2016年の「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップ・テンに「保育園落ちた日本死ね」が入ったことが話題になっています。
「日本死ね!!!」の衝撃
そもそもの発端は今年2月に匿名で書き込まれたあるブログでした。
「一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。私活躍出来ねーじゃねーか。[…]ふざけんな日本」(1) … 育児中の母親とみられる女性が投稿した記事がネットを中心に話題となり、ついには国会で取り上げられるまでになり、今回の流行語入賞へと至りました。
ですが、この件で私が驚いたのは、この「日本死ね!!!」という言葉の拡散力です。というのも、ネットではこうした過激な表現はとくに珍しいことではなく、一種の常套句のようになっているからです。にもかかわらず、これほどまでの広い訴求力を持ち得たのはなぜなのでしょうか。
おそらくその理由は、「日本死ね!!!」という言葉に、子育てに関わっているかどうかという立場を越えて、共鳴する部分があると感じられたからではないでしょうか。
その象徴的な出来事が安倍首相の国会答弁です。参院本会議で、待機児童の解消について「保育所」と言うべきところを「保健所」と誤読したことで大きなニュースになりました。
ところで、政治学者の白井聡が、いささか風刺的ながら興味深い指摘をしています。いわく「日本死ね!!!」と一番強く思ってるのは、じつは他でもない安倍総理自身ではないのか、と(2)。もちろん、なぜ総理が「保育所」を「保健所」と言い間違えたのか、ほんとうの理由はわかりません。しかし、この指摘はある意味で驚くべきものです。
もしその見立てが正しいとするなら、この国を立て直そうと最も強く望んでいるはずの(「日本を取り戻す」!)、その意味でブログの筆者とは真逆に位置するはずの人物でさえ、ほんとうは破局を望んでいるということになるからです。
全的な破局への願望
同じような事例は過去にも見つけることができます。たとえば、2007年に当時フリーターだった赤木智弘が発表し、話題になった論文「「丸山眞男」をひっぱたきたい–31歳、フリーター。希望は、戦争。」(3)です。
メッセージは非常にシンプルで、今の自分は非正規雇用で社会の底辺だが、日本が戦争になれば、かつて東大卒のエリートだった丸山真男を戦時中に上等兵がいじめていたように、ポジションが逆転するチャンスがある。だから「希望は戦争である」と。
重要なことは、彼の言う「戦争」とは単なる手段ではなく、むしろそうした状況を生み出すこと、つまり破局それ自体が目的だったということです(4)。
さて、さらにこうした出来事を普遍化して世界史レベルでみると、ある現象が浮かび上がってきます。第二次世界大戦のファシズムです。社会学者の大澤真幸は、第一次大戦後のドイツのほとんど自己破滅的とも言うべき領土拡張政策、ヒトラーの「火」への嗜好などを挙げながら、ファシズムの特異性を指摘しています。
ヒトラーは、ドイツ人に対して「救済」を約して、彼等の指導者となった。だが、その救済の内実とは何か? […]何らかの内容をもった救済のために、戦争が遂行されているのではなく、戦争それ自体が、すでにある種の救済として提示されていた、という可能性を示唆していないだろうか(5)。
ファシズムがドイツやヨーロッパを破滅へと導いたのは、ファシズムにとって全的な破局それ自体がすでに救済であったからである、と(6)。
「死の欲動」へ
以上のことから明らかになったのは、人間は葛藤状態において、たびたび全的な破局への願望をもってしまうということです。そして、その極端なバージョンが、ファシズムによる「世界戦争」でした。しかし、ではなぜ人間はそのような破局へと自ら陥ってしまうのでしょうか。
その謎を解くために、ここでは人間の心的側面からアプローチしてみましょう。
第二次大戦の前、A.アインシュタインとS.フロイトとのあいだである書簡のやり取りがありました。アインシュタインとは、もちろんあの「相対性理論」で有名なアインシュタイン博士であり、フロイトとは精神分析で有名なあのフロイトです。
1932年に国際連盟からの依頼で「今の文明でもっとも大事だと思われる事柄を取り上げ、一番意見を交わしたい相手と書簡を交わしてください」と。アインシュタインが選んだテーマが「ひとはなぜ戦争をするのか」であり、その相手に選んだのがフロイトだったわけです。
