2016年春、東京国立市に「KUNILABO(国立人文研究所)」が誕生しました。
一橋大学の教員が中心となり、教養講座やカフェイベントの開催など、アカデミズムと社会とをつなぐ活動をされています。今回は代表の大河内泰樹さんにKUNILABOの活動の展開についてお話をお聞きましました。
――先に今日お伺いしたいことの前提を話しておくと、近年、大学だけにとどまらず学びを広げる活動が増えているように思うんですね。その背景には、主として経済のグローバル化によって効率主義、実用主義的なもの言いが幅を効かせてきていることがあります。そして、大学もそうした潮流に従わざるを得なくなってきています。
他方で、KUNILABOというのは大学の知を専門の研究者だけではなくて、むしろ市民一般に開くことによって、人文知の価値をもう一度見直そうとする試みだというふうにお見受けします。
それともう一つの関心は、いま知的なコミュニティをどうやって作り出していくのかということです。KUNILABOがおもしろいのは「国立」という具体的な場所と活動とが結びついているところだと思うんです。今日はそのあたりのお話を伺いたいと考えています。
KUNILABO設立のきっかけ
大河内泰樹 基本的には経済のグローバル化があり、それに引きずられる政府がいて、高等教育政策も、いかに経済に貢献するかという視点で見られるようになってきています。2年前に文系廃止通知だと話題になった文科省の通知もそうした中でだされました。
大学という場所はハーバーマス的に言えば経済と行政というサブシステムから守られなければならない場所なわけで、経済に支配されてはならないという意識がこれまではあったと思うんです。しかしそうではなくなってきて「生活世界の植民地化」の最後の一歩として、大学が経済に飲み込まれようとしています。
その流れの中で、3年前に学校教育法と国立大学法人法が改正されて、基本的にはトップダウンのシステムが大学に押しつけられることになりました。最初はこの法案に対する反対活動をしていたんですね。(1) そのときはごく短期間にもかかわらず文系・理系関係なくたくさんの大学人の署名が集まって、その署名を国会議員のところに持っていって陳情とか記者会見をしたりしました。
その後、実際に法改正を受けて大学の中の内規も変わっていくときに、今度は大学の中で抵抗したり他の大学と情報共有したりしていました。そういうことをしていく中で、なかなか世間の関心も高くないし、無力感を感じたというのがあったんです。そこで欠けていると感じたのは、人文学という学問をやっていることがあまり市民に理解されてないということでした。そこで、まずは市民に人文学に対する理解を広げていく必要があるんじゃないかと思ったのがひとつです。
――なるほど。
大河内 コミュニティということに関して言えば、大学って本来は学生を含めて研究者の共同体なわけですが、そうした雰囲気がどこの大学でも失われつつある。コミュニティとしての大学を別の形で実現したいという意識がありました。そのときに人文学というのは、ベルリン大学型の近代的大学の理念の軸であって、そうした人文学を軸にまずは研究者のコミュニティがあり、そして、やはりそこにきちんと市民が入って一緒に学び合う場所を作りたいと考えました。
たまたま私が一橋大学にいるので一緒に活動する仲間も一橋大学の教員が多かったわけです。国立という場所は結構市民の意識が高く勉強熱心だと言われています。国立という街のブランド・イメージに訴えたということかもしれませんが(笑)、まずは国立ではじめてみようと。その点では地域にも根ざした形でそういう場を作りたいと思いはじまったというのが経緯です。
大学の外側で活動する理由
――一方でグローバルなレベルで展開する大学や知の変動に対する危機意識と他方でローカルな関係性の中で構想されているということがよくわかりました。
ところで、多くの大学でも市民向けの講座やイベントをやっていますね。他方、KUNILABOはNPOとして大学とは別の形で活動されています。その理由はどこにあるのかお伺いします。
大河内 たしかに、それこそ一橋大学でも市民向けの講座があったりもしますし受講生もいらっしゃいます。しかし大学という大きな組織でやる不自由さもあるというか。
――はい(笑)
大河内 むしろ集まった仲間で好きなものをやりたいというのもあって(笑)。それが大きな理由ですね。
もうひとつは、大学の中でやる場合は大学の教員が担当するわけですが、KUNILABOではまだ職を得ていない若い研究者にも教える機会を提供したいと思っています。そこで教える経験を積みスキルを獲得してもらって、キャリアアップにつなげてほしいという気持ちもあります。
