映画『君の名は。』:失われた「君」は、もう一人の「私」だ


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大窪善人
 
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話題の『君の名は。』をみてきました。

驚きの大ヒット

映画『君の名は。』が『シン・ゴジラ』以上のヒットになっています。

今回、原作・脚本・監督を務める新海誠氏は、『彼女と彼女の猫』(2000年)や『ほしのこえ』(2002年)といった自主制作アニメーションからデビューしました。作画、美術、編集から脚本、監督までほとんどの作業をたった一人でこなしてしまう、悪く言えば「オタク」っぽい、非常にマイナーかつプライベート性の高い作家でした。

そんな知る人ぞ知る作り手だった新海氏の作品が、これほどの大ヒットを記録しているのは大きな驚きでした。では、なぜこれほどまでのヒットになったのでしょうか。

配給元の東宝によれば、初日来場者の年齢層は、10代が約半分で20代が3割強だったといいます。私は別々の劇場で計2回鑑賞しましたが、だいたいそのような印象でした。つまり、今作は圧倒的に若者層の心をつかんでいると言えるでしょう。

では何が彼女・彼らの心をつかんだのでしょうか。たしかにヒットの要因はいろいろ考えられるでしょう。たとえば新海誠独特の背景美術の美しさ、キャストや音楽、そして、プロデュースの力やメジャーな配給会社の存在。しかし、ここではやはり作品の物語に即して考えてみたいと思います。

物語の何に惹かれたのか?

物語のどこに惹かれたのか。おそらく一般的な解釈としてはこうでしょう。空間と時間を隔てて、絶対に出会うことのできないはずの二人(三葉と瀧)が、「ムスビ」と呼ばれる霊的な力によって出会うことができた。そこに心打たれたのだと。たしかにそのようにも感じます。でも、ほんとうにそれだけが理由なのでしょうか。

私は以前、現代の若者たちが抱える困難について、統計データとテキストの内容分析を用いて考えをまとめました。

なぜ若者は結婚しなくなったのか?(前編)

ここから導かれる推論は、親密な関係における「他者の抽象化」。つまり、現代社会に特徴的な傾向として、“特定の誰か”を選んだり認めたりすることが、きわめて難しくなっている、ということ。情報化による「つながりの過剰」、つながってしまうが故に逆につながれなくなるということでした。

ではどうすれば上手くいくのでしょうか。さて、このことを踏まえた上で、『君の名は。』のテーマを、いっそ次のように解釈してみればどうでしょうか。

すなわちこの映画のポイントは「結び」ではなく、むしろ「解(ほど)き」、切断の方にこそあるのではないか。言いかえれば、つながれないが故に逆につながれるということがあり得るのではないか、と。

橋と扉、そして名

この映画では、重要な場面で繰り返し「境界」のモチーフが描かれます。家や電車の敷居、踏切、橋、歩道橋、「カタワレ時」、組紐、へその緒、聖域、彼岸と此岸、そして、この物語の中心となる彗星。

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社会学の三巨人の一人であるゲオルグ・ジンメルは、『橋と扉』という有名なエッセーの中で、「境界」のもつ両義的な性質を指摘しています。

橋はこちらと向こうとを結びつけると同時に、その両側が分かたれていることを際立たせると言います。同様に、扉は内と外とを隔てると同時につなぎ合わせるものでもあります。




(1970年01月01日)

 
作中、1000年に一度地球に近づくという「ティアマト彗星」は、恐ろしい災厄であると同時に幸福をもたらすものでもあると言われます。どういうことでしょうか。物語に即して考えるなら、彗星は、三葉と瀧の二人を永久に引き裂くものであると同時に、まさにそれ自体が、時間の位相を飛び越えて二人を結びつける原因にもなっているからです。

そしてまた、この映画の題名にも入っている「名」とは、人と人とを分け隔てる「境界」の最たるものでしょう。私たちが他人を自分とは異なる存在として認識できるのは「名」に表されるような「区別」が、つまり「切断」が、あらかじめ与えられているからです。

