カント『啓蒙とは何か』:上から目線ではない、もう一つの「啓蒙」へ


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大窪善人


永遠平和のために

光文社(2024年03月01日)

 

先月2月、NPO法人京都アカデメイアの総会を開催しました。今回は2度目の総会で、法人を設立してから約1年半が経ちました。この間、スタッフの皆さん、それに会員の皆さんにはサポートをいただき、ほんとうに有り難いかぎりです。

京都アカデメイアは「市民社会の知的活動を促進すること」を目的に運営・活動をしています。実際の日々の活動は、読書会やカフェでの討論会や書評の発表など、地道なものです。しかし、それぞれの活動を支えているのは、そうした目的や理念にあるわけです。

ところで、社会の知的活動を促進するとは、どのようなものでしょうか? たとえば、学校の先生が生徒に知識を教えるような、そんなイメージでしょうか?
人にちゃんと説明しようとすると意外と難しいものです。迷ったときは過去に遡って考えてみる。あるいは、先人の知恵に学ぶのも有効な方法の一つです。というわけで、そうした動機から、最近読んだ本を紹介します。なお、この内容は大窪個人の解釈にもとづくものです。

啓蒙とは何か

イマヌエル・カントは、18世紀ドイツ(当時はプロイセン)の哲学者です。高校の世界史の教科書にも名前が出てくるような有名な哲学者ですが、とびきり難しいことでも有名です。ただ、この『啓蒙とは何か』は、短くかつ読みやすい本です。内容はタイトルの通りで、「啓蒙」がテーマ。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成熟の状態から抜けでることだ。未成年状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性〔Verstand〕を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるいは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。[…]こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

日本語で「啓蒙」というと、何か「上から目線」で言われてる感じがして、反発したくなりますね。「啓蒙書」とか「大衆啓蒙」という言葉もありますが、おおむね、「知識を持った人が無知な人に対して教えを説く」というような意味で使われているようです。
引用はこの本の最初のことばですが、日本語の意味とはまったく逆であることに気がつきます。

自分の理性を働かせるかわりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。

 
その”後見人”たちのそそのかしによって公衆は自らを未成年状態へとおく。つまり、カントの「啓蒙」とは、他人、とくに権威のある人に教えてもらうとか、自分で考えるのを放棄して代わりに考えてもらうとかではなく(そして、人びとが自ら進んでそうすることもあります)、逆に、一人ひとりが自分の頭で考える、という意味です。では、それはどうすればできるのでしょうか?

ちなみに、「啓蒙」はもともとドイツ語のアウフクレールング、「明るく照らす」というくらいの意味なので、「照明」という訳の方が適当だという意見もあります。

権威に盲目的にすがることは、むしろ、カントによると啓蒙されていない未成熟な状態なのです。なぜなら、そこでは権威ある人の都合に合わせて、個人の自由が制約された、いわば「め隠し」とか「くち輪」をされた状態になるからです。

携帯ショップ店員の例

誰かに縛り付けられた状態では、自分の理性を自由に使うことはできません。身近な例を使って、もう少し具体的に考えてみましょう。

ある携帯電話の店で、店員が客に携帯電話を勧めている場面です。さて、ここで、店員は扱ってる商品についてどんなことでも自由に発言することができるでしょうか。そうではありません。もし仮に、その店よりも他の店の商品の方が優れている、あるいはお買い得であることを知っていたとしても、絶対にその事実を客に伝えてはいけません。

なぜなら、もちろんそこには利益の問題もありますが、ここでより重要なポイントとして、店員の立場としては、その店の商品を勧めることを義務づけられているからです。つまり、店員はその店のメンバーとしてのみ、理性を使う自由が与えられているというわけです。こうしたことを、カントは「私的な理性の使用」と呼んでいます。

もう一つの「啓蒙」へ 公共的な理性の使用

「私的な理性の使用」の反対は「公共的な理性の使用」です。

公衆を啓蒙するには[…]自分の理性〔Vernunft〕をあらゆるところで公的に使用する自分さえあればよいのだ。

理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。


さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべてのの公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。

 

ここで、またしても日本語とカントとでは、「公的」と「私的」の意味が逆転していることに気づきます。日本語の意味だと、政府の仕事は公(おおやけ)事です。ところが、このカントの区別では、逆に、それは私事なのです。なぜでしょうか。

その理由は、政府のスタッフは、特定の人びと(上司や政治家や国民)の意志や決まりに従わなければならないからです。つまり、理性を使う自由が制限されているのです。他方、カントの「公的」の意味は、ほかの誰の意志にも制約されないで、自分自身の自由を発揮するということです。

ところで、個人の自由の発揮が、どうして公共的なのでしょうか? たんなる自己中心主義とどう違うのでしょうか? カントは「公共的な理性の使用」の条件は、「すべての公衆の前で行われる」ことだと言います。そこでは、ひとりよがりな自由の行使はできません。

つきつめれば、個人の自由の十全な発揮は、すべての人びとの自由とも、最終的には調和できるものでなければならないはずです。携帯ショップの例で言えば、この場合、店員としての情報提供よりも、所属をこえた十全な情報提供の方が、携帯を買いに来る、より多くの人びとの自由と調和可能でしょう。

ちなみに、私の考えでは、この「すべての公衆」の中には、理念的には、その時その場所に参加していなかった人たち、さらに、まだ世界の中に現れていないような人たちも含まれてくるのではないかという気がします。そうした開放性の中に、上から目線ではない「啓蒙」について考える鍵があるのではないでしょうか。

 
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(1970年01月01日)

 
「アウフクレールング」は「啓蒙」か? : 「アウフクレールング」と「理性の公共的使用」/宮本敬子

 

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