――なるほど、複数のねらいがあるわけですね。
大河内 あと最先端のおもしろい研究をしているのは若手の研究者のはずなんですよね。だから若手の最先端の研究のおもしろさを市民に伝えられるようになったらいいなと。
――具体的にどんな若手ならではの研究がありますか。
大河内 まずはそれぞれが博士論文で書いている内容になりますね。具体的にはたとえば昨年の9月期には嶽本新奈さんの「からゆきさん」を扱った歴史の講座がありました。
からゆきさんを軸に、近代日本のメディアの中でからゆきさんの存在がどういうふうに表象されてきたのかを扱っていて、実際話はとてもおもしろいんです。内容も結構専門的で最初ちょっと難しいかなと思ったんですが、受講者の方が、すごくおもしろかったと言っていただいて。だから、そういうことは心がけています。
佐々木雄大さんの「エコノミー」概念に関する講座、戸谷洋志さんの「原子力の哲学」もとても好評でした。
――大学の授業とはどんなところが違いますか。
大河内 大きく違うところとしては、大学だと半期で15回、それをKUNILABOだと4回でやっています。しかも一月空くので1回読み切りみたいな感じになるようには心がけています。大学だと今でもある程度は専門的な話をしても許されると思うのですが、ここではできるだけ一般の方にわかりやすく伝えるというのを心がけています。
ヘーゲルの講座が大人気
――大河内さんの専門はヘーゲルあるいはドイツ哲学ですが、理解するのがかなり大変ですね。
大河内 しかし、だからといって内容をスカスカにするのではなく、伝えたい核はしっかりとあってやっています。たとえばヘーゲルについての従来の解釈はこうだが私はこう思うとか。それは入門の講座であっても伝えられると思うんですね。
――受講者にはどんな方が参加していますか。
大河内 最初想定していたのがリタイア層である程度経済的に余裕のある方というものでした。しかし、蓋を開けてみたら本当にバラバラで、20代、30代の会社員の方が仕事の後に来てくださったりしています。「ヘーゲル哲学入門」の講義のときには、高校で倫理を教えている先生がいらっしゃっていました。場所も国立だけではなく都心や遠方からわざわざ来てくださっている方も多いです。
――すごいですね。
活動がはじまってまもなく一年ですが、現時点での自己評価はいかがでしょうか。
大河内 いろいろ心配もしていたのですが、おおむね順調に進んでいると思います。まずはきちんと回していく体制を作るというのが目標だったので。講座ごとに受講者が何人集まったら開講というラインを決めているのですがほぼ開講できています
――それはすばらしい。
大河内 世間的にはヘーゲルなんて一番人気なさそうなのに、いまのところなぜか一番人気があるんです。
――おもしろいですね。変に捻ったものよりむしろ直球みたいなものが受けるんでしょうか。
大河内 興味はあるけどちょっと難しそうで、一人じゃなかなか読めないから、専門家の話を聞いて入門したいという意識が強いのかなと。
――なんとなく名前くらいは知ってるけどもっと知りたいなとか、人物や思想の関係性が知りたいという需要は高いのかもしれないですね。
――KUNILABOでは今お話いただいた講座のクラス以外に「人文学ゼミ」「じんぶんカフェ」などをされていますよね。
大河内 いま人文学ゼミは一講座だけで、ヘーゲル『精神現象学』を読んでいます。基本的にはテキストを一緒に読んで、座学で聞いているだけではなく積極的に参加してもらうことをやりたいなと。
――「じんぶんカフェ」はどうでしょう。
大河内 じつはこちらの方を先に始めてたんです。最初はいわゆる哲学カフェのような感じで、もう少し広げて、たとえば文学を扱ったりもしたいなと。今のところ哲学系が多いんですが、月に一回国立駅の喫茶店で、毎回10人くらいの人が集まってくださって、最近は常連さんも増えてきています。こちらは、私が何かを教えるというよりは、一緒に考えて楽しむという機会にしたいと思っています。
――事務所は別の場所ですか。
大河内 今のところ事務所はありません。どこか借りた方がいいのかなと思ったりもするんですが。当面は場所無しで(笑)。メインで使っているシェアスペース・リトマス以外に会場として近くで別のシェアスペースを借りたりしています。
――使い分けなどはありますか。
大河内 リトマスがたまたま空いてなかったりということもありますし、ベートーヴェンの講座のときには音響設備の調った会場を利用しました。
京都アカデメイアに触発された
――KUNILABOに対する大学関係者からの反響はいかがでしょうか。
