PLANETS vol.8
- 作者: 宇野常寛,濱野智史,安藤美冬,猪子寿之,荻上チキ,開沼博,萱野稔人,國分功一郎,駒崎弘樹,鈴木謙介,速水健朗,福嶋亮大,藤村龍至,古市憲寿,水無田気流,吉田徹,與那覇潤,尾原和啓,中川大地
- 出版社/メーカー: 第二次惑星開発委員会
- 発売日: 2013/01/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今月も出町柳で京アカ「批評鍋」を開催した。今回ではや3回目を迎えたこの企画。今回は宇野常寛編集のミニコミ誌「PLANETS」Vol.8を取り上げた。最初にことわっておくと、京アカではこれまで、いわゆるサブカル系の書籍はあまり扱ってこなかった。その意味では今回の企画は、ひとつの挑戦でもあった。詳しい内容はUstreamのアーカイブで見ることができるが、京アカのメンバーの論評は辛口で、批判的なコメントも多かった。しかし、それは単なる批判にとどまるものではなくて、結果的には、「PLANETS」と京都アカデメイアとが、ちょうど鏡のようにしてお互いを映し出しているように見えた。
失われた20年
「失われた20年」、これは現代の日本社会の経済状況を表現する言葉である。1990年代初頭のバブル崩壊後の平成不況、そして、2000年代前半の自民党 小泉改革によって一度は回復しかかったかに見えた経済も、2007年頃から顕在化した米国のサブプライムローン問題に端を発した世界的な経済危機によって頓挫してしまった。つまり、この20年間もの間、日本経済の成長や発展は、ずっと失われ続けてきたというわけだ。
だが、この本ではそれとはまったく別のパースペクティブを開こうとする。まずはじめに、なぜこの20年間が失われてきたのか、この問いから議論はスタートする。その解答は、戦後日本を支えてきた経済や政治のシステムが新しい時代に対応できなくなってきているのに、依然として従来のシステムを前提に社会が動いているからである、と。そして、そこでいま必要なのは、そうした古いシステムを21世紀に対応した新しいシステムに置き換えること、つまり、「社会のOSのアップデート」であるということが主張される。
<夜の世界>から<昼の世界>へ
それでは、その「新しいOS」とは何なのか。果たして希望はどこに見出されるのだろうか。キーワードは「情報社会」と「日本的想像力」である。「ソーシャルメディア・ゲーミフィケーション・拡張現実」と題された巻頭の2つの基調座談会からはじまる特集記事、あるいは、この本全体がこの2つのキーワードを軸に貫かれている。そこでの議論でまず驚かされるのは、AKB、ニコニコ動画、初音ミク、Twitter、LINE、評価経済、アノニマスなどの、圧倒的な量と速度で提示される固有名群であろう。また、そのほとんどはこれまで公共的な場面ではほとんど取り上げられてこなかったような固有名である。つまり、これらはすべて<夜の世界>で生まれ、語られてきた言葉なのだ。
「失われた20年」と呼ばれた日本社会の裏側では、情報技術の発達を背景にして、じつは様々な新しいサービスやカルチャーが(ひそかに)生成していたのである。そこでおもしろいのは、そうした技術やサービスがかならずしも日本生まれのものではないということだ。たとえば、Twitterやニコニコ動画にせよ、もともとは米国由来のブログや動画共有サイトを下敷きにして広まったサービスである。しかしそれは、輸入した技術を単に受容したというわけではなく、たとえば、2ちゃんねる由来のネタ的コミュニケーションとか、ある種のキャラクター文化などと結びつきながら日本独自の進化を見せていった。
これまで一般にはほとんど注目されることがなく、あるいは「ガラパゴス的」なものとして単に軽蔑されてきた技術や発想の可能性の側面に光を当てようというのが議論の焦点である。いや、本書の主張はもっとラディカルでかつストレートである。つまり、「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理」へと置き換えることである、と。
<夜よりも暗い夜の世界>から
最後に、当日の議論では充分に触れることができなかった部分について少し補足しておくことにしよう。さて、本書は「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理とする」ことを目指しているわけだが、ここで改めてその意味について考えてみたい。
本書の特徴として指摘しておくべきことは、編集の宇野さんを含めて、参加者の多くが20代後半から30代が中心と非常に若い書き手、論者だということだ。だからといって、その議論の水準が低いということはまったくなく、示唆的な論考にあふれている。
ところで、世代的な区切りでいえば、かれらはいわゆる「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる世代に当たる。つまり、本当は能力があったにもかかわらず、力を発揮する機会に恵まれなかった、いわば、明るい<昼の世界>に対して、<夜の世界>の住人たちである(もちろん世代論ですべてがうまく説明できるわけではまったくないにしても、ある種の側面を捉えることはできるだろう)。考えてみれば、正規の出版ルートを介さずに同人誌的に展開してきた「PLANETS」という雑誌自体、<夜の世界>のメディアとして、文芸・サブカルチャー評論を通じて<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理へと「ハッキング」することを成功させてきた象徴的な存在だったのではないか。
ただ、そこであえて疑問を挟むとすれば、「<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理とする」というスローガンは強い批評的(あるいは政治的な)メッセージであるということだ。『リトル・ピープルの時代』(2011年)で示された「小さな父」として成熟するというアイデアとか、あるいは批評家 東浩紀に対するかつての執拗な批判は、「絶対に正しい正義が存在しない」というポストモダン状況をある意味で、より徹底させるという結果であるように思われる。であるならば、少なくとも、<夜の世界>の原理を<昼の世界>の原理へと置き換えるといった場合には、むしろ、その正当性が問われざるを得ず、さらに、その正当性を支える別の原理(根拠)を考えることが必要とならざるを得ないのでないか。あるいは、それは小さな個々人がそれぞれ競合しながら「決断主義的」に乗り越えていくべき問題に過ぎないのだろうか。
ところで、筆者は宇野さんのちょうど10歳下で、世代的にはいわゆる「ゆとり世代」に当たる。ポスト・「ロスト・ジェネレーション」とは、まさに「失われたことが失われた世代」である。しかし、それは案外悲惨なことではなく、「絶望の国の幸福な若者たち」(古市憲寿)として、それなりに楽しくやっていけているということなのかもしれない。あるいは、そのような状況自体が本当は悲劇的なことなのかもしれないが―。いずれにしても、、そのストーリーがおおむね正しいとするなら、「PLANETS」とは別の原理や戦略を立てる必要があるのかもしれない。<夜の世界>ならぬ、<夜よりも暗い夜の世