気がつけば、どのテレビ番組も芸人・タレントだらけ。バラエティーはもちろんお堅い教養・情報番組まで、十数年前までは考えられないほど芸人の露出が増えています。なぜこれほど芸人が重宝されるようになったのでしょうか。
芸人万能社会
社会学者の太田省一は、現代の日本を「芸人万能社会」と名付け分析しています。その象徴的な例として挙げられるのが2005年に『花火』で芥川賞を受賞したお笑いコンビ・ピースの又吉直樹です。
もちろん、小説を発表する芸人はめずらしくありません(劇団ひとり『陰日向に咲く』や品川ヒロシ『ドロップ』など)。ですが、かれらとの違いは、又吉の作品が本格的な純文学として評価されたことでした。つまり、芸人が本業の小説家と同じ土俵で認められたことが画期的だったわけです。
政治の世界でも芸人の活躍は広がっています。東国原英夫(元宮崎県知事)や橋下徹(元大阪府知事・大阪市市長)などタレント出身の政治家はいまや当たり前になりました。
芸人的なものの上昇
なぜこれほどまでに芸人が重宝されるようになったのでしょうか。社会学ではあらゆる人間の営みは社会現象として記述します。
太田によれば、発端は青島幸男の登場にさかのぼります。1960年代、放送作家・作詞家だった青島幸男はタレントとしてテレビ番組に出演するようになります。本来スタッフである青島はどうして自ら番組に出演するようになったのでしょうか。
それは、青島が放送作家の経験から視聴者の望んでいることを熟知し、決められた台本通りに演じているという感じがなく親しみやすい「大衆的なキャラクター」として受け入れたからです。
さらにこれを押し進めたのは”欽ちゃん”こと萩本欽一の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(1975〜80年)です。この番組は街頭ロケや一般視聴者の出演、ハガキで構成されるという当時としては画期的な手法でした。
この番組で、プロの芸よりもぎこちない素人のつくり出す偶発的な笑いの方がおもしろいということで、テレビの「主役としての素人」が発見されたのです。
こうした「素人性」を逆に芸人が取り入れはじめるのが80年代です。「お笑いビッグ3」と呼ばれる明石家さんま、ビートたけし、タモリの活躍。お笑いバラエティ番組「オレたちひょうきん族」(1981〜89年)は、さんま・たけしによる「素の演技」が人気を集め、芸人の素をキャラクター化することに成功します。そして、これにより芸人の社会的地位も上昇していくのです。
ではこうしたテレビ番組の変遷は何を意味しているのでしょうか。プロの芸人ではない素人でもテレビに出てよい、いや、むしろ素人だからこそよい。
それは、国民はみんな自由で平等であるべきだという「戦後民主主義」的なもの、「一億総中流」意識が実現する様を映し出していました。またそれは同時に芸人だけがもつ特権性の消耗と表裏一体でもありました。
コミュニケーション能力の浮上
この流れが変わったのは2000年代です。「格差社会」や「勝ち組・負け組」といった言葉に表されるように、もはや「戦後民主主義」的なものへの期待はあてにできなくなります。
かわって浮上してきたのが、個人が社会の荒波を渡っていくための「コミュニケーション能力」です。ここにきて再び、コミュニケーションの達人である芸人に注目が集まるようになったというわけです。本書のもっとも重要な主張はここにあります。
ところで、北田暁大は90年代以降の若者のコミュニケーションの変容を「繋がりの社会性」という言葉で表現します。
本書の内容に即して説明しましょう。2002年にスタートしたテレビ番組「行列のできる法律相談所」。この番組は法律相談のかたちをとったバラエティです。
法律相談をバラエティ化した番組自体はそれまでにもあったが、多くの場合、クイズのような形式がとられた。法律の素人である芸能人が自分なりに予想した答えに対し、法律の専門家である弁護士が”正解”を出す、というスタイルである。そこでは弁護士は絶対的な基準である。
それに対し『行列』では複数の弁護士が出演し、各々が独自の判断で回答を行う。[…]そこに”正解”はない。この番組は、その点が新しかった。
『行列』の特徴は、芸人とのやり取りを通じて、弁護士たちも個性が全面に押し出されたということです。だからかれらは、絶対的な真理を告げる人ではなく、「この人ならどう答えるか」といった、キャラ化された相対的な関係として把握されるわけです。
その意味で『行列』は多様性を尊重する「多文化主義的空間」であると言えるでしょう。繰り返して言えば、その中ではいかなる真理の参照点も存在しないのです。
「真理」から「笑い」へ
専門家・知識人の芸人化、あるいは芸人の司会、コメンテーター化。あらためてこれらは何を意味しているのでしょうか。最後に私の考えを述べておきましょう。
知識人とは真理を語る(少なくとも語ろうとする)人です。他方、芸人は面白いことを語る、あるいは面白く語る人です。念のために言っておけば、私はべつに芸人に知性がないと言いたいわけではありません(むしろ笑いはもっとも知性が必要とされる分野でしょう)。問題はむしろ次のようなことです。
本書によれば、一部の例外を除いて多くの芸人は、芸を披露するのではなく、その場の空気を読んで上手く「ウケる」話をすることが求められているといいます。いわゆる「ひな壇芸人」はその典型でしょう。その意味で、かれらの笑いは「いま・ここ」にとどまるわけです。
他方、知識人とは真理を語る存在です。ハイデガーは”真理”という言葉をわざわざギリシャ語の「アレテイア(「隠されてないこと」という意味)」から引いてきます。その意味で、真理とは通常私たちの前に現れていないもの、「いま・ここ」ならぬ「ここではないどこか」を志向します。
とすれば、現代社会の芸人化とは「ここではないどこか」から「いま・ここ」への、人々の志向的転換を示していると言えるのではいでしょうか。
死を自覚するがゆえに
その場の空気を読んでウケることがなぜそれほど重要なのか。おそらくハイデガーならば、そうしたあり方のことを「世人(ダス・マン)」だと言って批判したでしょう。
では人間がほんとうに人間らしく生きるにはどうすればよいのでしょうか。 彼はそれを「死への先駆的覚悟性」に見出します。つまり人は自分自身の死という運命を自覚したとき、自分にとってほんとうに重要なことを見つけることができる、というのです。
ですが、もし現状において、ハイデガーのテーゼとは真逆の事態が生じているとしたら、どうなるでしょうか。つまり、死を先取りするがゆえに「ここではないどこか」を目指すのではなく、逆に、”死の自覚ゆえに”、あえて「いま・ここ」へとどまろうとするのだとしたら?
芸人化する社会とはその表れなのかもしれません。
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