本書は、古典的名著であるヴェーバー『職業としての政治』とシュミット『政治的なものの概念』を1冊にしたものです。
シュミットは、ウェーバーのゼミのメンバーだったこともあり、どの程度影響があったかどうかは、たびたび議論になります。
ヴェーバーが、「政治家には、心情倫理ならぬ冷徹な”責任倫理”が不可欠だ」と説く一方で、本質的には何が正しいかは決められないという「価値自由」の逡巡があったのに対し、シュミットは、それを「主権者による決断」によって突破します。
彼が編み出した「政治的なもの(”political”)」という概念の本質は、味方と敵を区別すること。そして、この対立がクライマックスに達したものが、暴力に訴える戦争であると。
一見かなり大胆な定義ですが、奇妙に説得力があるのは、なぜでしょうか。
彼は神学のたとえで説明します。
キリスト教の神学とは、すべての人を救うものではなく、”救われる者”と”救われざる者”を区別するためにあると。ようは、この救われない他者が”敵”です。シュミットに言わせれば、世俗的な政治の原型は宗教なのです
ところで、ヒースが言うような差別のなくし方とは、たとえば違う色のTシャツを着せることで、性別や人種の差を打ち消し、区別をより無害なものに落ち着かせるという方法です。
しかし、注目すべきは、たとえ形が変わっても”区別そのものはなくならない“ということです。シュミットは、そこに、人間が負うべき罪悪を見出しました。人が人であるかぎり、政治もまた終わらないのでしょうか。
おすすめの記事
永遠平和のために ⑧:『けものフレンズ』で読み解く
永遠平和のために ⑨:海賊は人類の友か敵か?
ピンバック: 大澤真幸『憎悪と愛の哲学』:敵が友になるとき | 京都アカデメイア blog