現代思想 2015年2月号
特集=反知性主義と向き合う
ムック –青土社 (2015/1/26)
現代日本の反知性主義化?
去年の春頃に書店に行ってびっくりしたことがあるのですが、店の入り口の一番目立つコーナーに韓国や中国を批判する本がズラリと並べられていて、非常によく売れていました。たしかに、その類の本は今までからもありました。しかし、それはジャンル別のコーナーに置いていただけで、これほどメジャーな扱いになったのには驚きました。
昨年頃から「反知性主義」という言葉をよく耳にするようになりました。具体的には、性別や国籍、民族などに対する、正しい知識や根拠のない差別や排除の傾向のことです。
あるいは、議会での議論を軽視する最近の政府の動向とか、憲法についての素養も見識もないのに改憲を主張する政治家が登場してきたというのも典型です。また、去年ブームになった「ヤンキー文化論」でも、反知性主義がひとつのキーワードでした。あたかも社会全体が、「反知性主義」的な空気に支配されつつあるような印象すら受けます。
そのような状況に対して、まちがいなく「知性サイド」に属するであろう雑誌「現代思想」はどのように応答するのだろうか。そう思って購入したのですが、その期待は良い意味で裏切られました。
今回は、特集の巻頭論文である酒井隆史氏の「現代日本の『反・反知性主義』?」に絞って紹介していきます。
知性に対するアゲインストではなく
現在の日本は反知性主義化しているのではないか? しかし、意外にも酒井氏の見方は慎重です。
現代日本の知性のおかれた状況について、それを「反知性主義」的と呼んでいいのかはよくわからない。[…]しかし、他面からみれば、現代ほど「知性」が溢れている時代がそうあるのか、という疑問にもかられる。
たしかに、テレビのニュース・バラエティにも専門家や知識人がたくさん出演しています。さらに、インターネットのSNSなどでは、毎日、議論の応酬が行なわれています。
マスメディアよりもインターネットこそ、この現代の「知性」の過剰の鮮明にみえる場である。いまや、どのような小さな趣味であっても、知的に彩ることへの情熱に事欠くことはない。[…]そこでは「知的であること」ないし「賢明であること」が競い合われ、「頭が悪い」「教養がない」といった言葉が、議論を打ち切り、討論の相手を一蹴する決め言葉として氾濫している。
ネットでは、専門家・知識人、一般人の別なく、いろいろなテーマの論争に自ら「参戦」し、まるで西部劇の早撃ちガンマンのように、お互いの腕を競い合っているかのようにもみえます。
しかし、排外主義やレイシズム、セクシズムが「反知性主義的」だというのは偏見ではないか、と酒井氏はいいます。なぜなら、一見非合理にみえる排外的な主張も、一応の合理的な根拠にもとづいてなされるからです。そしてなにより、そうした根拠を準備したり、論争の戦端を開いたのは他でもない「知識人」だからです。
現代の排外主義やレイジズムの言説の構造や、さらにそれを醸成する知的気分というものは、あきらかに(狭義の)知識人、エリート、メディアの複合体によって「上から」主導されてきたものである。したがって、現代の知的雰囲気を、「反知性主義」と決めつけ、「群衆化した大衆」に重ねる前に、それこそアントニオ・グラムシに謙虚に立ち返り、「市民社会」に分散し、時代を支配する感情や価値にかかたちを与えている有機的知識人たちの働き―ヘゲモニーである―の分析を必要としているのではあるまいか。
つまり、各陣営が自らの主張する言説の優先権を奪い合う、一種の政治的闘争が繰り広げられているということです。そして、その「陣地」の外側では、敵味方不明のまま、個々人が「ゲリラ戦」に投げ込まれるということも生じています(「エア御用」問題)。そうなると、問題は、知性が足りないことではなく、むしろ、知性による政治的力学の方にある、ということになるでしょう。
問いの変換:知性と戦略との対立
ヘゲモニーをめぐる政治的闘争、このような観点からみれば、「反知性主義」とは、反対意見に対して貼り付けられたレッテルの一種に過ぎません。他方、レッテルを押し付けられた側も、知性を使ってこれに対抗するでしょう。
いずれにしても両者に共通しているのは、知性を自らの主張を正当化するための戦略としてのみ利用しているということです。
だれもが知識人であるということは、だれもが「戦略家」のようにふるまうということと同じことのようにもみえるのである。
ここでは「目的は手段を正当化する」という、マキャベリズムの論法が字義どおりまかり通ります。
まとめると、「反知性主義」の問題は、まず知性と感性との対立ではなく、知性の内側の問題だということ。そして、その知性が、戦略の名の下で、ご都合主義的に利用されてしまうということ、これです。
ここからは私の意見なのですが、もし知性が戦略に回収されることに対して頓着しないなら、学問的な真理が生き残る余地は一体どこに残されているでしょうか。真理への探求が消えてしまえば、知性と議論の参加者はともに、目的を達成するためのたんなる道具になってしまいます。それは、本当はとてもつまらないことではないでしょうか?
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