カントは有名な哲学者なので読んだ人も多いと思いますが、いきなり『純粋理性批判』から読み始めると挫折必至です。かなり難しい。やっぱり、入門的位置づけの『プロレゴーメナ』とか『道徳形而上学原論』から始めるのが無難でしょうか…。
さて、この本は、「岩波ジュニア新書」という中高生向けのシリーズなのでとてもやさしい内容になっています。しかし、だからといって内容が疎かになるということはなく、専門家の手によりとても丁寧に書かれています。
ところで、学問を予備知識のない人にもわかるように説明することは、前提条件を共有している専門家に説明するよりも難しい場合が少なくありません。だから、こうした入門書は、手っ取り早く知りたいという人はもちろんですが、ある程度学習が進んだ人にとっても、わかりやすく説明するための方法として読めるのではないでしょうか。
なぜカントを読むのか?
第1章はカントの人物像の紹介です。
当時プロイセン領だった港町のケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)で生まれ育ったことや、大学を出て家庭教師で食いつないでいたこと、政治・教会権力との軋れきなど、大哲学者といえどもけっして平坦な人生ではなかったようです。
日本でもカントの主要著作は改訳も重ねられ、広く読まれています。しかし、なぜ遠く離れたドイツの、それも何百年も前の哲学者の本を読むのでしょうか?
その理由は、カントの本には普遍的な真理が書いてある(と多くの人が思っている)からです。その点では、たとえば海外の人が日本の哲学者の本を読むのとはわけが違います。
たしかに、カントは特定の時代、特定の場所に生きた哲学者です。しかし、私たちはべつに近代はじめのドイツ地域の思想を知りたいからカントを読むわけではないでしょう。なぜ読むかというと、カントを読むと、ローカルな制約を超えて通用する普遍的な知識を得ることができると思っているからです。
「善いこと」よりも「もっと善いこと」
幸福で自由な人生を生きるのはどうすればいいのか? この難しい問いに対して、カントは”善/悪”を基準をもって答えます。
たとえばこんな例で考えてみます。いま学校の宿題をやるか、それとも見たいテレビ番組を見るか、どちらを選ぶべきなのか? カントは善の内容には”順位”があると考えます。つまり、ある善いことといういうのは、他の善いことと上下の比較ができるということです。そこで重要になってくるのが”目的”です。
宿題をすることが善い理由は、学校でいい成績をとるという”もっと善いこと”の目的に資するからです。そして、いい成績をとるという目的は、さらに上位の目的(いい学校に進むとか)によって支えられることになります。こうして、”さらにより善こと”を突き詰めていくと、ほかの手段に変えることができない「最も善いこと」に行き着くことになります。
アリストテレス(前三八四ー三二二)は、[…]他の何ごとかのために望ましいのではないものこそが究極の〈よい〉ことだと指摘します。私たちのカントもまた、そうした〈他の何物のためでもなく、よい〉ことの存在を指摘します。それは、たとえば、誠実であること、嘘をつかないこと、困っている人を助けることであり、総じて言えば、道徳的に行為することです。
何が善い行いかどうかは、道徳に照らして判別できるという主張です。
しかし、それでは、その道徳の内容はなぜ善いことだと言えるのでしょうか?
それを確かめるには、道徳の内容が”すべての人に当てはまるものかどうか”をテストすることでわかります。
たとえば、「私は自分の利益のために嘘をついていい」というルールを採用する場合、このルールをすべての人に当てはめて考えてみます。そうすると、その結果みんながお互い疑心暗鬼になって、非常に不都合なことになってしまうということが予想できます。
だから、もし自分だけを特別扱いするのでないなら、この「嘘をついていい」というルールは採用することができないというわけです。つまり、逆に言えば、この「嘘をついてはいけない」という道徳的なルールは、いつでもどこでも当てはまらなければならない、つまり、”定言的”なルールであることががわかるというわけです。
カントは、こうした普遍的な道徳を、一人ひとりが自分に課すルール、つまり「格率」として自ら選びとるときに、真に自由で幸福に値する人生になる。そう考えたわけです。
ひとは理性によって自分の意志を普遍性という観点から決めることができます。これをカントは「自律」と表現しました。すなわち、自分で普遍性をもつことができるきまりを作りそれに従うのです。
束縛がなければ「自由」なのか?
簡単にまとめると、カントにとって自由や幸福を実現するのは二つの条件がとても重要です。一つは普遍的な道徳が客観的に存在するということ。そして、もう一つは、その道徳を自らの格率として主観的に選択できるということ。この両方が揃う必要があります。
この点で言えば、たとえばJ.S.ミルの古典的な『自由論』とは対照的なところがあります。
ミルはカントの死後に活躍したイギリスの哲学者です。ミルは、政府の干渉から個人の自由を守るために「危害原理」というものを考案しました。危害原理とは、一言でいえば、”他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい”、ということです。今日では、〜からの自由、つまり、「消極的自由」として定式化されている有力な概念です。
さて、カントの場合は、自由について明らかにミルよりも厳しい条件を課していますね。カント的には見れば、”たんに自分のしたいことが他人によって妨げられていない”という状況の確保だけではまったく不十分なのです。自由を擁護するためには、もうひとつの重要な要素がある。本書では、カントが挙げている例を使って、こんなふうに説明しています。
あるところに暴君がいました。彼は、ある誠実な人物Aを無実の罪で陥れて排除しようと考えました。そこで、Aの友人を呼びつけて言います。「Aはおまえの友だちだな。私もおまえも、Aが誠実な人間であることを知っている。しかし、私にはAが邪魔なのだ。そこでおまえに命じる。Aが人知れず悪事を働いていると証言せよ。おまえがその証言をしたなら、私はAを処罰する。しかし、もしお前が証言を拒むなら、いまここでおまえを処刑するだろう」。
嘘の証言か、さもなくば死か、という究極の選択を迫られるわけです。
カントは、こうした場合、ひとは死にたくない気持ちを克服して偽りの証言を拒むはずだ、とはっきりとは言えないと書いています。しかし、同時に、偽りの証言を拒むことが可能であることは、Aの友人もためらうことなく認められるはずだと言います。なぜでしょうか。その友人は、誠実な友だちを陥れるのに加担してまで自分は生きるに値するのだろうかと考えるでしょうし、偽りの証言をしながらでさえ、同時にそれを拒むべきだという意識を持つからです。
私たちにはさまざまな欲求がありますが、死なずに生きていたいという欲求はもっと根本的なもののひとつです。しかし、そうした欲求からさえ自由になって、まさに自分の名において偽りの証言を拒む可能性を善悪の意識が教えてくれるのです。
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