「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」を開催しました

 
8月4日、山の学校で「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む」を開催しました。ご参加いただきありがとうございました。

告知エントリ

宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」を題材に、社会の中で生きるということについて考えました。

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「銀河鉄道の夜」は、幻想的な寓意に満ちた作品です。「銀河」「鉄道」「どこまでも行ける切符」「駅」「ほんとうのさいわい」「離陸」「帰還」… それはさながら、線というよりは点の布石が、やがて図形になったときの驚きに似ています。そして、物語をこえて想像力が惹起されるのは、線と線との思いがけない繋がりを見つけたときです。

IMG_3971tなんと、教室の上に賢治の「雨ニモマケズ」の書が掛けてありました(!)

賢治の生家は熱心な真宗の家系だったといいます。また後年には日蓮宗の信仰に入ってきます。たしかに賢治の作品には、端々に一種の宗教的な信仰を見て取れます。では、賢治の作品はひとつの宗教的なメッセージを伝える作品なのでしょうか。

ところで、「銀河鉄道の夜」には「ここが自分の降りるべき駅だ」と言って汽車を降りていく人たちが描かれます。社会学者 真木悠介=見田宗介さんは、「ひとつの宗教を信じることは、いつか行く旅のどこかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ」と言います(『自我の起原』)。しかし物語の主人公であるジョバンニの切符は、終点のない「どこまでも行ける切符」なのです。

ある宗教を信じるということは、ここではない「彼方に」ほんとうの答えを描くということです。しかし、ジョバンニの旅は、その「彼方」さえも越えて行こうとすることではないでしょうか。「いまここ」や「彼方」には答えはない。しかし、「ここではないどこか」という否定的ヴィジョンにおいては、ほんとうの答えがあるかもしれない、と。

「銀河鉄道の夜」の、そして賢治の作品の魅力は、そんな宗教すら越えていこうと探求する心にあるのではないか、そんなふうに思います。

 
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