大河内 なんか大河内がやってるらしいみたいな(笑)。でも、講座の担当をお願いするときなんかは結構同僚のみんながやりたいと言っくださるのでそれはありがたいです。
――KUNILABOを作るときにお手本や目標にした活動などはありますか。たとえばカルチャーセンターとか最近だと批評家の東浩紀氏が主宰しているゲンロンカフェもありますが。
大河内 意識していたのは京都アカデメイアさんで、京都アカデメイアさんのような活動を国立でもできないかなと。
――え?! それはたいへん光栄というか、とてもありがたいです。そこはぜひ強調しておきたいですね(笑)。
ではKUNILABOの今後の展開についてお伺いできますか。
大河内 そうですね。とりあえず今は回すのが精一杯という感じなのですが、いろいろ見えてきたところもあるので、徐々に将来の展開を考えていこうと思っています。ひとつ、今度、佐々木雄大さんのバタイユ入門という講座を渋谷で開講しようとしていて、それは新しい試みです。
――なるほど。若者文化の発信地に打って出ると。
大河内 あまり若者というのは考えてなかったですね(笑)。でもちょっとアプローチできる層が変わってくると思うんですね。渋谷であれば都心で仕事されている方も仕事帰りに寄りやすいというのはあるだろうと。
人生の日曜日のために
――今年3月のイベントのときに大河内さんが挨拶で「人生の日曜日のために」という話をされていたのがとても印象的で素敵だなと思ったんです。(2)
大河内 ありがとうございます。もともとはヘーゲルの言葉で、その後コジェーヴがとりあげたりして少し有名になった言葉なんですね。ヘーゲルが生きていたドイツはキリスト教世界なわけですが、でもヘーゲルの時代には近代化、世俗化が進んでいました。
ヘーゲルのいたドイツの領邦国家バイエルンでは国家の近代化のなかで修道院の土地が没収されるということが起こっていました。それまでは神父や修道士など真理について極める人は教会にいたわけですが、そういう人たちがいなくなっていく。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いたように、プロテスタントでは、世俗的世界の中でキリスト者でなければいけないわけです。
ヘーゲルは、この世俗化自体はポジティブに捉えていたのですが、かつて聖なる世界の人たちがやっていた真理の探求を、世俗化した世界の中で大学という場所が担っていくと考えました。だから「日曜日」というのは、ウィークデーには誰もが世俗的な仕事に従事しているけど、日曜日には、教会に行かないにしても、生活のための生業ではなくて真理そのものに目を向けるということが日曜日に行われるようになると。
大学にいる時間というのはまさに「人生の日曜日」であって、その時間だけは、生きるためのなりわいを離れて真理に目を向けることができる。その経験を持っているということが、その後の人生において大事なんだと考えていたと思うんです。
――とてもおもしろいですね。つまり、ある種、宗教がもつ聖なる意味を世俗の中で再生しようとしたわけですね。
大河内 ヘーゲルの時代には実用的な教育を重んじる人たちと古典的な教育を重んじる人たちのあいだで論争があって、現代でなされているような議論を18世紀終わりから19世紀初めにやっていたんですね。その中でフンボルトのような古典的教養を重んじる人たちがいて、その流れの中で近代の大学のモデルになるベルリン大学もできあがります。そこにヘーゲルの時代と現代との同時代性があるなと。
――一方で日本だとキリスト教の伝統と関係ないと思われるかもしれませんが、たとえば民俗学の「アジール」という概念だったり、寺社仏閣のように世俗の力が及ばないような聖域があり、同時に知の拠点でもありました。
大河内 大学はヨーロッパでは警察権を持っていて学生牢なんかもあったりする。今でも一応大学に警察が許可なく入ることはできないことになっていますよね。コミュニティとしての大学が権力から自由に自治的な空間を作っているというのはひとつ理念としてあったわけです。
――一方でコミュニティというと共生とか連帯のような「つながり」を連想しますが、他方で、内と外とを切断する境界としても機能するわけですよね。以前ある本を読んでいると”intra Muros”というラテン語が出てきて、何かなと思って調べてみると「城壁の中」という意味の他に「大学の構内」という意味もあるんだと。
大河内 何から守るのかと言えば権力であり経済的な力ですよね。それこそハーバーマスが言っていたことなわけですが。
ポスト・トゥルース時代における教養とは?
