さやわか『キャラの思考法』:アニメ『氷菓』に「いまここ」を生きる現代的方法を見出す


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大窪善人




(1970年01月01日)

 
先週末、岐阜県高山市に行ってきました。
同市は、米澤穂信氏の小説「〈古典部〉シリーズ」のアニメの舞台になったところです。飛騨の小京都とも呼ばれる高山は、古い町並みを残す、とても美しくのんびりとしたところでした。




(1970年01月01日)

ストーリー

省エネを信条とする高校一年生、折木奉太郎は、ひょんなことから廃部寸前のクラブ「古典部」に入部することに。「古典部」で出会った好奇心旺盛なヒロイン、千反田える、中学からの腐れ縁、伊原摩耶花と福部里志。彼ら4人が神山高校を舞台に、数々の事件を推理していく青春学園ミステリ。

いわゆる「日常の謎」というジャンルに属する本作は、毎回、学校や身の回りで起こる些細な謎を解決していくというストーリーです。殺人や誘拐事件のような劇的な謎解きではないというところが、落ち着いた町並みや風景ともマッチしています。

どこにでもあるような「どこか」

2000年代頃から、ファンがマンガやアニメのロケ地をめぐる、いわゆる「聖地巡礼」という現象がたびたび見られるようになります。その背景には、作品の舞台が、実際に存在する場所を取材することが多くなっていることと関係します。

しかし、そこで不思議なのは、その舞台が多くの場合、観光地になるような名所・旧跡ではないということです。むしろ、どこにでもあるような「どこか」とでもいうべき、匿名的な田舎の風景として描かれるわけです。

その意味で、「聖地巡礼」において重要なのは、作品の受け手にとっては、その場所がもともと持っている歴史や文化の固有性ではなく、言ってしまえば、どこにでもあるような「類型的な場所」が、「ここがあのキャラクターが歩いた場所か」というような、物語(フィクション)を通じて獲得する固有性なのです。

物語評論家のさやわか氏は、この「類型的な田舎の風景」が、日本のサブカルチャーの中で繰り返しテーマ化されてきたことを指摘します。では、その意味とは何なのでしょう。

ところで、一見すると「類型的な田舎の風景」というのはノスタルジックな憧れの対象にもなりそうです(たとえば『となりのトトロ』(1988年))。しかし、ある時期以降、主人公である若者たちにとってそれは、退屈で居心地のよくない「悪い場所」として感じられてきたのだと言います。

したがって、かれらにとって切実なのは、「いまここ」からいかにして抜け出すのかという問題だったのです。岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(1993、95年)や『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)は、その典型的な例だといいます。




(1970年01月01日)

 
これらに通底するテーマは、どこにでもあるような「どこか」という「悪い場所」、にもかかわらず、「どこにも行けない私(たち)」、という意味論的葛藤なのです。

ここではない「どこか」へと超出する

では、「悪い場所」を舞台に物語はどう展開していくのでしょうか。著者は、二つの方向性があると言います。

ひとつ目は、「悪い場所」から空間的に脱出するという方法です。たとえば、先ほどの『打ち上げ花火…』では、主人公の少年とヒロインとが東京(またしても類型的な「都会」!)へと駆け落ちしようとします。

そして、二つ目は、時間的に遠ざかるという方法です。たとえば、PCゲーム・アニメ『ひぐらしのなく頃に』のロケ地は岐阜の白川郷ですが、その物語は空間的な超出ではなく、時間的な遡行可能性をモチーフにしています。

若者たちは空間的なダイナミズムの欠如を不能感の原因とはせず、代わりに時間的なダイナミズムに求めることで困難を乗り越えていく

では、どこへと超出するのか。じつはそれこそが、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群のテーマだったのですが、ともあれ、その時間的反復は、大抵の場合、SF的な想像力を媒介するという意味で、きわめて非日常的なものです。

第三の方法:溶け込んでいく解決

さて、さやわか氏は表現手法の観点から、アニメ『氷菓』を、「いまここ」をむしろ肯定的に引き受ける「ポスト・セカイ系(=日常系)」の作品として位置づけます。

二〇一二年に放映されたテレビ アニメ『氷菓』における番組後期のオープニングシーンを挙げることは可能だろう。この映像には主人公が水中に落ち込むような描写のあとで、それが日常風景そのものへ溶け込んでしまうというシークエンスがあるのだ。

省エネ主義の奉太郎は、古典部の中でもいつも一歩引いたところにいます。それは彼が「いまここ(=「薔薇色の学園生活」)」を充分に引き受けることができない、と感じているからです。そんな彼を、えるは謎解きへと連れ出すのです。

オープニングの映像は、「いまここ」から離陸(夢)した奉太郎が、えるや古典部のメンバーを媒介に、再び「いまここ」の日常へと着地(覚醒)するというものです。

『氷菓』は二〇〇一年から書かれている米澤穂信のミステリ小説 シリーズのアニメ化だが、米澤はその中でミステリというジャンル性をうまく利用しつつ、明確に「ここ」からの離脱ではなく、現在に留まりながら過去を見据えるというテーマを展開させている。すなわち、ミステリとはその場にとどまったままで過去へ思いを馳せ、現在へ接続する形式なのだ。

重要なのは、推理が真実と一致しているかどうかではなく、えるが納得できるかどうかが問題だということです。ここでは、いかなる時空的な超出をも経ることなく、徹底して「いまここ」へと溶け込んでいくことによる解決が図られているわけです。

優しさの理由

ここではない「どこか」から「いまここ」への転回。ですが、『氷菓』について言えばそれは、「いまここ」が居心地の良い「よき場所」であることを必ずしも意味しないでしょう。つまり、<「悪い場所」、にもかかわらず、「どこにも行けない私(たち)」>というセカイ系的意味論が、依然として生きられているわけです。

たとえば、22話「遠まわりする雛」のラスト・シーンで、えるが奉太郎にある告白(?)をするのですが、それは彼女が、必ずしも肯定的とはいえない「いまここ」を、しかし、積極的に引き受けようとする姿勢に他なりません。だが、どうしてなのか。

その理由は、比喩的に言えば、「ここではないどこか」の不可能性なのではないか、つまり、「もはや私たちには『いまここ』しかない」ということを知っているからではないのか、と。

You can’t escape

米澤穂信『氷菓』サブタイトルより

 

最後に高山市の風景をご覧ください。

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(1970年01月01日)

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