっておく。ボランティアの人がたらいの先にしゃがみ、足をさすってあげたり、終わったときに足を拭いてあげたりする。その状況が15分間くらい続きます。ボランティアの目線は足湯をしている人の目線よりも下の位置にある。「熱すぎませんか」「温まってきましたか」などと聞かれるうちに「最近どうですか」という話になる。そうすると気持ちがリラックスする状況もあり、そこから逃げ出すわけにもいかないというわけで、うまく被災者の方々の本音を聞き取ることができるそうです。これもなかなかよく考えられた仕組みですね。

他にもこういった事例がいくつか紹介されていて、本論からはややずれる話なのですが、そういった事例紹介が個人的には一番面白かったです。

新春企画☆批評鍋

みなさまこんにちは、遅ればせながら新年あけましておめでとうございます、今年もゆるゆると活動してゆく予定ですので、よろしくお願いいたします。

先日、新年初京アカイベントを開催しました。題して「批評鍋」。
ネーミングのてきとーさからお分かりいただけるように、年末にノリで決まった企画です……が、いざやってみると、なかなか白熱した会になりました。

第一回は、phaさんの『ニートの歩き方』という本を取り上げて語り合いました。
「鍋をつつきながら批評ぽいことをしよう」という主旨のイベントだったのですが、後半は議論がヒートアップし、鍋を食べているのは私だけになり、ついに鍋の火が止まるという事態に……。

詳しい内容は、他のスタッフが書いてくれることを期待して、とりあえず鍋の写真だけupしておきますね☆
なお、「批評鍋」は来月以降もやる予定です。
話題の本だけでなく、論壇やサブカル一般もテーマにとりあげたいなあ、という声もありますので、ご興味ある方はぜひご期待ください! 参加も歓迎です。

最初の鍋。白い。

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赤くなった! 紅白で縁起良し

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具材は持ち寄りで。
牡蠣!

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仙台土産、ずんだ風味きのこの山!

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