――先日、オックスフォード辞典の「今年の言葉」に「ポスト真実(post-truth)」というのが選ばれました。要するにトランプ現象やブリグジットなんかがあり、何が真実かを問うのではなく感情的表出の方が世論をリードしてしまうと。学問に携わる人間としてもこれは非常に逆風です。
大河内 難しい時代になってきたなと思います。知に役に立つことを求めている一方で、日本だと何か問題が起こったときに専門家の知見を問うことをしない(笑)。テレビなんかが典型ですが、結局印象に残るのは何の専門家でもないコメンテーターの発言だったりするという。
――あとお笑い芸人とか。
大河内 なんというか、怖い時代になってきたなとは思いますよね。
ちょっと別の話で、ある学会の企画でアンチ・ヘイトの出版人の会(「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」)の方たちにインタビューをしたのですが、出版もネットに引きずられるようになっているというんです。今までなら内容も裏を取って校閲もしっかりして、一定以上信憑性のあるものが活字になっていました。
ところが、売るためにただネットに上がっていた情報をそのまま本にするということが起こっているそうで、危惧すべき状況だなと思いました。(3)
結局、きちんとした手続きを踏むとお金がかかるし、本の単価にもかかってくるから買う人も少なくなるという悪循環になっています。質を担保してそれが世間の人に伝わるような回路を作っていかないといけないと思うのですが…。
――最近、ある社会学者が編集者から「目次を読んで内容がわかるように書いてくれ」と言われたという話を書いていました。その背景には、じっくり時間をかけて本が読める、余裕のある読者が少なくなってしまっていることがあります。
大河内 問題は時間なんですよね。私たちは「日曜日」があることで真理に目を向けようとします。それがヘーゲルの言いたかったことだと思うのですが、いまブラック企業問題に典型的なように、本来得ることのできる自由な時間が奪われてしまっています。それが根本の問題だという気がします。
――他方、空いた時間をどう使うのかという問題もある気がします。誰かをヘイトしたり痛めつけに行くとか。どうしたらKUNILABOのような場所に来てもらえるのでしょうか。
大河内 そうですね。ちょっと心にひっかかるものがあって、それを深めてみようという人が来て、一歩引いて考えることを習慣化してもらえる機会を作りたいなとは思っています。
――考えるとか本を読むことって結構辛かったり忍耐を強いることだったりもしますよね。だから、ある意味で学ぶことによる快楽が不可欠ではないかとも思うのですが、いかがでしょうか。
大河内 二つあって、こぼれ話の楽しさみたいなものと、苦しさの向こうの楽しさとを両方できればいいですね。ヘーゲルは日曜日といっていても、学問自体は「灰色の上に灰色を塗るようなものだ」と言うんですね。KUNILABOも人文学の楽しさを共有したい。その過程は大変で苦しいけど、楽しいからやっているんだと思うんです。
――苦しさを含みこんだ上で学ぶ楽しさを分かち合うと言ったときに、やはり実際にリアルな場所で会って体験することが重要でしょうか。
大河内 色々なやり方があると思いますが、逆に直接会う以外の方法をあまり考えてなかったですね(笑)。
――ソクラテス、プラトンをはじめ古代ギリシャにおいて哲学は「対話」によって行われていました。そこまで戻って考えれば、ダイアローグというのはじつは学問の正統なフォーマットでもあると。
今日はどうもありがとうございました。
[注]
(1)
詳細については、例えば、大河内泰樹「大学の社会的役割を破壊する学校教育法・国立大学法人法改正」世界 (859), 33-36, 2014、を参照。
(2)
【リポート】KUNILABO開校記念イベント「いま、人文学を学ぶ」/京都アカデメイアblog、2016.03.07、を参照。
(3)
このインタビューは『唯物論研究年誌第21号——文化が紡ぐ抵抗/抵抗が鍛える文化』(大月書店、2016年)に掲載されている。
2016年12月23日 @国立駅駅中カフェ Paper Wall
この記事は2017年3月発行の「京アカ通信」Vol.04,「人文学の新しいノモス」の内容を再構成したものです。
リンク
KUNILABO/国立人文研究所