映画「シン・ゴジラ」:破局と救済のアンビギュイティ

大窪善人

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映画「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。
感想を一言でいうと、ゴジラがとても怖かった!

しかし、では何が怖かったのでしょうか?
劇場で感じたこの感覚を、書き留めておこうと思います。


日本人にとって「ゴジラ」とは何なのか?

今作「シン・ゴジラ」は、東宝ゴジラ・シリーズとしては29作目、12年ぶりの作品だといいます。

すでに多くの人が指摘するように、今作は1954年公開の初代「ゴジラ」を強く意識した作りになっています。「ニッポン対ゴジラ」というキャッチフレーズ通り、今作ではゴジラ以外の怪獣は登場しません。また、メーサー戦車とかスーパーX、メカゴジラといった”特撮超兵器”も登場しません。あくまでリアルに、”もしも現代の日本にゴジラが現れたら、人類(日本人)はどう立ち向かうのか”、というのが舞台設定です。

しかし、改めて考えてみると、私たちにとって、ゴジラとは、あるいは、ゴジラ映画とは何なのでしょうか? なぜゴジラは、ほぼ例外なくいつも日本だけを襲うのでしょうか? なぜ60年以上にも渡って新たなゴジラ映画が作られるのでしょうか?

評論家の加藤典洋氏がおもしろい指摘をしています。

いわく、ゴジラ映画が作られ続けたのは、それが興行的に成功したからではない。むしろ逆である。興行的には苦しいにもかかわらず、しかし、作り続けなければならなかったのだ、と。

この指摘が全面的に妥当かどうかはともかくとしても、しかしその意図は十分に理解できます。つまり、「ゴジラ」が、戦後日本人の集合的なメンタリティーを映し出す、いわば鏡として機能したのではないか、ということです。(ちなみに、おそらく最も興行的な成功を収めたのは3作目の「ゴジラ対キングコング」(1962年)でした)。


「死者の亡霊」としてのゴジラ

では、そのメンタリティーとは何でしょうか。川本三郎氏や赤坂憲雄氏が言う“ゴジラは「死者の亡霊」である”という議論に関係します。

言うまでもなく、初代ゴジラとは、古代生物の生き残りが核実験によって怪獣に変異したものでした。しかし、そこで「『ゴジラ』を反核、反戦平和の象徴」とのみ捉えたのでは、それはあまりにも平板な解釈でしょう。もしそうなら、もっとストレートに表現すればよかったはずです。

東京湾から品川へと上陸した黒い生物は、やがて東京を火の海と化し、灰燼に帰します。そのときに人々が思い出したのは、そう遠くない戦争の記憶でした。高度経済成長を目前に、平和と繁栄を謳歌しようとしている戦後日本。しかし、人々の無意識のうちに抑えこまれたある違和感。

“私たちはこのままでよいのか? 何か大切なことを忘れているのではないか?”

自分たちや家族や仲間は、いったい何のために戦ったのか。「鬼畜米英」から「アメリカさん、ありがとう」へ。「現人神」から「人間」へ。「英霊」から「侵略者」へ。戦後日本人が抑圧した、”行きどころのない”感情。それに形が与えられた存在が、ゴジラだったのではないか、と。

初代「ゴジラ」のラストでゴジラは、超兵器「オキシジェン・デストロイヤー」によって、開発者 芹沢博士もろとも葬られます。艦上からそれを静かに見届ける人々。そこに勝利のカタルシスは皆無です。女学生たちの悲しげな歌が流れてきます。あたかもゴジラ=死者に向けて送る鎮魂歌のように。

その意味で、「ゴジラ」とは、戦前と戦後とのあいだの断絶を、なんとか埋め合わせようとする物語だったのです。

その後、陸続と映画の続編が制作されることになりますが、他の怪獣の登場によって、ゴジラは、”恐怖の対象”ではなく”侵略者から人類を守る心強い味方”、”ユーモラスなマスコット(おそ松くん!、ゴジハムくん!)”へと変貌していきます。加藤氏はこれを「死者の滅菌化」と呼びます。「もはや『戦後』ではない」のだから、と。
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1984年版「ゴジラ」 例外的に「怖い」ゴジラ

不気味なものの回帰

さて、いささか遠回りしましたが、一方で今作のゴジラのことを、非常に怖かったと言いました。その姿は禍々しく、不気味なオーラを放っています。深海魚のように歪な歯、目、自衛隊の総力戦をものともしない岩石のように荒々しい表皮。

ですが、なぜゴジラはやはり今回も東京を襲うのでしょうか? ここでシン・ゴジラが、ただ単純に9・11や3・11の象徴や暗示であるといった解釈は、またしても平板過ぎるように感じます。

ところで、ジークムント・フロイトは、「不気味なもの(ドイツ語でunheimliche)」という語について、それが、「慣れ親しんだもの(heimliche)」という単語に、否定の接頭辞(un)を付けたものであるということに注目しました。つまり、「不気味なもの」とは、どこか見知らぬところからやってくるのではなく、むしろ私たちのよく知っているものが、ある別の仕方で現れるときにそう感じるのである、と。

すると、今回の映画は、戦後ほぼ一貫して馴致し、飼い慣らされ続けてきたニッポンの怪獣”ゴジラ”という存在を、再び「不気味なもの」へ、つまり、私たち自身の、しかし、”未だ解かれざる暗号”へと差し戻す、ということなのではないでしょうか。

しかし、何のために?

破局=救済

映画の中盤のヤマ場。覚醒したゴジラが放つ放射熱線によって、東京の中枢は炎に包まれ、政府要人を乗せたヘリは巻き込まれ爆散します。劇中繰り返し示唆される”ゴジラ=神(God)”を考えれば、すべてを焼きつくす炎は、さながら神に捧げられる「燔祭(Holocaust)」であるかのようにも見えます。

しかし、物語が進むにつれて、奇妙な両義性が明らかになっていきます。一方で、ゴジラは、人類を脅かす存在であると同時に、救済者でもあるというのです。たとえどんな過酷な状況下でも水と空気(?)さえあれば生存・増殖が可能という、(悪)夢のような生体メカニズムを備えていたのです。それは、”英霊=侵略者”、そして、”核=原子力”という両価性と、ちょうど重なり合う関係でもあります。

クライマックス、多国籍軍による核攻撃を回避するべく、ついに、ゴジラの活動を凍結させる「ヤシオリ作戦」が実行されます。詳しくは省きますが、その荒唐無稽な作戦に一瞬笑ってしまいましたが、しかし、3・11以降、私たちが目撃していることを考え合わせれば、むしろ戦慄するべきかもしれません。

最後に、この映画が、スカッとした気持ちでは終わらせてくれないところは、初代「ゴジラ」を正しく引き継いでいるのかもしれません。なぜなら、エンドロール直前のたった数秒の”不気味”な1カットによって、私たちの認識は、破局と救済とのあいだの地点に宙吊りにされるからです。

 
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