永遠平和のために ⑦:動物に捕らえられた人間

大窪善人

現代の問題と過去の古典・名著とのあいだを往還しながら平和について考える連続企画。今回で第7回目です。


欠如としての「平和」

さて、この連載ではこれまで平和そのものの中身についてはほとんど触れてきませんでした。

では改めて「平和」とは何でしょう? 素朴に考えるなら「戦争がない状態」ということになるでしょうか。つまり、戦争や暴力がない(あるいは最小化されている)という、一種の”欠如態”としての平和観です。このような見方は「平和の消極的定義」と呼ばれます(1)

しかし、一方でたんに戦争さえなければ平和と言えるのでしょうか?

たとえば、かつての冷戦時代のように、大国同士による実際の戦争はなくても、核実験をはじめとする軍拡競争などで各国がいがみ合っている状態は本当に平和だったのでしょうか。

あるいは今日世界中で起こっているテロリズム。テロリストは国家ではないので、定義上それを戦争とは呼びませんが、少なくとも平和な状態だとは呼ばないでしょう。

こうしたことを念頭におけば、じつは平和を消極的定義だけで考えるのは難しいことがわかります。

その意味で「平和」は「健康」に似ていいます。まずどちらも生死にかかわる事柄です。第二に、人、あるいは場所や時代によってどう定義するのかが必ずしも自明ではありません。

しかしそもそも何が健康かが定まらなければ、日々どのように生活すればよいのかわからなくなくのと同様に、平和もその積極的な定義がなければ、どこを目標に考えればよいのかがわからなくなってしまいます。

そこで連載の第3回では17世紀に生きた思想家ホッブズを紐解きながら、「正しさ」が平和を考える重要なカギになるという話をしたのでした。

淵源としてのホッブズ

以前の連載で私は、「ホッブズの平和論には「正義」という観点が欠けている」と述べました。しかし、それはいささか性急だったかもしれません。もう少していねいに見ていきましょう。

ホッブズの政治学はカントをはじめ、後世に大きな影響を与えています。ホッブズ研究の古典であるレオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』(1965年)によれば、ホッブズの政治理論の画期的なひとつの点は、自然科学と人文学とを架橋したことです。

イングランドの内戦に直面したホッブズは、大陸に亡命したりしながらも秩序ある社会の形成を構想します。なぜ戦争が生じるのか、彼はその原因を根本的な人間の性質に求めました。

まず一方で、人間は一種の動物です。動物である以上、本能的で自然な欲望を持ちます。「生命の安全」や「自己保存」という自然な欲望が拡大することで争いが生じます。ここでホッブズは自然科学の知見を応用したわけです。

しかし疑問も沸きます。たしかに動物は生きるために争いますが、人間の戦争のような大規模な殺し合いはしません。動物的な欲望だけで戦争を説明することは無理があります。

他方、彼は人文学的な説明も行っています。つまり争いのもうひとつの原因は人間が理性的な存在であるからです。しかし、なぜそれが戦争に発展するのでしょうか。むしろ理性的に考えれば平和になりそうなものです。

ホッブズの解釈はまったく逆なのです。人間は理性的な存在であるがゆえに、際限のない欲望や「虚栄心」を持ちます。他者を押しのけてでも自らがより強くなろうとする意志、それが「万人の万人に対する闘争」を帰結すると。だから理性を持った動物としての人間は、たんなる獣以上に危険な存在なのです。

動物と人間との結合

この動物でありかつ人間である、情動的かつ理性的な厄介な存在同士をどのように調和させるのか。

そのためにホッブズは『リヴァイアサン』という書物を記します。リヴァイアサンとは『旧約聖書』の「ヨブ記」に出てくる海獣の名前で、具体的には国家のことを指します。

ホッブズの論証は非常にアクロバティックなものです。一方で、動物としての人間は、「生命の自己保存」という目的から死を回避したいと望みます。他方、理性としての人間は、互いに自分の存在が承認されることを望んでいると言います。ここに平和への糸口があるわけです。

各々が他者を侵害する権利を放棄する契約を結び国家を樹立する。国家の暴力独占による平和と安定。有名な「社会契約」のアイデアですが、その優れた点は人間性/動物性の両面を含みこんだ理論だということです。

動物に捕らえられた人間

と同時にやはり難点も明らかです。ホッブズにとって社会契約以後の国家=主権者の意志は絶対的で、意志の内容が正しいかどうかを臣民である人々が問うことはできません。

ホッブズ自身は当初から断固たる君主制支持者でありかつ民主政への敵対者であり[…]ホッブズはその思想的発展の全段階において、世襲的絶対君主制を最善の国家形態をみなした(2)

ホッブズの『リヴァイアサン』が近代の民主義的な政治思想の扉を開いたことは間違いないでしょう。これにより中世の王権神授説は否定され、国家の正統性の根拠が民主政へと転換することとなります。そこには支配にかかわる正義の理念を読み取れます。しかし、にもかかわらずなぜ彼は旧来の君主政に固執したのでしょうか。

おそらく統治上の「有効性」が理由でしょう(3)。ホッブズの議論は「欲望」と「理性」とを調和させたと述べられていますが、しかし実際には「自己保存の欲求充足」にかなうことそれ自体がアプリオリに”正しい”と想定されてしまっているように思えます。だから「欲望」と「理性」とがいかに両立可能なのかという問いは、ホッブズにおいては、問われざる前提になっているのです。

[注]
(1)
広島市立大学広島平和研究所編『平和と安全保障を考える事典』法律文化社、2016年、566-7頁、および、猪口孝・岡沢憲芙・山本吉宣・大澤真幸・スティーブン・R. リード編『政治学辞典』弘文堂、2004年、983頁、を参照。
(2)
レオ・シュトラウス、添谷育志・飯島昇蔵・谷喬夫翻訳『ホッブズの政治学』みすず書房、1990年、81頁、を参照。
(3)
シュトラウス、前掲、82頁、を参照。ホッブズは国家の体制について民主制国家を人工的秩序、君主制国家を自然的秩序として理解する。そして古くからの伝統に従った王朝的支配の方が民主主義的支配よりも”事実的”妥当性があるとする。

 
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