お盆とは先祖の冥福を祈る日本の伝統行事。精霊棚を作って供物をしたり、お墓参り、盆踊り、送り火を焚いて霊を迎えます。
割り箸を挿したキュウリやナスを動物に見立てた「精霊馬」は季節の風物詩ですね。
ちょっとおもしろのが、最近の霊は自動車やバイク、飛行機などでもお迎えされているようです。
今年のお盆は精霊馬をレース仕様にチューンナップしてみた pic.twitter.com/Shn5alzujk
— ボサノバ和尚 (@sativa_high) 2017年8月12日
これは相当早く着きそうです。
ところで、現代とは科学が発達した世俗的な社会であると言われます。
世俗化とは、社会全体が宗教と無関係に営まれるようになるその過程です。実際、「墓じまい」「ゼロ葬」「寺院消滅」など、近年の宗教離れの話題には事欠きません。宗教的な行事はこのまま衰退していくのでしょうか?
若者の宗教意識のパラドックス
一方で、少しおもしろいデータがあります。
直近のNHKの調査によると、伝統的な宗教「〈神〉か〈仏〉を信じる」と答える人の割合を年齢別でみると、高齢者ほど高く、若年者ほど低く、また特定の宗教を「信じていない」という答えも同じ傾向を示す結果が出ています。
これだけを見れば何ら不思議なことはありません。たんに宗教離れの進行が確認できるだけのことです。
ところが、「お守り・おふだの力」「奇跡」「あの世」「易・占い」の項目でみると、こちらは若い世代ほど信じている人が多いのです。この結果を、どう考えればよいでしょうか。かつて見田宗介は次のように語っています。
若い世代で、男の子は奇跡、女の子は占いを信じるというかたちで、合理化された現代の機構のただ中に、その合理性の鬼子のごとくに、〈超合理的なるもの〉への信仰が、世俗化され拡散された神秘主義の形態をとって再生している。
「世代形成の二層構造」『定本 見田宗介著作集 Ⅴ』岩波書店、2012年、論文初出は1975年。
つまり、若年世代において、伝統宗教からの分離が進んでいる(世俗化)一方で、奇跡や来世の存在への信憑はむしろ高まっている(ポスト世俗化、スピリチュアリティ)と。この矛盾する現象の並行を、どう捉えればよいのでしょうか?
最後の神
ハイデガーの議論が助けになります。
晩年、彼はよく「ただ神のごときものが我々を救うことができる」と口にしていたと言います。時は折しも冷戦。大国同士の核戦争による破局が人々を恐怖させた時代の気分を象徴します。
けれども、彼のこの言葉を、老人の戯言だとか、たんに年を取って信心深くなったからだなどと考えてはなりません。なぜなら、ハイデガーは、20世紀に生き、存在について深く考え抜いた一級の哲学者だからです。
では、彼の言う「神」とは何なのでしょう?
それは、キリスト教の神でもなければ、通常考えられるいかなる神でもない、まったく別の神である、とハイデガーは言います。
彼はかなり謎めいた言い方で語っていて、率直に言って何を言っているのか計りかねるのですが、晩年のあるエピソードがヒントになるかもしれません。
ハイデガーは旅行先でよく教会を訪ねて祈りを捧げていました。
哲学者として宗教から距離を置いているはずのハイデガーに、友人が訝しがって尋ねると、こう答えたといいます。
ものは歴史的に考えねばならない。そんなにも多くのお祈りがささげられた場所には、神々しいものがまったく別な仕方で近くにいる。
R・ザフランスキー『ハイデガー』法政大学出版局、1996年
ハイデガーのこうした態度は、まったく世俗化した現代社会における信仰のかたちをよく表しています。
*
現代のポスト世俗化、スピリチュアリティの大きな特徴は、伝統的な宗教団体や教義から切れているということです。しかし、重要なポイントは、依然として、そこに何らかの〈信仰〉が生きられているということ、これです。
冒頭に紹介したような現代的にアレンジされた精霊馬も、宗教的な教義とはいくぶん無関係に経験される、「別な仕方の神」のひとつのかたちなのではないでしょうか。
小林正弥・藤丸智雄『本願寺白熱教室-お坊さんは社会で何をするのか?』:公共圏に対する宗教の力
見田宗介『宮沢賢治』:「銀河鉄道」はどこに行くのか?
おすすめの本