反知性主義、啓蒙、真理


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浅野です。

 

お正月にどうにか時間をやりくりして書評を書きました。開かれた社会とその敵|書評|京都アカデメイア

 




(1970年01月01日)

 

この本の観点から大窪さんによる一連の記事にコメントさせていただきます。

 

「現代思想」2月号 反知性主義と向き合う:知性と戦略との対立へ | 京都アカデメイア blogによると、「『反知性主義』の問題は、まず知性と感性との対立ではなく、知性の内側の問題だということ。そして、その知性が、戦略の名の下で、ご都合主義的に利用されてしまうということ」だそうです。知性を戦略の名の下でご都合主義的に利用するのはソクラテス的な真の合理主義者の態度ではないです。そのような戦略の議論には巻き込まれたくないです。

 

カント『啓蒙とは何か』:上から目線ではない、もう一つの「啓蒙」へ | 京都アカデメイア blogにもありますように、本来のカントはポパーの言う真の合理主義者に近く、日本語的な解釈は擬似合理主義者に近いです。もしもソクラテスが携帯ショップの店員だったとしたら、自社の商品を勧めるという縛りなど設けず自由に議論するはずです(客がそもそも携帯電話なんて必要じゃなかったとソクラテスに説得されて帰る場面が目に浮かびます)。

 

鷲田清一『パラレルな知性』:本当に信頼される専門家とは? | 京都アカデメイア blogの内容には少し反論させていただきます。この記事の図式では専門家と素人とがはっきり分かれていて、素人は専門家を信じるべきだとされているように読めます。これはポパーが批判するプラトン的な考え方です。ポパー的な火山学者なら自らの誤謬可能性を意識しつつ、誰でも追試できるようにデータを公開して、また内容をわかりやすく説明することでしょう。

 

今年のまとめ:真理以後の時代? | 京都アカデメイア blogニーチェ『喜ばしき知恵』:ポスト・トゥルー時代の「真理」とは? | 京都アカデメイア blogの内容をポパー的に解釈してみます。ニーチェ的な「フィクションをフィクションと了解しつつ、その中に飛び込んで行って楽しむ」態度とポパー的な「自らの誤謬可能性を意識しつつ、真理へより近づこうとする」態度は、絶対的な真理を押し付けるのでもなくかといって相対主義に陥るのではないという点で共通しています。

 

他方で太田省一『芸人最強社会ニッポン』:面白ければ何でもOK? | 京都アカデメイア blogで紹介されているような芸人的コミュニケーションは、どのような内容であっても言い方がうまければ許容されるという点で、ヘーゲル的弁証法と同じ批判が当てはまります。

 

私としては擬似合理主義者に惑わされず真理を追求していきたいです。

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