大澤真幸『憎悪と愛の哲学』:敵が友になるとき

大窪善人




(1970年01月01日)

 

愛と憎悪は別のものではない、むしろ、「憎しみがあるからこそ愛がある」。たびたび小説や映画などで描かれるテーマです。むしろ、陳腐と言ってもよいでしょう。が、なぜそうなのか。なぜ、”愛”が正反対の”憎しみ”でもあるのか、理由はよく分かりません。
このパラドックスへの理論的な解答にチャレンジするのが、本書です。

 
「憎悪があるからこそ愛も成り立つ」。著者は、このテーゼを確かめるために、コンテクストの異なる、さまざまなエピソードを引用していきます。
原爆投下についての日本と米国の感覚の違いにはじまり、原爆を投下した米高官の奇妙な回心、「原子力ムラのドン」と呼ばれた森一久の挫折、そして、鎌倉幕府執権・北条泰時と朝廷の関係、映画『スター・ウォーズ』の父と息子の葛藤…。

個々のエピソードはたいへん興味深いのですが、そこではまだ「事実としてそうしたことがありうる」ということが分かるだけです。「なぜそうなるのか」という問いが理論的に深められるのは、後半に出てくる歴史概念においてです。

ベンヤミンの遺稿「歴史哲学テーゼ」は、とびきり難解で謎めいています。が、ここから、著者は、「歴史の可変性」を導き出します。
歴史上、英雄として死んだ人物が、死後になって評価されなくなるという例はよくあります。逆に、悪人とされた人物が、後世に英雄として再発見されることもあります。

ここでのポイントは、悪人や敵であった者が復活するためには、復活以前に、憎悪の対象でなければならなかった、ということです。つまり、復活=愛は、憎悪を前提にしてこそ成り立つ、と。

 
なぜ憎しみが生まれるのか?

愛するためには、前もって憎しみがなければならない。しかし、この逆説は、どう受け止めればよいのでしょうか。もう少し議論を延長して考えてみましょう。

そもそも、憎悪とは相手に対する否定的感情、著しい敵意のことです。この憎悪が激しくなると、殺人や戦争のような暴力へとエスカレートします。
ドイツの政治学者 カール・シュミットは、この憎むべき敵と味方との境界づけこそが、政治(political)の本質であると定義しました。

では、なぜ敵意や憎しみは生じるのでしょうか。シュミットは、相手が敵となる理由について、たんに、相手が自分(たち)とは異なる「他者」だからであると言い切ります。

ふつう、私たちが憎しみを抱くのは、相手が道徳的に間違っているとか、経済的に競合しているからなどと考えますが、彼は、それらは一切関係なく、他者は、ただ「他者である」という理由だけで憎悪の対象となりうると言うのです。

 
普遍性への志向

このシュミットの定義は、かなり独特ですが、非常にクリアなところがあります。
しかし、なぜ、他者であるだけで憎む理由になるのでしょうか。ひょっとすると、背後に一神教的な思考があるのではないでしょうか。

一神教においてもっとも許しがたい行為、それは、別の神を信じることです。異なる神を崇拝する存在とは、まさに絶対に調和不可能で、場合によっては殲滅しなければならない「他者」に他なりません。

つまり政治的な敵の原型とは、この”異教徒”ではないのでしょうか。とすれば、憎むべき敵を愛することが、いかに難しいことかが見えてきます。

 
ところで、米国の原爆投下に対して、日本人が強い憎悪を抱かないというエピソードは、これに関係するかもしれません。
異教徒を激しく敵視するのは、相手が、神からみて絶対に調停できない他者だからです。そこには、普遍性を志向する峻厳な態度があります。

愛の前提としての憎悪。しかし、愛にまで転回するほどの過剰な憎悪を持てるかどうかは、普遍性を志向する強い態度と、それを支える社会的・宗教生活的条件の違いにかかっているのかもしれません。

 
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