末木文美士『反・仏教学―仏教VS.倫理』:仏教から社会倫理は導けない?

大窪善人
 


反・仏教学 : 仏教vs.倫理

筑摩書房(2013年04月03日)

 

先日の記事でも紹介しましたが、宗教者や宗教団体が、原発や憲法などの、公共的な問題について発言する機会が増えてきているような印象を受けます。

たとえば、
九州電力川内原子力発電所の再稼動に関する声明-いのちは生きる場所を失っては生きられない/東本願寺

公明党の支持母体である創価学会でも政治的な声が高まっているということで大きなニュースになりました。

公明党“板挟み” 首相の70年談話で創価学会「安保反対」が加速/日刊ゲンダイ

さて、さしあたりこのエントリで考えたいことは、それぞれの政治的な争点の中身ではなくて(それぞれの立場からさまざまな意見があると思います)、宗教者や団体が公共的な意見を表明することの意味についてです。

宗教者はときとして、市民というよりむしろ”宗教者”として公共圏に現れることがあります。その場合、彼(女)は、自分が持っている宗教心や信仰にもとづいた意見を求められることになります。そこでポイントになるのは、宗教的な信仰から、それぞれのテーマに対する”主張”と”理由”を提示できるかどうか、です。

仏教から倫理は導けない?

本書は、仏教から社会倫理を導けるかという問題に正面から挑戦しています。

まずは古代インドの原始仏教からスタートです。原始仏典の中には「七仏通誡偈」というお経があります。この教えは、すべての仏教に通じる最大公約数的な教えだといいます。内容は非常にシンプルで「悪をなすな、善をなせ」、です。そして、悪の具体例は、殺生(生き物を殺す)、偸盗(盗み)、邪淫(不倫)、妄語(嘘)、飲酒(飲酒)などがあります。その反対の行為が善です。

これらはどれも、現代の社会倫理としても十分通用しそうです。逆に言えば、べつに仏教の教えを持ちださなくても納得できるような、ありふれた内容だということです。
しかし、では仏教にとって、なぜこれらの善悪が重要なのでしょうか、また、仏教的に善悪を判断する原理原則は何なのでしょうか。

その答えは「悟り」にあります。仏教徒の究極的な目標は、「悟り」を得て、「輪廻」というライフ・サイクルの外側に脱出することです。だから、善い行いを積むことは、つまり、悟りに近づくために有効な方法であるわけです。こうした考え方は、見方によっては非常にプラグマティックにも思えます。

一方で、社会との関わりではどうでしょうか。

サンガ共同体〔仏教徒のコミュニティ〕は、決して世俗社会と切り離されたところにあるわけではない[…]修行者は修行に専念しなければならないため、食物を托鉢で得るなど、世俗の在家信者の援助を必要とする。そこに、教えを説くことによって、生活の援助を得るという相互依存の関係が成り立つことになる。 ※〔〕内筆者

仏教教団は内部で経済や政治活動ができないので、生き残っていくには世俗社会の承認や支援といった互酬的なかかわりが不可欠です。そうなると、社会との対立を招くような、とがった主張はあまりできなくなるでしょう。

まとめると、仏教の倫理としては、一方に、悟りという究極目標のためのプラグマティックな規範があり、他方に、世俗社会のマジョリティと対立しない穏当な規範がある。では、やはり仏教から独自の社会倫理を、論理的に導くことはできないのではないのか。そのように思えてきます。

社会倫理を超える宗教

否、そうではない。
と、末木さんは主張します。

ひとつは、近年注目を集めている、仏教的信仰にもとづく社会活動の広がりを挙げています。「社会参加仏教」、「エンゲージド・ブティズム」などと呼ばれ、ベトナムのティク・ナット・ハンなど、東南アジアの中心に、多くの仏教徒が社会問題への発言を行っています。

 
さらに、一般に、宗教は社会倫理を乗り越える側面がある、と末木さんは指摘します。
その好例が清沢満之の宗教運動です。

宗教と倫理の問題をぎりぎりまで追い詰めて、両者の対立を説いたのは、浄土真宗大谷派の改革者として名高い清沢満之(1863-1903)であった。

清沢の立場は非常に一貫している。それは世俗の倫理道徳を完全に否定する。清沢は言う。「宗教を説くが為に道徳を破壊するは不都合であると云う議論がある。此は一寸(ちょっと)困難な問題の様ではあるが、しかし何とも致し方ない。道徳と云うものがさ程脆きものなれば壊れるのもよいかもしれぬ」

たとえば、道に病人が倒れていたらどうすればいいのか。清沢はこう言います。「偉大な仏の慈悲が現れて、あなたに介抱しなさいと命じるなら介抱せよ、逆に、そのまま通り過ぎなさいと命じるなら通りすぎよ」、と。

なんだか極端な気もしますが、ある意味でラディカルな考え方です。

社会倫理とは、”人と人との間”でつくられる約束事のようなものです。だからこそ、その都度の状況やコンテクストに応じて変化していきます。

他方で、宗教(仏教)の場合は、むしろ、そうした人と人との互酬的なサイクルから断ち切られたところにいる「他者(仏)」を媒介として、普遍的な規範を示唆することができる、ということではないでしょうか。そして、それは、控えめに言って、社会倫理のコミュニケーションにも、何らかの示唆や影響を与える可能性を持っているように思います。

 
<関連する記事>
小林正弥・藤丸智雄『本願寺白熱教室-お坊さんは社会で何をするのか?』:公共圏に対する宗教の力
 
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です