みなさんは鏡を見てふと不思議に思うことはないでしょうか。
「鏡に映った像はなぜ左右逆なのか」と。
もし鏡像が全体として反転する性質なら、左右だけでなく上下も逆になるはずです。しかし、ふだん私たちが目にするのは左右だけが反転した像です。なぜこのようなことが起きるのでしょうか?
この鏡の謎は古代ギリシャ以来の問いで、じつは現代でも決着はついていないそうです。
ところで、社会学的に考えるなら、上下よりも左右の区別のほうが、社会的、文化的な意味づけが強く働いていると言えます。小さな子どもにとっては、上下よりも、左右の違いを覚えるほうが大変でしょう。それは左右の区別が生得的なものではないからです。
右の優越
左右のちがいについて、社会学者の見田宗介がおもしろい指摘をしています。
人類学や民俗学、言語学ですでによく知られているのは、「右の優越」という現象である。
rightが「正しい」というだけでなく、leftは「弱い(lyft)」という古語の変形である。ドイツ語のlink(左)はもっと明確に「不正」の観念と結びついている。フランス語のdroitが「正しい」から「法」までも意味するのに対し、gaucheは「歪んだ」、「不器用な」という意味である。[…]ギリシアのことばでも、aristerosその他「左」を意味することばは、同時に「不吉」を意味してもいた。「火の空間――空間の比較社会学」『定本 見田宗介著作集 Ⅹ』岩波書店、2012年
他方、日本語では、これが逆になります。
「右に出る者はいない」や「左遷」といった言葉がありますが、これは対面する”家来の視点”から見たもの(つまり左優位)だといいます。
日本語の「ひだり」という語は、南面すると東が左にあるので「火の出る方(ヒダリ)」であるという大野晋氏の仮説がよく知られているが、民間の言い伝えでは、左は「火垂り=霊垂り(ヒダリ)」であるという。
前掲書
「火」とは「霊」「魂」の比喩です。「ミギ=実気がある」という堅実に対して、「ヒダリ」とは、目にみえない、弱々しいイメージでもあります。
右の盤石と左の凋落
ところで、最近のグローバルな政治状況をみれば、左右の非対称ぶりは驚くべきものでしょう。アメリカ、ヨーロッパ、そして日本でも、”左”、”リベラル”は、すっかり評判の悪い言葉になっています。
もちろん、右・保守/左・革新とは、フランス革命後の議席をどちらが占めたかという、歴史的な偶然事に由来するにすぎません。
ですが、もしこの偶然がいく分か啓発的であるとすれば、それは、”いまだ存在しないもの”という「弱さ」のなかにこそ左翼の可能性があるということ、これです。
「未来志向」「理想」「進歩」という火が、いまだついえていないのならばー。
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