インスタグラムとは、スマートフォンで撮影した写真をSNSで共有するアプリ。若者を中心に人気が爆発し、「フォトジェニック」や「インスタ映え」なるワードも生まれました。
どちらも見栄えの美しさを表現する言葉ですが、たんに”上手く撮れた”というのとは、少し事情が違うようです。
写真を「盛る」
インスタグラムの特徴は、撮った写真をだれでも簡単に修正・加工できることにあります。
この機能を使って、さながら映画やドラマのワンシーンのような洗練されたイメージを切り取り、日常の中に、ちょっとした驚きや楽しさをプラスすることができるのです。
この写真を加工する行為のことを「盛る」といいます。
博報堂ブランドデザイン若者研究所の原田曜平氏によれば、若者にとって、この「盛り」が、非常に重要になっているといいます。どういうことか?
スマホで撮った写真は、そのままSNSに投稿されることはないといいます。
利用者は、ネットで配信されているさまざまな加工アプリ、たとえば「食べ物を美味しく見せる」「画面全体をキラキラにする」「動物の鼻や耳を合成する」など、をシチュエーションに合わせて細かく使い分けています。
では、なぜそこまでして「盛った」写真を投稿するのでしょうか。その理由は、SNSで友達から、たくさんの「いいね」をもらうためです。
若者の間では、自分のファン(フォロワー)をどれだけ増やせるのかがとても重要で、それによって人間関係のポジションやランク付けがされてしまうのだといいます。
そのため、いまや「盛る」という行為は、「他人からの承認欲求を満たし、人間関係における序列を引き上げるための”処世術”」にすらなっているのです。
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さて、ここまでは、すでに言われていることのたんなる紹介です。「なぜ若者はインスタグラムに夢中なのか?」答え「承認欲求を満たしたいから」。さて、みなさんは納得されましたか?
しかし、ちょっとその一歩先まで考えてみると、さらに深い疑問があることに気が付きます。つまり、「そもそも、なぜ若い人たちは、そこまでしてSNSで承認されたいのだろうか?」と。
ヴィンテージ風写真の謎
問いの手がかりを一つ。
インスタグラムのメジャーな写真加工に、ヴィンテージ調というのがあります。これは、色調を極端に振ることで、何の変哲もない被写体が、レトロでおしゃれな一枚に早変わりするというものです。
ですが、それは写真をわざと劣化させるということであり、なぜそれが好まれるのか、不思議といえば不思議です。
それについて、戸谷洋志氏がおもしろいことを言っています。
あれって、写真を意図的に古く見せるための技術だよなと思っていて、なぜ人はそれをお洒落に感じるんだろうと不思議に思っていたのだけど、見方を変えると、加工することで写真をちゃんと過去のものにしてあげるというか
— 戸谷洋志 (@toyahiroshi) July 30, 2017
「終わったこと」にする感があって、それが転じて、完成された作品感に繋がってるのかな。
— 戸谷洋志 (@toyahiroshi) July 30, 2017
ヴィンテージ加工とは、いまこの瞬間を、すでに過ぎ去ったものであるかのように受け取る、ということでしょう。戸谷さんが「作品化」と言うように、そこには、日々の生活、ひいては人生を、さながら、アート作品のようにみなす感受性があるのではないでしょうか。では、その感性はどこから出てくるのか?
「死の先駆」の逆説的作用
普通、どんな芸術作品にもかならず製作期間があります。人生をひとつの作品にたとえるとすれば、その完成は、究極的には、自分の人生がトータルに見渡せた時、つまり人生が終わるときでしょう。
この人間の死について徹底的に考えたのは、ハイデガーです。人は自分自身の死という不可避の運命を覚悟したとき、自分にとってほんとうに重要なことに立ち至る、というのが彼の主張です。
ところで、以前、当ブログで、この「死の先駆」が、逆に働くことがあるのではないかという仮説を示したことがありました。
つまり、ハイデガーが言うように「死を先取りするがゆえに、現状を変える」のではなく、むしろ「死を先取りした結果、この現実にとどまる」と。
(ハイデガーはそう言っていませんが)自らの死、生の有限性の自覚ゆえに、「何かをしなければならない(能動)」と思うか、「何もしなくてよい(受動)」と思うのかは、理論的にはどちらも取りうるはずです。
後者のパターンを、ここでは「『死の先駆』の逆説的作用」とでも名付けておきましょう。
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結論的に言えば、インスタグラムのヴィンテージ加工とは、「死の先駆」の逆説的作用の、ひとつの現れではないでしょうか。
SNSでの「いいね」稼ぎにおける承認とは、「いまここ」における即時承認です。
たしかに、投稿される写真は、どれもとても綺麗でおしゃれなものばかりです。しかし、そこには”何か”が欠けていないでしょうか。でも、何が・・・? 「いまここ」、その外部へと抜ける「出口」だけがないのです。
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