下重暁子『家族という病』:なぜ家族は病なのか?

大窪善人
 

 
下重暁子さんの『家族という病』が売れている。発売1ヶ月で7刷りだといいます。
この本は、作家・エッセイスト、元テレビ・アナウンサーである著者が、一人称で家族について綴った内容になっています。内容的にはとくに奇抜な見方や主張が書かれているわけではないと思うのですが、にもかかわらず多くの人をひきつけているのはなぜでしょうか。

ほんとうはだれも家族を知らない

家族とは人間にとっておよそもっとも身近な関係性でしょう。たとえば英語で”親しみ”とか”なじんでいる”を意味する”familiar”は”家族”を意味する”family”から派生した言葉ですし、あるいは、「血は水よりも濃い」という日本のことわざがあることからも、家族の結びつきの重要性が語り継がれてきたことがわかります。だから、誰もが、「自分の家族のことは自分が一番よく知っている」と自然に考えるわけです。

これに対して著者の主張は正反対のものです。つまり、ほんとうは、自分の家族のことを一番わかっていないのは自分自身なのだ、と。

たとえば、作中ではこんなエピソードを紹介しています。著者はNHK文化センターでエッセイ教室を開催されているのですが、そこに通っているある女性には100歳になる母親がいて、月に何度か訪れて会話をするのだといいます。

そこで彼女が最近とても驚いたことがあるといいます。というのは、彼女はいままで、自分の母親の好物はずっと刺身だと思っていたのですが、じつは本当に好きだったのは”うなぎ”だったのです。つまり、一番身近な存在である家族の好物が何なのかすら、ほんとうはわかっていなかったのです。

「主人」ではなく「つれあい」

著者は夫のことを「主人」ではなく「つれあい」と呼んでいます。あるとき、雑誌のインタビューで「つれあい」と言ったところが「主人」に直されていて不自由な思いを味わったそうです。たしかに、主人という呼び方はよく使われますが、それは、家の中では夫が中心だという考えにもとづいている、というわけです。

また、年賀状に家族写真を入れるという文化にも苦言を呈します。そもそも個人同士の挨拶の場面に家族が出てくるのは「幸せの押し売り」であるというのがその理由です。
そこに表れているのは、著者の徹底した個人主義と個人の自立という姿勢です。こうした考え方の背景には、おそらく著者自身の家族体験の影響があると思うのですが、ここでは説明を割愛します。

「〜からの疎外」と「〜への疎外」

さて、当初の問いは、なぜこの本が多くの人の注目を集めたのか、ということでした。つまり、「家族」とはほんとうはよくわからない、一種の病みたいなものだという主張が。

これに答えるには、社会学者 見田宗介さんの図式が役に立ちます。
見田さんは『現代社会の存立構造』(真木悠介名義)という本の中で、マルクスの疎外論「Aからの疎外」は「Aへの疎外」を前提にしたものだということを論じました。

少し説明してみます。普通、常識的に考えれば、Aがほしいのに手に入らないがゆえに感じる不自由は、「Aからの疎外」として考えることができます。だから、もしAが十分に手に入りさえすれば、その人の不自由は取り除かれることになります。

しかし、これには前提条件があるというのが見田さんの議論です。それが「Aからの疎外」に先行する「Aへの疎外」という図式です。
そもそも、その人がAを魅力的だと思わなければ「Aからの疎外」は痛手でも何でもないでしょう。たとえば、あるアイドルのコンサートのチケットが手に入らないとしても、はじめからアイドルに興味がなければなんの不自由もありえません。

では、この「Aへの疎外」からどんなことがわかるのでしょうか。それは、そのAが、ほんとうは必然でも自明でもないのだ、ということです。

このAに家族を当てはめてみましょう。
私たちは家族について「本来の家族はこうあるべきだ」という理想像を考えています。しかし理想と現実の間にはいつもギャップがあります。だから、問題が起きたとき、「私の家族はどうしてうまくいかないのか」と悩み苦しむことになるのです(=家族からの疎外)。

しかし、そうした「理想の家族から疎外」される以前に、私たちはまず「理想の家族へと疎外」されている、ということが重要です。「理想の家族」の内実は、多くの家族研究が示す通り、歴史的にも階級階層的にもじつは非常に特殊なものです。
そして、その構造にいったん気がついたなら、もう、ある理想に引きづられて家族について悩む必要はなくなっているはずです。

下重さんの本が多くの人に注目されたのは、この本がみんなを縛り付けている「ある理想の家族」という負担から解放してくれるものだからではないでしょうか。

そして、その先にあるのは、個々人が個々人から出発して、それぞれにとっての理想の家族をお互いに考えながら作っていくという「家族への自由」ではないでしょうか。

私達は家族を選んで生まれてくることは出来ない。産声をあげた時には、枠は決まっている。その枠の中で家族を演じてみせる。[…]家族団欒という幻想ではなく、一人ひとりの個人をとり戻すことが、ほんとうの家族を知る近道ではないのか。

 

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