アインシュタインはこう問いかけます。数世紀ものあいだ、多くの人々が世界平和の実現のために努力してきた。しかし、それにもかかわらず、いまだ平和が訪れないのはなぜか。それは人間の心の中に、平和に抗う力が働いてるからだ。ではそれを転換する方法はあるのだろうか、と。
戦争の背後には、もちろん各国の政治的権力や経済的論理が働いているわけですが、アインシュタインはさらにその根本原因を、人間の心に見出したわけです。
フロイトは応答のなかで「死の欲動」という概念を持ち出します(7)。彼によれば、人間の欲動(ドライブ)には二種類あります。ひとつは自己を保持し、生きようとする作用。もうひとつは、破壊し殺害しようとする作用。
(フロイト) さまざまな思索をめぐさした末に、精神分析学者たちは一つの結論に達しました。破壊欲動はどのような生物の中にも働いており、生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。エロス的欲動が「生への欲動」をあらわすのなら、破壊欲動は「死の欲動」と呼ぶことができます(8)。
従来のフロイトの考えでは、人間はより緊張の少ない精神状態、「快楽原則」に従うとされていました。ところが、第一次大戦で、彼は帰還兵たちが繰り返し戦場の悲惨な記憶をフラッシュバックする症状(今でいうPTSDのようなもの)に直面したことで議論を転換します。そこで編み出されたのが「死の欲動」であり、これこそが戦争の根本原因だと考えたわけです。
「死の欲動」がある限り戦争がなくならないとすれば、永続的な平和の実現は不可能なのでしょうか。いえ、そうではありません。フロイトは次のように主張します。
人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいのです(9)。
フロイトは、「文化」が欲動のはけ口となるといいます。ポイントは「死の欲動」を消し去ることが解決策ではないということです。むしろ文化の促進によって破局へと向かう欲動を飼いならすこと、これであると。
しかし、その後間もなくして、さらにあらゆる意味でスケールアップした形で、悲惨な世界大戦が起こってしまいました。また、21世紀になって再び不穏な状況に直面している私たちとしては、フロイトのこの命題が現代でも妥当なものかどうか、検討してみる必要があるでしょう(10)。
[注]
(1)
保育園落ちた日本死ね!!!/「はてな匿名ダイアリー」2016/12/14 取得。
(2)
北田暁大・白井聡・五野井郁夫『リベラル再起動のために』毎日新聞出版、2016、を参照。また筆者の考えについては「北田暁大・白井聡・五野井郁夫『リベラル再起動のために』:「すべてをなしにする」衝動にどう抗うか?」京都アカデメイアblog、2016、を参照。
(3)
赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい–31歳、フリーター。希望は、戦争。」「論座」 (140)、朝日新聞社、2007、53-9頁、を参照。
(4)
赤木の主張に対して同誌で多くの知識人が彼に反論、批判を寄せているが、ほとんどが的はずれなものであった。その理由は、彼が戦争を望むのは、それが状況を改善したり是正する「手段」ではなく、戦争状況を生み出すこと自体が「目的」であることを見過ごしていたからだ。
(5)
大澤真幸『ナショナリズムの由来』講談社、2007年、685-7頁、を参照。
(6)
ナチズムの運動においては、火や炎が重要な役割を果たしているという。そして、それらはたびたび自己破壊的ですらあった。ところで、2016年に公開された映画『シン・ゴジラ』では中盤、東京がゴジラの火炎放射によって焼尽されるシーンがある。それについての筆者の考えは「映画「シン・ゴジラ」:破局と救済のアンビギュイティ」京都アカデメイアblog、2016、を参照。
(7)
「死の欲動」がはじめて現れるのは「快楽原則の彼岸」(1920年)においてである。 S.フロイト「快楽原則の彼岸」、竹田青嗣編、中山元訳『自我論集』筑摩書房、1996年、115-200頁、を参照。
(8)
A.アインシュタイン・S.フロイト、浅見昇吾訳『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社、2016年、43頁、を参照。
(9)
A.アインシュタイン・S.フロイト、前掲、46頁、を参照。
(10)
フロイトの「死の欲動」をカントの永久平和論と結びつけた論考としては、柄谷行人『憲法の無意識』岩波書店、2016年、を参照。
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