鷲田清一『パラレルな知性』:本当に信頼される専門家とは?

大窪善人


パラレルな知性 (犀の教室)
鷲田清一
晶文社(2013-10-05)

 

5年前の3月11日の東日本大震災と原発事故は科学者・専門家に対する信頼を打ち砕く出来事でもありました。またその後の「反知性主義」的な風潮の広がりの底流にも専門家不信があるように感じます。

失われた信頼はどうやって取り戻すことができるのか。そのヒントは、専門家と市民とが協力しあう「パラレルな知性」にあると鷲田さんは言います。

専門家と市民との理想的な関係について、次のようなエピソードを紹介しています。

友人からいい話を聴いた。火山学のベテランの研究者があるとき噴火の予知に失敗した。しばらくはないと言っていた噴火が起こってしまったのだ。住民はすぐにその研究者を糾弾したのだろうとだれもがおもいそうなものだが、じっさいにはその研究者に対する住民たちの信頼は揺らぐことがなかったという。

素朴に考えれば、この予知を外した研究者はみんなからの信頼を失ってしまうでしょう。なぜなら、研究者に対する信頼を支えになっているのは、かれが火山についての詳しい知識を持っていて、それをもとに正確な予知を出すことができると思われているからです。

ではなぜ予知が外れたにもかかわらず研究者の信頼は崩れなかったのでしょうか。じつはその理由はすぐ後の文章で説明されるのですが、今回は少し別の仕方で考えてみたいと思います。

自分だけで決めることの虚しさ

専門家同士でも結論が分かれるとき(たとえば、原発を動かしてもが安全かどうか)、市民としてはどう判断すればいいのでしょうか。ひとつの答えは民主主義です。リスク社会論で有名な社会学者 ウルリヒ・ベックはソ連のチェルノブイリ原発事故の直後に科学の民主化について議論しました。

なぜ民主主義が正しいのでしょうか。それは、自分たちで決めたことなら、たとえどんな結果になったとしても納得して受け入れることができるからです。専門家が勝手に決めた場合にはそうはいきません。

しかし、言い換えれば、「自分たちで決めること」が正しい理由は、まさに「その決定を自分たちで行ったから」という事実以外にはないということです。

すると、「自分たちで決める」という形式だけが重要なら専門家は不要でしょうか。もちろんそうではないでしょう。専門家の科学的な議論は市民の民主的な決定の前提を与えるからです。すると、やはり専門家と市民との関係のあり方が問題になってきます。

責任者不在というホラー

班目春樹氏の発言(とマンガ)が話題になっています。

斑目氏は震災当時、原子力安全員会委員長として政府にアドバイスを行う立場にありました。多くの人を驚かせたのは、そんな彼がまるで他人事のように当時を振り返っていたことです。

そこで私がふと思い出したのは、2003年に公開された『着信アリ』というホラー映画です。

主人公の中村由美(柴咲コウ)のまわりで友人たちが次々と謎の死を遂げます。共通点は、死の直前に自分の携帯電話から死の瞬間の自分の音声や映像が送られてくるということ。電話の発信時間が死亡時刻を予告していることがわかります。

物語の中盤、「死の予告電話」を受けてしまった友人の小西なつみ(吹石一恵)は、噂を聞きつけたテレビ局によって生放送番組に出演させられることになります。番組では自称霊能力者や研究者たちが、小西そっちのけで大仰なお祓いや冗長な議論を繰り広げたりします。しかし、ついに死の予告を免れることはできませんでした。

このシーンのどこが恐ろしいのでしょうか。それは、スタジオの中に本気で彼女を救おうと思って行動している人が一人もいないということです。スタッフも出演者も(そしておそらくは番組の視聴者も)所詮他人事なのです。小西は恐怖と絕望の中で息絶えます。

問題解決の責任者がいるのに結果的に失敗してしまうことは誰もが避けたいと思うことです。しかし、ほんとうに恐ろしいのは、本心から苦しみを共有し、責任を引き受けようとする存在がじつはどこにもいない、ということなのではないでしょうか。

予知に失敗する研究者 ー「信」と「知」

はじめの火山学者のエピソードに戻りましょう。

予知に失敗してもなお研究者に対する信頼が維持されたのはなぜか。
理由はひとつだと言います。それは、住民がお盆に遊んだり、正月にお酒を飲んでいるあいだもずっと研究者は一日も休まずに火口を見に行っていた。そのことを住民がよく知っていたからです。

鷲田さんはカントを引いて、理想的な専門家とは「理性を公共的に使用する人」だと言います。

信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにあるのだろう。このことを、哲学者のカントは「理性の公的使用」と呼んだ。たまたまじぶんに恵まれた知的才能を、じぶんのためではなく、他者たち、もっと正確にいえば人類のために使うということである。

カントに沿って言えば、損得や利害計算ではなく誠実に本心から行為するときに、はじめて人はほんとうに尊敬に値する存在になれるのです。

私はこの話を聞いて「信」と「知」にかかわる議論を連想しました。

一般的に、専門家ではない市民が研究者の知識の水準に追いつくことは困難です。もちろん、科学は実証的なものだから、誰でも学習すれば理解できるものです。

しかし、それには膨大な労力と時間が必要で現実的ではありません。だから、実際には、研究者が火山についてもっている「知」は、住民にとっては研究者がもつ「知」に対する「信」として現れるはずです。わたしたちは、研究者がほんとうに正しい答えを知っているのかどうか”知らない”が、しかし知っていると”信じている”、と。

もちろんこの「信」は、その都度の期待はずれ(火山の噴火)や専門家に対するリスペクトの消失によってつねに失われるリスクがあります。

しかし、もしこの「信」と「知」の関係が可能であるとすれば、それは研究者と住民とのあいだで日々行われる「対話」を通じてではないでしょうか。そして、当然それは、研究者・専門家が市民のニーズを御用聞きよろしく聞いて回るようなあり方とはまったく違うのです。

 
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