新海氏はこの映画を制作にあたって、小野小町の和歌にヒントを得たといいます。しかし、小野小町の歌は、もうすでに見知っている相手との逢瀬を歌ったものです。むしろ、日本文学研究者の木村朗子氏も指摘するように「見ず知らずの男女が夢で出あい、のちに現実で相手を見つけ出す」という室町時代の『転寝草紙』に近いように思います。

昼と夜の境界である「黄昏(たそがれ)」の語源は、「誰そ彼」、つまり夕暮れに顔が見えなくなり相手を判別できなくなった状況からきているといいます。『君の名は。』は、偶然出あった二人が、お互いを区別する「名」を忘れてしまい、しかしそれでも相手が誰だったのか探し続けるという物語なのです。

では、なぜ二人はお互いにとって「忘れてはいけない人」なのでしょうか。そこにはいったいどのような必然性があるのでしょうか。じつはその答えは映画の中で明示的には描かれません。しかし、それこのが映画最大の謎でしょう。

記憶の忘却とハイデガーの「空け開け」

ですが謎を解く鍵は物語の中にあります。

三葉は糸守町という田舎にある宮水神社の巫女です。彼女にとって糸守は、古いだけでなんの魅力のない場所として感覚されます。自然に囲まれた田舎の風景はいっけん郷愁をさそうよい場所にみえますが、三葉や「テッシー」こと勅使河原克彦たちにとってそこは、何の展望もない「悪い場所」なのです。

かれらがそう感じる理由のひとつは、自分(たち)が何者であるのかについての記憶が失われているのです。糸守町や神社の由来は200年前の大火によって失われ、伝統も形だけが残っているに過ぎません。つまり、自分たちのいるもっとも身近な場所が、疎遠なものとして現れているのです。

「私が私である」ということについて、ハイデガーは「場所」に結びつけて考えました。それは次のようなイメージです。森の中を歩いていくと、木を伐採して開かれた空き地があって、暗い森の中に一筋の光が差し込んでいると。そのような場所のことを彼は「空け開け Lichtung」と呼びます。その場所こそ「私が私である」と感じられる「よき場所」なのです。

三葉たちの立場は、ハイデガーの議論をネガティブに反転させたものだと言えるのではないでしょうか。つまり、かれらにとっては、自分たちが誰なのか、わからなくなっているのです。そして、その失われた記憶は「何かを忘れてしまった」という傷、痕跡としてのみ、かすかな手がかりを残すのです。

失われた「君」は、もう一人の「私」だ

木村氏はこの映画を「憑依の物語」として解釈できるのではないかと言います。ちなみに『君の名は。』は、企画段階では『夢と知りせば(仮)男女とりかえばや物語』というタイトルだったといいます。

三葉と瀧が入れ換わることで、三葉が「東京のイケメン男子」として生きることを可能にする。男子としての振る舞いや瀧の築いた人間関係、家族関係に戸惑いながらも、その日常を生きることで、結果的には、誰よりも深く瀧を理解することになるだろう。まったく望んでいなかっただろう田舎暮らしをするはめになった瀧にとっても同じだ。宮水神社のしきたりに従って、山奥のご神体の祭壇に口噛み酒を奉納しにいくなかで、祖母の繰り言を聞き、三葉の一族が守りつづけている糸守の深い伝統に触れることになる。

木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016 9月号

ここまで来てようやく「なぜ二人はお互いにとって『忘れてはいけない人』なのか」という謎を解くことができます。それは、お互いに空間も時間も隔絶した、まったく疎遠な他者であるはずの「君」が、ある意味で自分以上に自分のことをよく知っている存在、「自分自身の片割れ」のような存在だったからではないのか、と。

ラストシーンで、三葉と瀧は再会します。それは当然の結末でした。なぜなら、お互いにとっての「君」は、もう一人の「自分」だったのだから。
 

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(1970年01月01日)

 

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