アニメ『けものフレンズ』:動物から人間へ?

大窪善人

1月に放送がスタートしたアニメ『けものフレンズ』が話題です。

このアニメは、動物がヒトの姿(萌えキャラ)になって暮らしている巨大動物園「ジャパリパーク」を舞台にした作品です。

巷では「IQが下がるアニメ」「すごーい!」「たのしー!」「 おもしろーい!」などのワードが飛び交っていますが、しかし「人間」とは何なのかという哲学的な問いを考える上で啓発的です。

ストーリーはこんな感じ。

ジャパリパークの「さばんなちほー」で暮らすサーバルキャットの”さーばる”は、ある日、記憶喪失の迷子”かばん”に出会います。今まで見たことのない姿に驚いた”さーばる”は、”かばん”の正体を知るために一緒に旅に出発します。

ゆく先々で橋が落ちていたり洞窟に迷い込んだりしますが、そのたびに”かばん”が知恵を使ってピンチを切り抜けていきます。はたして”かばん”は一体何の動物なのでしょうか?

ところで、このアニメでは動物がヒトの姿になって登場しますが、もし「実際に動物が人間になる」と言ったら、それはバカげた主張だと思われるでしょうか? だとすれば、そもそも動物と人間とを分ける決定的な違いは、どこにあるのでしょうか?

二つの生:ゾーエとビオス

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間のことを「ポリス的動物」であると定義しました。さらにアーレントアガンベンの議論を踏まえれば、人間の生は、ゾーエ(生物的な生)とビオス(社会的な生)の二つからなり、この「ビオス」こそが人間の人間たるゆえんです。

もちろん、人間も一種の動物である以上は腹がすけば食事を摂るし眠くなれば寝ます。この点では人も他の動物と同じ性質を持っていますが、その先が違います。

第2話で”かばん”が川を渡るために木片や植物のつるを加工して橋をかけるのを思いついたように、あるいは地下の迷宮で、非常口のピクトグラムと出口の場所との関連に気づいたように、より抽象的な思考ができるのが、とりあえず人間の特徴だと言えるでしょう。

その能力を人類はどうやって獲得したのでしょうか? 

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によれば、今から約7〜4万年前、ホモ・サピエンスに生じた「認知革命」です。高度な言語能力や想像的思考力を手に入れたお陰で、人類の繁栄がはじまったと。

しかし、そうした「革命」はなぜ起こったのでしょうか。大きすぎる脳と不安定な二足歩行。まだ文明が存在しない自然界でおよそ不釣り合いな形へと進化したのはどうしてなのか。その答えは(少なくともハラリによれば)いまだ謎のままなのです。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社(2016-09-16)

 
人間のなかに二重の生がある

一方で、人間がかつて動物だったことは確かです。ここで強調したいのは人間もまた動物的な生(ゾーエ)をいきているという二重性、これです。

動物との比較から人間の本質について深く考えたのが、20世紀の哲学者ハイデガーでした。

形而上学の根本諸概念』で、世界の捉え方を3つのタイプに分けています。一つ目は石(無生物)から見た世界。もちろん石は意識を持たないので周りを知覚することはありません。
二つ目がトカゲ(動物)の世界。動物は生き物なので世界を知覚しますが、それは貧しいものだと言います。

たとえば、蜜蜂は花が咲いているところまで飛んで花粉を集めて巣に持ち帰ります。蜜蜂は「花粉」「巣」「群れの仲間」などを認識しますが、その外側のことには無関心で「今日はちょっと寄り道してみようかな」なんて余計なことは考えません。それは動物が”世界にとらわれている“からです。

そして三つ目が人間の世界。人が人であるのは(ハイデガー的には)自分が世界の中にいることを自覚して、自らその世界を作り変えていくからです。

動物から人間へ

ところで、世界へと”とらわれた”動物的な状態というのは、人間にも当てはまるのではないでしょうか?

振り返ってみると、私たちはいつも人間的な能力を発揮できているわけではないでしょう。むしろ日々の繰り返しとか愚痴やおしゃべりの中で毎日が過ぎ去っている、というのが大半であるかもしれません。

ハイデガーは、人間が人間本来のあり方から外れてしまっているような状態を「頽落(たいらく)」と表現します。それは環境にとらわれた動物たちの振る舞いと似ています。

つまり、人間がほんとうに人間として生きることも実は難しいことではないか、と。

ではどうすれば人間として生きられるのでしょうか。

使えない道具

ここで再び『けものフレンズ』の内容を思い出してみましょう。おそらくはヒトであろう”かばん”が、劇中、”人間として”振る舞うのはどんなときだったでしょうか?

ハイデガーによれば、人間が人間たるゆえんは、自分と世界とのかかわりを反省的に自覚して、自らその世界を作り変えていく能力にありました。君嶋泰明氏によれば、そうした反省を可能にするのは(人間の場合)「使えない道具」です。

たとえば”芯の折れた鉛筆”。鉛筆を使って宿題を解いているときには何も感じずに集中していますが、鉛筆が折れ作業が中断されると、そこではじめてある種の反省が促されると。

劇中では、寸断された橋や朽ちたバス、閉ざされた出口などがそれに当たります。

かくして、人間がほんとうに人間的な生をいきるとは、なにがしかの困難に直面したとき、そして、それを乗り越えようとして、周囲の環境に対して主体的に働きかけたときなのです。

さて、物語の方は早くも中盤ですが、『けものフレンズ』がこの先どのような展開をみせてくれるのか楽しみです。

 
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