永遠平和のために ⑧:『けものフレンズ』で読み解く

大窪善人

今から222年前にカントが構想した永遠平和への途方。しかし、21世紀になった現在も、その目的地ははるか彼方のままです。

前回はカントより前の時代、ホッブズの社会契約論を検討しました。ホッブズの難点は、「恐怖」と「力」によって人々をまとめ上げるのが正しいと決めつけてしまっていることでした。

もちろん、そこには彼が生きた時代的な制約があります。では、それとはことなる、現代に通用する平和論とはどのようなものでしょうか。アニメ『けものフレンズ』が格好のヒントを与えてくれます。

『けものフレンズ』が描くユートピア

『けものフレンズ』とは、2017年の1月から3月まで放送された3DCGアニメーションです。率直に言ってさしてクオリティの高い作品ではありませんが、放送直後から徐々に人気をあつめ、本編を収録した「オフィシャルガイドブック」は発売前から重版がかかるほどの人気ぶりです。

さて、物語は、日本のどこかにあるジャパリパークの「さばんなちほー」で暮らすサーバルキャットの”さーばる”が、ある日、記憶喪失の迷子”かばん”に出会うところから始まります。今まで見たことのない姿に驚いた”さーばる”は、かばんが何の動物なのか知るために一緒に旅に出ます。ゆく先々で橋が落ちていたり洞窟に迷い込んだりしますが、そのたびに”かばん”が知恵を使ってピンチを切り抜けていきます。

作中には「フレンズ」と呼ばれるいろいろなキャラクターが登場します。「フレンズ」とは、動物がヒト(萌えキャラ)の姿になった生きものことで、言葉でコミュニケーションができます。

さらに重要なことは、パーク内に供給された「じゃぱりまん」という食料のおかげで、食物連鎖の生存競争から解放されていることです(1)。これによって、”フレンズたちの平和な世界”というユートピアが実現しているのです。

なぜセルリアンがいるのか?

これだけなら他愛もないストーリーですが、おもしろいのは「セルリアン」という謎の存在です。

設定によれば、「サンドスター」が動物に触れるとフレンズになる一方、鉱物のような無機物が触れるとセルリアンになります。言葉による意思疎通はできません。かれらはフレンズたちに襲いかかる敵であり、平和なジャパリパークのなかで唯一例外的な不気味な存在です。

しかし、なぜセルリアンはいるのでしょう? ちなみに、『けものフレンズ』の物語は、仮にセルリアンがいなかったとしても成り立ちます(事実、セルリアンが登場しない回の方が多い)。ではセルリアンの存在は、作品世界のなかでどのような必然性をもっているのでしょうか?

「けもの」と「のけもの」

ところで、政治に深い哲学的洞察を与えてくれるのは、哲学者ジョルジョ・アガンベンの主権理論です。

悪名高いシュミットの定義をふまえながら、アガンベンは、”友”と”敵”とをわける政治の本質へと切り込んでいきます。

政治の本質とは(シュミット流にいえば)友と敵とを切り分けて戦うことにほかなりません。だから、友との関係が全面化するような「平和」とは、政治の終りを意味します。しかし、シュミットはこの考えに断固として反対します(2)。なぜでしょうか。

アガンベンの解釈では、自分にとってだれが友か判断することは、同時にだれが敵であるかを判断することと論理的に同じことです。

つまり友を定義したとたん、必然的にそのなかから排除された存在として敵が生み出されてしまうということです(3)。この友/敵の構造は論理的な必然です(たとえば「世界中のすべての人が友達だ」という発言は「友達」という区別自体を無意味なものにしてしまいます)。

さて、それをふまえれば、「なぜセルリアンがいるのか」という問いの答えが明らかになります。つまり、この締め出された”のけもの”こそがセルリアンの正体ではないか、言いかえれば、セルリアンとは、友=”フレンズ化”にともなって不可避的に外部へはじき出された存在を指し示しているのではないか、と(4)

絶対的な敵の歓待?

作中、セルリアンは交渉も妥協もできない「絶対的な敵」として現れます(5)。このことから得られる洞察は、普遍的な平和状態をめざすということは、この「絶対的な敵」をも受け入れる秩序をつくり上げることを意味するということです。しかし、そもそもそんなことが原理的に可能なのでしょうか?

結局、『けものフレンズ』の分析によって、あらためて平和への道のりの遠大さを確認することになってしまいました。しかし、わずかながら手がかりもあります。

まず、セルリアンもフレンズどちらも、もともとは「サンドスター」という”同じ根源”に由来するということ。

そして、もうひとつは、10話で”かばん”がセルリアンではないかと疑われるシーンです。ここで暗示されるように、もしかすると、フレンズ/セルリアン(つまり友/敵)の区別は、ほんとうは偶然的なものであるかもしれないのです。

けものは居ても のけものは居ない 
本当の愛はここにある 
ほら 君も手を繋いで大冒険 

オープニング曲「ようこそジャパリパークへ」より

[注]
(1)
たとえば、第1話の”かばん”と”さーばる”のやり取り「食べないでください!」「食べないよ!」。
(2)
Carl Schmitt,”Der Begriff des Politischen”,Duncker & Humblot Gmbh,1932,S.50-4.(菅野喜八郎訳「政治的なものの概念(第二版)」、長尾龍一編『カール・シュミット著作集Ⅰ–1922-1934』、慈学社、2007年、277−82頁)、を参照。
(3)
G.アガンベン『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』以文社、2007年、148-50頁、を参照。
(4)
「セルリアン」の呼称の由来については、非公式ながら「水色」を意味する”Cerulean”のほか、セル”Cell”+エイリアン”Alien”もある。
(5)
第6話「へいげん」で、かばんたちはライオン軍とヘラジカ軍との合戦に巻き込まれるが、かれらは互いを承認しあった「在来的な敵」であるにすぎない。一方で、フレンズ対セルリアンの戦いは、互いの存在の殲滅という点で際立っている。  C.シュミット、新田邦夫訳『パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見』筑摩書房、1995年、を参照。また、拙論「カール・シュミット『パルチザンの理論』:「正しい戦争」はあるのか?」京都アカデメイアblog、2015、を参照。

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